第七章 千年の都
千年の都
千年の都
長岡京の失敗から二年後の延暦十三年(七九四年)十月二十二日。
鱗雲の間からは、新京を祝福するような柔らかい日の光が降り注ぎ、秋茜の群れは、赤い敷物を敷いたように空を彩っている。船岡山や周りの山々は繍の衣を着ているように色づき、収穫が終わった田からは籾殻を焼く白い煙がまっすぐに上り青い空に散ってゆく。突然の訪問者に猿が逃げ惑い、鹿の群れが北に向かって走っていった。
山頂に着いた桓武天皇は爽やかな秋の風に吹かれ、造宮職の和気清麻呂の説明を受けながら、内裏や新京を眺めた。
「長岡京の失敗から、わずかの期間で新京に住むことができるようになった。清麻呂をはじめとして新京の造営に尽力した者たちに感謝する」
船岡山に立ち新京を眺めると心が大きくなってくる。
南北には一条大路から九条大路まで九本の大路、東西には東京極大路から西京極大路まで九本の大路が碁盤の目のように規則正しく敷かれている。大路で区切られた「条坊」はさらに小路で分けられて百二十メートル四方の「町」に分けられる。まだ町屋や公卿たちの屋敷は少ないが、新京の台所となる東西の市場が長岡京から移されたことで、人々の暮らしは便利になり街は活気づいてきた。
新京には自然の川がないため、東西に堀川を整備し生活水を確保した。東の鴨川、西の桂川沿いには、
北にある船岡山は玄武、南の巨椋池は朱雀、東の鴨川は青龍、西の山陰道は白虎とみなされ、新京は四神相応の土地であると評された。
山は泰然として人々の暮らしを見ている。川は常に入れ替わっているように見えるが、滔々とした流れは昔から変わっていない。村々の様子も子供の頃に山野を駆け巡っていたときから変わっていない。幼い頃から朝廷では様々なことが起こってきたのに、何事もなかったようでもある。往事は茫々として多くの人々はすでに亡い。歴史に選ばれた事物が残っていくのであろう。
古の仁徳天皇は、村々から竈の煙が立ち上がっているのを見て、政がうまく行っていることを確認したという。『聖武朝の仏寺造営で天下の富の半分を使い、桓武朝の遷都で三割を使ってしまった』とか『当年の
明信が進み出て「遷都の詔です」と詔書を渡してくれた。
「葛野の大宮の地は山河襟帯にして、自然に城を為す。この形勝によりて新号を制すべし。よろしく
宇太京……。
平城京や長岡京では多くの争いをしてきた。
橘卿の変、宿奈麻呂の変、仲麻呂卿の乱、和気王の変、佐保川髑髏事件、宇佐八幡神託事件、光仁天皇呪詛事件と井上皇后母子の暗殺、氷上川継の変、そして、種継暗殺と早良の自死……。争いの結果、小波や
『
聖徳太子は人々に争うなと教戒を垂れた。聖徳太子の教えを知ってはいたが、自分は多くの争いに加わり、多くの人を傷つけ陥れてきた。
もう争いを起こしてはならない。争いの連鎖を遷都と共に断ち切るのだ。
「清麻呂や明信、公卿らは良く聞け。人々が和して争うことのない世の中を作るために新京を『平安京』と名付ける。朕は残りの生涯を掛けて民が笑って暮らすことができる平和な国を創ることを誓う。皆の助力を期待する」
明信や清麻呂たちが跪いて頭を下げると、平安京を祝福するように日の光が降りてきた。
桓武天皇が作った平安京は、北東に高く南西に低い地形をしている。右京(
桓武天皇の後、朝廷は内政、外交について急速に興味を失ってゆき、都を遷して政治の刷新を企てる気力や気概、新都を建設する財力もなくし、結果として平安京は千年以上にわたって日本の都であり続けることになった。
桓武天皇は人々が争わないようにという願いを込めて「平安京」と命名したが、桓武天皇の後も、伊予親王の変、薬子の変、承和の変、応天門の変と争いは尽きることがなかった。
千年の都 しきしま @end62
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