古城の戦い

 仲麻呂を追撃した山部王たちは、三尾(滋賀県高島市)にある古城で仲麻呂勢に追いついた。

 三尾の古城は、湖に突きだした、三角形の小さな土地の上にあった。柵に手入れされている様子はなく、雨ざらしにされてきた柱は朽ちて、ところどころ倒れている。柱を繋ぐ横棒は残っている方が少ない。人の背ほどに育った葦が、壊れかけた建物を覆い尽くそうとしていて、古城というよりも廃墟とか幽霊屋敷という方がふさわしい。

 灰色の雲は厚く、真昼だというのに夕暮れのように暗い。雨は止みそうになく風も強い。湖には白波が立ち、下人が持ってきた旗がパタパタとせわしく音を立てている。馬を止めると、汗と雨に濡れた下着が急に冷えてきた。

 古城には、柵や塀の残骸が邪魔をして馬で乗り込むことはできそうにない。いくつかの焚き火が見え多くの人の気配がするが、葦に隠れて敵の姿はまばらにしか見えない。

 柵の北側、馬で一駆けのところに、三十人ほどの武具に身を固めた一団がいた。二人ほど立って見張りをしているが、他の人間は、座り込んだり寝転んだりしていていて、山部王たちに攻撃を仕掛けてくる様子はない。

 山部王と種継は、軍の先頭にいる宿奈麻呂のところまで馬を進めた。

「柵の北側にいる一団は、愛発関から出てきた兵たちでしょうか」

 山部王が大きく手を振ると、見張りの男が手を振り返して答えてくれた。

「物部広成殿は愛発関を閉じることに成功したらしい。越前や美濃からの援軍が望めない仲麻呂は文字どおり袋の鼠になった。太政大臣として天皇をしのぐ権勢を誇り、錦の衣を着て宮中を闊歩していた者が、雨に打たれ、葦原で惨めに焚き火をしている姿はあわれだ。積年の恨みを晴らしてやる」

 宿奈麻呂が馬を出すと、山部王と種継も続いた。三人の後ろには、騎馬五十騎、徒歩百五十人が続く。

 柵に近づくに従って敵兵が出てきた。折れた矢が鎧に刺さったままの者、血に染まった布を腕に巻く者たちから殺気が飛んでくる。

 矢が届くところまで近づくと宿奈麻呂は馬を止め、鐙を踏ん張って立ち上がった。すかさず山部王と種継は矢を構えて敵に備えた。

「仲麻呂がいるのならば出てきて良く聞け。この前に痛めつけてくれた礼を返そう。今度はきっちりとお前を殺してやる」

 宿奈麻呂の声に釣られるように狩衣姿の老人が前に出てきた。

「宿奈麻呂ではないか。無能なお主が大将をしているとは笑わせてくれる。儂の前に跪け」

「いいざまだ。正一位と威張っていた影もない。すでに都は太上天皇様が押さえ、愛発関、不破関、鈴鹿関は閉じられ越前や美濃から援軍が来ることはない」

「儂は正一位太政大臣である。太政官符によってすぐに万の兵が集まれば、お前たちを蹴散らすことは虫を潰すよりも容易い。この場で降参するのであれば、命だけは助けてやろう」

