仲麻呂の首級

 山部王が味方を探してうろついていると、「仲麻呂を討ち取った!」という声が、湖の方から聞こえてきた。

「よっしゃー」

 腹の底から声が出てきた。

 黄文王様の仇を討つことができた。宿奈麻呂様の恨みも晴らすことができた。仲麻呂卿が死ねば、都に残っている一派も力をなくす。巨悪が倒れたので、朝廷の風通しが良くなり、政を正常化させることができる。公卿から民までが笑って暮らせる世の中になる。

 自分たちは勝ったのだ!

 命がけで戦った自分にも恩賞がもらえるだろう。朝廷で出世する糸口が掴める。苦労した甲斐があって、すべてがよい方向へ回るのだ。

 山部王が声に釣られるように砂浜に走り降りると、十人程の人だかりができていた。

 雨は知らないうちに止んでいて、砂浜に大きな波が打ち寄せている。

 砂浜に乗り上げた船から、二人の男が死体を降ろし仰向けにして横たえる。暗くてよく分からないが、たぶん仲麻呂卿だろう。

「正一位太政大臣ともあろう者が、哀れな姿になった」

 男は死体の横の砂地に太刀を突き刺した。

 砂に刺した太刀の先を支点にして勢いよく太刀を降ろすと、ザクッという音がして、胴体から首が離れて転がった。切られた首からは血がしたたり落ち、赤い肉が松明の光に照らされた。転がった首の髪は乱れて垂れ下がり、松明の光を受けて目が光る。血塗られた口は半開きで、呪いの言葉をはき出しそうだ。

 男は、髪の毛を鷲づかみにして首を持ち上げると勇んで古城に向かった。棄てられた胴体が淋しそうに波に洗われる。首と切り離された胴体は人の体だったとは思えない不気味さがある。

 山部王はうずくまって吐いてしまった。吐いても後から後へと出てくる。酸っぱい液が口中に広まり腹が痛くなる。

 しばらく吐くと、山部王は立ち上がることができるようになった。

 近くにいた兵から、「刀を納めろ」と注意され、抜き身の刀を握りしめていることに気づいた。

 刀を鞘に収めたが、柄を握っていた右手が痺れてうまく開くことができない。

 黒い雲が消えると丸い月が出てきて、松明がなくても歩けるくらい明るくなった。風も湖から押し寄せる波もおさまってきた。

 ついに仲麻呂卿を倒すことができた。橘卿や黄文王様も草葉の陰で喜んでいることだろう。明日から天下が新しくなる。

 太政大臣として権勢を欲しいままにした者が都を追われ、逆賊として最果ての地で殺されてしまった。因果応報。悪には悪の報いがあるのだ。

 砂浜から上がると、鎧を脱いで狩衣姿になった早良が、両手を合わせて経を読んでいた。

「仲麻呂卿のために経を唱えるのか」

「『戦いに勝つも、喪礼をもってこれにる』といいます。仲麻呂卿は悪政を行いましたが、死んで骸となったからには、冥福を祈ってやりたいと思います」

「仲麻呂卿は、黄文王様や道祖王様など多くの人を殺し、有意の人々にに罪を着せた。宿奈麻呂様や自分も殺されかけた。無残に殺されても文句をいう権利はない。経を読んでやる必要などない」

 早良王は山部王の言葉に応えず、両手を合わせ、目を閉じて再び経を唱え始めた。

 山部王は「勝手にしろ」と言って、焚き火を目指して歩き始めた。

 早良は後ろで見ていたから、敵も葬ってやるなどと言えるのだ。自分は太刀を持って戦い殺されそうにもなった。自分を殺そうとした敵などに経を読んでやる必要などない。

 歩きながら甲冑を脱ぐと、体は軽くなったが、雨と汗に濡れた狩衣が風に吹かれて寒くなる。

 何回も足を滑らせながら古城の庭にたどり着くと、月の光の中に戦の跡が浮かび上がってきた。戦いの前は、背の高い葦が茂っていて見通しが悪かったが、葦はすっかり踏み倒されて、思った以上の広場ができていた。

