大雨
「お目覚めでしょうか」
寝ぼけた頭に、明信の声が聞こえてきた。視界がはっきりしてくると、明信が心配そうな顔をして横に座っていた。
日は昇っているらしく、部屋の中は明るいが、依然として激しい雨音が聞こえる。
ずぶ濡れになったはずの寝間着は乾いていて、布団はほんのりと暖かく気持ちがよい。
早良の怨霊は夢だったというのか。
「お体の具合はいかがでしょうか」
上体を起こし、両腕を真上に上げて伸びをする。
「頭はすっきりしているし、気持ちはよい」
明信は、ほっとした顔をした。
「縁側でずぶ濡れになって倒れているのを見たときには、びっくりしました」
ずぶ濡れになって倒れていた?。
「早良や井上皇后の怨霊は本当にいたのか」
明信が答えようとしたときに、部屋の外から何かが崩れる音と、女の悲鳴が聞こえてきた。
布団から飛び起きて戸を開けると、庭は茶色の泥で埋め尽くされていた。激しい雨の中で、土砂が川となって流れている。
泥をかき分けて舎人が寄ってきた。
「式部省南門が山崩れで流されました。何人かが生き埋めになっています」
「山崩れ! 生き埋めになっただと」
桓武天皇は寝間着のまま式部省に急いだ。
式部省の建屋には、人の何倍もある大きな岩がめり込んでいた。南門は土砂に倒され、数間移動していて、何人もが懸命に泥を掘り返している。
依然として風雨は激しく、桓武天皇や救出に当たっている人々に打ち付けてくる。
「再び山崩れが起きるかも知れません。天皇様は安全な場所にお移り下さい」
「朕のことなどどうでも良い。早く人を連れてきて、生き埋めになっている者を助けよ」
天皇の命令に采女が走り出していった。
「山崩れが起きたというのに、出てくる人間が少なくないか」
明信は、
「清麻呂殿が宮中の舎人や采女、兵や下人たちを町の救援に回していますので、宮に残っているのは数えるほかありません」
と答えてくれた。
「兵を町に回しているだと? 町がどうしたというのだ。今は何時だ」
「正午を回ったところです」
「昼過? 朕は一体何をしていたというのだ」
「天皇様は水浸しの廊下に倒れていました。寝所にも雨が入ってましたので、寝所を移しお召し替えをいたしました。天皇様が床に伏せっておいでの間も大雨が続き、長岡京は、小畑川をはじめとして中小の河川が氾濫し、家屋敷や人が流される事態となり、清麻呂殿が宮中の舎人や兵を救助に派遣しました」
天皇は急いで朱雀門に上った。門の上から見える長岡の町は濁流に呑み込まれていた。
強い雨を吸収するかのように、小畑川の濁流は見ている間にも太くなり、蛇が身をよじるように流れを変えて、長岡の町を壊している。町屋や公卿の屋敷で無事な物は一つもない。家屋敷は良くて床上まで水に浸かり、たいていは半壊している。屋根が崩れ、柱がむなしく空に向かって立っている。桂川、木津川、宇治川も茶色の濁流を巨椋池に注ぎ、いつもの何倍も大きくなった池が町の南側を飲み込んでいる。壊れた屋根が淀川を船のように流れていった。
空は暗く、桶の水をまくように降っている雨は止みそうにない。雨幕に顔を洗われ、ずぶ濡れになった衣から雨がしたたり落ちる。
「人々は無事に逃げることができたのか」
隣にいる明信は何か話しているが、雨音が大きくて聞き取れない。代わりに、空から笑い声が聞こえてきた。
見上げれば、幾つもの白い光が戯れながらゆっくりと西の山を目指して飛んでいた。
「長岡京が流されてゆく。国を立て直すために始めた遷都が無になってゆく」
天皇の声は雨の中に消えていった。
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