早良親王の怨霊
桓武天皇は種継の死後も造営を続け、延暦十一年(七九二年)の六月には、平城宮の諸門を
老若男女、貴賤を問わず人々が朱雀大路に出てきて、笛を吹き太鼓を鳴らし始めた。内裏から、祝いの料理と酒が人々に届けられると歓声が起こる。料理と酒は際限なく振る舞われ、人々の笑い声や歌は絶えることがない。青い空には鳥が舞い、深緑に染まった山の木々は爽やかな風に揺れ、透き通るような美しい川には魚が飛び跳ねている。
桓武天皇が遷都の詔を発するため、朱雀門に現れると宮を揺るがすほどの拍手と歓声が起こった。
桓武天皇は右手を挙げて民衆に応える。
目が覚めると黒い天井が見えてきた。拍手に思えたのは、大粒の雨が屋根に当たっている音らしい。
朝までにはまだ時間があると、瞼を閉じたが、妙に頭が冴えて眠れない。
再び目を開けると、白く透き通ったものが宙をただよっていた。
起き上がろうとしても、縄で地面に縛り付けられているみたいに、体を動かすことはできない。手や足も動かすことができず、首も回らなければ声すら出ない。
白い煙のようなものは、右に左にゆらゆらと動き、しだいに色を濃くしてゆくと人の形になった。
怨霊だ! 自分を殺しに来たのか。
冷たいものが背筋を走り、全身から冷や汗が吹き出してきた。鼓動が激しくなって苦しい。
『誰だ! 何をしに来た』
心の中で叫ぶと白い雲は消え、体の自由が利くようになった。
急いで上体を起こすと、額からは脂汗がしたたり落ち、汗で濡れた衣が体にひっついてきた。
気がつくと、正面に見覚えがある人影が座っている。
「早良……。なのか」
小柄な体に、四角い顔。すっと通った鼻筋に、きりりと閉められた唇。意志が固そうな目に太めの眉毛。早良に違いないが、背後の壁が透けて見える。
「何か言いたいことがあるのか。自分に言いたいことがあるのならば話せ」
早良はすっと立ち上がると、そのまま宙に浮いた。
手や足を動かすことなく、棒立ちのままで早良が飛んできた。
ぶつかる!。
桓武天皇は思わず両手を顔の前で交差させて防ごうとした。
目の前が真っ白になり、冷たい風が体の中を通り抜けていく。
大雨が屋根を叩く音に気がつくと同時に、体中の毛穴から汗が噴き出してきた。
背後に気配を感じて振り向くと、早良は戸口に立っていた。
「早良の無念は重々承知している。怨霊となって困らせるようなことはしないでくれ」
無念の死を遂げた者は成仏せずに現世を彷徨い人に禍をもたらすという。早良が死んだ頃から、日照りや飢饉、疫病が流行してきたが、すべて早良の怨霊の仕業なのだろうか。仏教に深く傾倒し、民の幸せを考えていた早良が、人々に祟るとは、なんという悲しいことか。
「早良を死なせた罪は自分にある。早良の恨みや無念は自分が一身に引き受ける。祟るのならば、自分だけにせよ。言いたいことがあれば聞く。やって欲しいことがあれば叶えよう。だから成仏してくれ」
早良は一言も発することなく、戸口に溶け込むように消えていった。
桓武天皇は飛び起きると、戸を勢いよく開けて縁側に出た。
雨戸は激しい雨に打たれて震え、隙間から大量の水が流れ込んでいる。
両手で雨戸を開けると、滝のような雨が降っていた。吹き付ける雨であっという間に、頭のてっぺんから足の先までずぶ濡れになる。
闇夜なのに大きな雨粒が見える?。
不思議に思い顔を上げると、白く光る人影が三つ、宙に浮いていた。
早良に井上皇后と他戸親王の怨霊だ。
早良が死んで、抑えていた怨霊が復活したのだ。
強い雨風をものともせず、白い蝶が春の畑を戯れながら飛ぶように、三つの影はじゃれ合いながら宙を舞っている。
雨幕が音を立てて通り過ぎると、白い影がさらに一つ増えた。
不破内親王の怨霊まで出てきた!。
隣の人の声すら聞こえそうのない雨音なのに、怨霊たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
四つの影に引き寄せられるように、幾つもの白い火の玉が長岡の上空に集まってきた。
平城京で無念の死を遂げた人の亡霊が飛んでいる。井上皇后や不破内親王が、多くの怨霊を引き寄せているのだ。
滝のような雨に全身を打ち付けられて息ができなくなり膝を付いた。
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