 倒された柵、踏み荒らされた葦原には多くの死体が転がっている。何本もの矢が刺さって仰向けになっている者、馬に踏みつけられて崩れた顔、小さな子供に覆い被さるようにして倒れている母親。手があらぬ方へ曲がっている者、腹から腸がはみ出ている者、目と口を大きく開け、空を睨んでいる者たちが無造作に横たわっている。

 焚き火に当たり体が温まってくると、生きているという実感が湧いてきた。

 山部王は、改めて辺りを見回した。

 うずくまって痛みに耐えている者、手当の順番を待っている者も十指では足りない。闇の中からうめき声も聞こえてきた。

 山部王が手に持っている鎧には、何カ所も切られた跡があり、折れた矢が何本も刺さっていた。甲には刀を受け止めた跡が二箇所もあった。

 自分の鎧甲は、明信から借りた上等な物だから、斬りつけられても刀を弾き、矢が当たっても体に達しなかった。胴丸しか付けていない者や、いい加減な作りの鎧しかない者が怪我をしたのか。

 近くの闇が蠢いた。

 刀に手を掛けて身構えたが、敵の残党ではなさそうだ。

 鬼が死体を食らいに来たのだろうか、それとも、死体から鎧や太刀をはぎ取っているのだろうか。

 山部王は鎧甲を置き、太刀の柄に手をやって音を立てないように近づいた。

 月の光に男の横顔が浮かんできた。

「種継じゃないか。何をしている」

「早良に言われてな。死んだ者を敵味方に関係なく葬ってやろうと思う」

 種継は引きずっていた死体を放すと、腰に手をやって伸びをした。

「味方は分かるが、敵も葬るのか。自分たちを殺そうとした奴らだぞ」

「仲麻呂は敵だったが、配下で戦っていた者は、たまたま朝廷から仲麻呂の元へ派遣されていた授刀舎人たちだ。個人的な恨みなどない。兵の他にも下男、下女、子供までいるが、巻き添えになっただけで罪はない。本当は長生きできたはずだ」

 種継は下人に手伝わせ、死体を北枕にして市場の魚のように並べてゆく。並べ終わると、下人たちと穴を掘り始めた。

「早良が言ったんだ。敵の兵士にも、父や母がいれば、女房、子供もいる。死んだ者たちは故郷に帰ることもできなければ、孝行することも、子供と遊ぶこともできない。せめて、冥福を祈ってやろうって。もっともなことだと思ったよ」

 種継は汗をふきながら穴を掘り続けた。三尾の古城は砂地で穴は掘りやすいらしい。すぐに幾つもの穴を掘ることができた。

「仲麻呂の一家は全員殺されたそうだ」

「女子供もか?」

 種継は首を縦に振って答えてくれた。

「山部王も手伝ってくれ。『人を殺すことのおおければ、悲哀をもってこれに泣き、戦いに勝つも、喪礼をもってこれにる』のだそうだ。戦は何も生み出しはしない。仲麻呂を倒せば世の中が良くなると考えたが、目の前の惨状に虚しさを感じる。死んだ者たちが狼や犬に食われるのはかわいそうだ。せめて土の中に埋めて弔ってやろうと思ってな」

 仲麻呂卿を討つという目的は正しかったはずだが……。

 早良や種継の言うとおり、敵であれ味方であれ多くの人間が死んだ。自分が幸せに生きたいと思っていたのと同じように、死んだ者たちにも人生があったはずだ。自分は鎧甲が良かったせいで生き残ることができたが、運が悪ければ、地面に並べられている仲間になっていたかも知れない。

 一将功なりて、万骨枯る。

 仲麻呂卿を倒し手柄を立てることばかり考えていたが、戦とは虚しいものかもしれない。

 山部王と種継は、掘った穴に死体を埋めるため、頭と足に別れて腰を下ろし、「せいのっ」と声を出して死体を持ち上げた。

 死体は冷たく、見た目よりもずっと重い。折れた右腕がだらりと垂れた。

 死体の顔から、長い髪がはらりと落ちる。血の気のない顔は、月の光に照らされて青く見える。

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