 宿奈麻呂は大笑いした。

「仲麻呂が出す太政官符などは、とっくの昔に太上天皇様が無効にしている。集まる兵は儂の傘下に加わるだろう」

 宿奈麻呂は大きく息を吸った。

「逆賊どもに告ぐ。仲麻呂の首を差し出せば罪一等を減じ、死罪を免じる」

 宿奈麻呂は刀を抜いて高く掲げた。銀色の刀身が曇り空に伸びる。

「太上天皇様より賜った節刀を見よ。天皇様を畏れ敬うならば、我が刀の前にひれ伏せ」

 宿奈麻呂が「弓隊前へ」と号令を掛けると、徒歩の兵の中から楯を持った者が前に出て壁を作り、楯の後ろに弓を持った兵が控えた。

 山部王や種継も馬を下りて、楯の後ろに進み弓を構えた。

 矢をつがえ、音をさせながら弦を引き、仲麻呂に狙いを定める。

 宿奈麻呂の「放て」という号令と共に山部王は矢を放った。

 敵味方の間に矢が風を切って飛び交い、小気味の良い音を立てて楯に当たる。

 山部王は続けて矢を射るが、敵の楯に当たるか人のいない土手に刺さるかして、敵を倒すことはできなかった。

 しばらくすると敵の矢の数が目に見えて減ってきた。

「仲麻呂を討ち取った者には、恩賞を望みのまま与える」

 宿奈麻呂の声に、兵たちは刀を抜くと、ワーという掛け声をあげて古城めがけて走り出した。山部王も弓を放り出し、太刀を抜いて周りの兵と一緒になって走り出した。

 山部王が草に足を取られながら塀の残骸を乗り越えたとき、矢が飛んできて甲に当たった。矢はかん高い音を立てて後ろに飛んでいき、甲の振動が頭から足の先へ走る。矢が飛んできた方を見ると、片膝をついた小柄な敵が二射目を構えていた。

 山部王が太刀を振りかざしながら大声を上げて敵に走り寄ると、敵は背を向けて逃げだした。刀を大きく振り上げて敵の背中に斬りつける。刀は鎧の上を滑るだけだったが、敵は前のめりに倒れ、後ろから来た味方に踏みつけられた。

 古城は敵味方の怒号と女子供の悲鳴が渦巻き、倒れた兵を雨が容赦なく打ち付けていった。

 山部王の太刀が敵の太刀とぶつかって火花が散った。つばぜり合いをすると敵と目があう。泥にまみれた顔、歯を食いしばり血走った目は鬼だ。

 山部王は腹を蹴られて倒され、仰向けになったところを足で踏みつけられた。敵兵が構える太刀が黒い空を背景にして光る。

 殺される!

 と、目を閉じたとき、腹の重しがなくなった。

 山部王は跳ね起きると、うつぶせに倒れている敵の背に太刀を突き立てた。肉を裂き骨を砕く振動が、太刀から伝わってくる。敵は二、三回手足をばたつかせたがすぐに静かになった。

「大丈夫か」

 肩をたたかれて振り向くと種継が立っていた。種継が敵を倒してくれたに違いない。

 礼を言おうと思ったが、息が上がり喉が嗄れて声が出ない。

「行くぞ」

 と言う種継の声に、山部王は太刀を握り直して走り出した。

 山部王は無我夢中で走り太刀を振るった。向かってくる敵は当然、逃げてゆく敵の背中にも切りつけた。何人の敵と渡り合ったか、分からなくなった。敵と刃を交えるが、敵を倒したかどうかさえ定かでない。敵の太刀を甲で受け止めると、大きな音が頭に鳴り響いた。敵の刃を払うために太刀を振り回し、何回も斬りつけられ、鎧の上を敵の太刀が滑っていった。

 山部王が息切れして立ち止まると、怒号や太刀を合わせる音は収まっていた。喉が渇いて焼けるようにいたい。呼吸は荒く全身が熱い。

 本降りの雨が山部王に降り注ぎ、鎧の隙間から湯気が上った。甲の中が蒸れて気持ちが悪い。鎧は泥だらけになり、ほころびもある。背負っていたはずの矢籠めはなくなり、左手の籠手には刀で切られた跡があった。手に持つ太刀も所々で刃こぼれしている。

「戦が始まってからどのくらい経った。戦は勝ったのか」

 種継に話しかけたつもりだったが、返事はなかった。

 太刀を地面に刺して杖代わりにして辺りを見回す。

 葦の原は踏み荒らされて見晴らしが良くなっていた。日が暮れて人は黒い影としか見えない。近くに敵はいないが、味方もいない。古城のどのあたりにいるのか全く分からなかった。

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