讃良の骸

 讃良?

 藤原讃良だ。親が死んで仲麻呂卿の屋敷に身を寄せているとは言っていたが、まさか仲麻呂卿と一緒に都を抜け出していたとは。

 笑顔が可愛らしい娘だった。人なつっこい仕草がとても新鮮で、初めて会った自分に好意を寄せてくれたことがとても嬉しかった。

 東大寺から仲麻呂卿の屋敷近くまで、わずかの間だったが、一緒に歩けて楽しかった。相聞歌も交わすことができたし、おしゃべりも良かった。気持ちを通わせることができたと思う。久しぶりに嫁にしたい女と感じた。そして、嫁取りの最後の機会だとも感じた。

 明後日の十五夜に逢い引きするはずだったのに……。

 讃良は、仲麻呂卿の屋敷にいたとはいえ暴政とは無関係だ。殺される理由など何一つない。自分は讃良と戦っていたのか? 自分が讃良を殺したのだろうか。

 一体自分は何をしていたのだろうか。

 掘った穴に讃良をそっと置く。半開きの目を閉じるために、顔に手をやると氷のように冷たかった。小さな唇は閉じていて、二度と笑いかけてくれることはない。

 顔に付いている泥を拭い、腕を胸の前で組んでやる。折れた腕はうまく組むことができない。

「知り合いか」

「いや、一度町中で会ったことがあるだけだ」

 一度会っただけだが、一生そばにいて欲しいと思った娘だった。

 山部王は、両手を合わせ冥福を祈ってから、穴の横に積まれていた土を手ですくってかけた。サーという音がして、讃良の衣の上に土が散る。

 足に土をかけ、体に土を盛った。土を一すくい、二すくいするうちに、讃良の体は埋もれていく。顔にそっと土を乗せてやる。

 顔を埋めては息ができない……。

 讃良はもう死んでいるから息をすることはない。讃良とおしゃべりすることも、明るい笑い声を聞くこともできない。

 讃良はどんな思いで死んでいったのだろう。

 讃良と一緒に歩いた時間はとても楽しかった。自分の人生の中で宝石のように輝いている。でも、もう、讃良は輝くことはない。

 讃良を完全に埋めて立ち上がり、溜め息をつきながらあたりを見渡すと、近くには幾つもの土饅頭ができていた。悲しげな読経の声が風に乗ってくる。早良王が唱えているのだろう。

 多くの人間が死んだ。豪華な保良宮も立派な瀬田橋も焼け落ちた。

 戦は壊すだけで何も生みはしない。

 山部王と種継が次の死体を埋めようとしたときに、女の悲鳴が聞こえてきた。

 悲鳴の元へ走っていくと、篝火の近くに、十五、六人の男女が正座させられていた。男たちは後ろ手に縛られて逃げることができい。胴丸を着けた兵士もいるが、大半は下男下女のようだ。

 縛られた人たちは口々に「殺さないで」とか「許して下さい」とか泣きながら訴えている。

 篝火を背に、宿奈麻呂が太刀を抜いて仁王立ちになっていた。太刀は篝火を受けて輝いている。

「宿奈麻呂様、いかがなされた」

「山部王と種継か。良いところに来た。こいつらを成敗するから手伝え」

「成敗とは」

「知れたこと。こいつらは仲麻呂と同じく謀反人だ。この場で殺す」

 女が泣き声とも悲鳴ともつかない声を上げた。

「我らは勝ちました。これ以上の人死には無用です。見れば、仲麻呂卿の元にいた授刀舎人や下女たちではないですか。仲麻呂卿に罪はあろうとも、これらの者に罪はありません」

 山部王は、宿奈麻呂と正座させられている者たちの間に割って入った。

 篝火を背にした宿奈麻呂の顔は黒い影の中に埋もれて見えないが、目だけが光っている。髪は乱れ、鎧に刺さった矢がピクピクと生き物みたいに動く。

「じゃまだ山部王。かばい立てするのならばお前も同罪として斬るぞ」

 泣いていた女が山部王の足にすがってきた。

「頭を冷やして下さい。戦は終わり仲麻呂卿は死にました。宿奈麻呂様は多くの死体を見て何も思わないのですか」

 仲麻呂卿に付いてきたために讃良は死んだ。本当なら子供を産んで、明るく楽しく生きられるはずだ。ここにいる者たちにも親がいれば想う人もいるだろう。悲しむ人を増やしてはいけない。讃良のような悲しい目に遭わせてはいけない。

 山部王が両手を水平にして通せんぼすると、右に種継、左に早良王が並んでくれた。

 宿奈麻呂は刀を振り上げた。

「どけ! どけと言ってるのが分からないのか」

 宿奈麻呂様の目は血走って赤く光っているし、顔の半分と右手は血だらけだ。声も、体から出る殺気も人のものではない。宿奈麻呂様は悪鬼にとりつかれたのだ。

 宿奈麻呂は一歩前に出て、山部王と種継を押しのけようとした。

「宿奈麻呂様!」

 山部王が、宿奈麻呂の頬に拳を入れると宿奈麻呂は倒れて仰向けになった。

 宿奈麻呂は気を失ったのか動こうとしない。

 早良王が経文を唱えながら、宿奈麻呂の上体を起こして背中に回り、両肩に手をやって活を入れた。

「後は俺に任せておけ」

 種継は早良と一緒に、宿奈麻呂に肩を貸して連れて行った。

 山部王はとらわれている者たちの縄をほどいてやると、女は体にすがって泣き、男は何度も頭を下げて礼を言ってくれた。

「お前たちは自由だ。国へ帰るも良し、都に戻るも良し。好きにしろ」

 泣いていた女が立ち上がり、山部王の両手を取って礼を言うと、他の男女も同じように手を握り礼を言って立ち去っていった。

 少しは良いことをしたのだろうか……。

 葦の上に大の字になって寝転ぶと、空には丸くて白い月が浮かんでいた。雨を降らしていた雲は完全に消え、空の果てまで見通せそうに空気は澄んでいる。北から南に向かって銀河か流れ、大小の星が瞬いている。

 十五日には讃良と月を見るはずだった。佐保川で讃良が作ってくれた飯を食べ、楽しく話をして、一緒に屋敷に帰るはずだった。

 讃良の笑顔はとても可愛いくて、握った手は柔らかく温かかった。

 今、自分は一人で月を見上げ、讃良は冷たくなって土の中で眠っている。

 諸悪の元凶だった仲麻呂卿が死に、朝廷は晴れた空のようにすっきりとするはずだ。積年の仕事をやり遂げたはずなのに、虚しいのはなぜだろう。

 世の中がひっくり返るような事件か起きて、自分が英雄として活躍することをいつも夢見ていた。仲麻呂卿の反乱は、大活躍する好機だとばかりに勇んで都を出てきた。

 結果はどうだ。刀を振り回していただけで、英雄になるどころか種継に助けてもらわなければ死んでいた。

 実際に讃良は死んでしまった……。

 讃良は死んでよい人ではなかった。讃良の他にも多くの人が死んだ。死んだ人は笑うことも泣くこともできない。

 人の肉を裂き骨を砕いた感覚がよみがえってきた。

 自分が死にたくないと感じたように、自分が殺した人間も生きたいと思っていたことだろう。

『人を殺すことのおおければ、悲哀を以て之に泣き……』

 戦は壊すだけで、何も生み出しはしない。

 山部王は目を閉じるとそのまま寝入ってしまった。

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