法華寺の対決
山部王が十人の兵を連れて法華寺に着いたとき、道鏡は、南門の奥に用意された輿に乗り込もうとしてるところだった。道鏡が乗ろうとしている輿の屋根には、天皇の象徴である鳳凰が乗っている。
山部王が門の前に立つと、連れてきた兵たちは山部王の後ろに整列した。
「車駕を止めよ」
山部王が大声で叫ぶと、盛装した担ぎ手が一斉に山部王の方を向き、武装した兵たちが、輿を守るように山門の中で人垣を作った。
「天皇様が崩じられたのに車駕を動かすとは何事か」
完全武装した兵の奥から、紫色の袈裟で盛装した道鏡が睨みつけてきた。金糸がふんだんに使われた袈裟付羅衣は、晴れの儀式で見かければ思わずひれ伏してしまうほどの威厳がある。
「何者だ。拙僧の行く手を遮るな」
「自分は白壁王の息子、従五位上の山部王だ。道鏡禅師を門から出すわけにはいかない。禅師は、すみやかに寺に戻り、亡き天皇様の供養をされよ」
「従五位ごとき卑官が何を言う。直ちに道を空けよ!」
道鏡は山部王の髪の毛が震えるほどの大声で怒鳴りつけてきた。道鏡の兵は太刀に手を掛け、山部王の兵は後ずさりする。
「鳳凰を屋根に乗せた輿は天皇様専用である。臣下である道鏡禅師が車駕に乗るは不敬だ。ただちに降りよ」
「拙僧は前帝より法王を賜った。車駕に乗るのは当然である。拙僧を敬い畏れるならば、すみやかにひれ伏せ」
「天皇様を敬うことは人後に落ちることはないが、権力欲に満ちた坊主を敬う趣味はない」
道鏡は目をギラつかせて睨んできた。
「山部王は拙僧を内裏まで先導せよ」
道鏡の威厳ある言葉に、山部王は跪きそうになった。
「禅師を通すわけにはいかない」
「拙僧は内裏へゆかねばならない。拙僧が進むと言えばお前は如何にする。拙僧に刃を向けるのか」
権力欲にまみれているとはいえ、道鏡は三宝の一つに数えられる僧で、しかも最高位の僧侶だ。道鏡が乗ろうとしている車駕は天皇の権威そのもので、指を差しただけでも不敬とされる。僧や車駕に斬りつけることはできない。
和気清麻呂殿は自らを犠牲にしてまでも道鏡の即位を阻んだ。僧侶である道鏡を傷つけたり殺したりすれば仏罰が当たるが、清麻呂殿と同じように、自分を犠牲にしても道鏡の即位を妨げねばならない。自分一人が滅びることで天下を救うことができるのであれば本望だ。
道鏡は目の前にいるが、刀で斬り込めば、目の前にいる五十人の兵に行く手を阻まれ、たどり着く前に斬られてしまう。矢を射ようとしても、敵の人垣が邪魔をして道鏡に矢は届かない。
連れてきた兵はわずか十名だが、敵は五十名もいるから、戦闘になれば自分らは皆殺しにされてしまう。加えて自分の兵は、道鏡の権威と、鳳凰が乗った輿に畏れをなして浮き足立っているから、戦う前に勝敗は決まっている。
戦えば味方は全滅。兵たちには親や妻子がいてそれぞれの人生がある。自分が死ぬことはしかたがないとしても、兵を道づれにしてはいけない。三尾の古城で戦をしたときの悲しい思いを繰り返したくない。
種継が中衛府の兵を連れて来れば、数で圧倒できるが、間に合いそうにない。
どうすればよいのか。
「内裏へ参ろう。どかねば踏みつぶしてゆけ」
道鏡が車駕に乗り込むと、下人たちが車駕を担ぎ上げた。
山部王は連れてきていた兵から弓を受け取ると、矢をつがえて車駕に向けた。
「天皇の車駕に矢を向けるとは不敬である。直ちに矢を降ろせ!」
道鏡の怒鳴り声は、山部王がつがえた矢を震わせた。
「不逞の輩が射る矢が拙僧や車駕に当たるものか。矢は神の怒りに触れて、射た者に跳ね返されるであろう。すみやかに車駕を出せ」
山部王は大きく息を吸いながら、車駕の屋根にいる鳳凰に狙いを定めた。
金色の鳳凰は日の光を浴びて神々しく輝き、今にも飛び立ちそうに両の羽を広げている。
弦を引くと弓のしなる音がする。
車駕を足止めすることすらやってはいけないのに、畏れ多くも車駕に矢を向けてしまった。道鏡を内裏へ入れてはいけないとはいえ、やって良いことと悪いことがあるではないか。車駕に矢を向けることは謀反そのものだ。
天罰が当たってもしかたがないことをしている。宿奈麻呂様のように、罪は一身に引き受けよう。
「道鏡禅師の参内を
山部王は息を止め、矢を放った。
矢は気持ちよい音を立てて宙を飛び、鳳凰の足を射抜いた。鳳凰は車駕の屋根を転がり、大きな音を立てて地面に落ちて砕け散る。
「ワー」と下人や兵が声を上げ、狼狽した数人の担ぎ手や兵が車駕を離れてしまった。
車駕は前のめりに倒れ道鏡は放り出された。混乱した何人かが逃げて行く。道鏡の手勢は三十人に減った。
道鏡が土を払いながら立ち上がると、騒いでいた者たちは口をつぐんだ。
「山部王の狼藉を謀反と断定する。遠慮はするな。山部王をこの場で斬り殺せ」
山部王が弓を棄て太刀に手をやったとき、平城宮から駆けてくる一団があった。
土埃と一緒にやってきた兵たちは、あっという間に法華寺の門を封じるように、三重の人垣を作った。兵の数はおよそ七十人で、すべて鎧甲で完全武装している。
「中衛府から兵を連れてきたぞ」
「兄さん、間に合って良かった。時間稼ぎご苦労様」
種継と早良王は息を切らしながら言う。
「全員抜刀」
山部王の号令に、兵たちは刀を抜いて高く掲げた。
白刃の林が日の光を弾いて輝くと、道鏡の下人や気の弱い兵は悲鳴を上げながら寺の中に逃げていった。残った十数人の兵も太刀を構えながら後ずさりしてゆく。
「血を流すのは自分の本意ではない。道鏡禅師におかれては、天皇様の菩提を弔うために、法華寺に戻っていただきたい」
「太刀を下げ拙僧を通せ」
「どうしても参内するというのならば、刀によって一言申し上げます」
山部王は太刀を構えてゆっくりと、道鏡を睨みつけながら前に出る。道鏡も視線をそらさず睨み返してきた。種継が連れてきた兵も、道鏡の手勢も二人がぶつけ合う気迫に押されて身動きできない。
山部王が道鏡に三間のところまで近づいたとき、道鏡は目をそらした。
「山部王と言ったな。拙僧は絶対に許さない。いずれきつい仕置きをするから覚えておけ」
道鏡が身を翻して寺の中に入ると、道鏡の兵たちも後に続く。
「南門を閉じよ」
山部王の命令で、山門が大きな音を立てて閉じられた。
汗がどっと噴き出してきて、太刀がひどく重い物になる。太刀を持つ手は、痺れて動かせない。
種継は山部王の肩を軽く叩き「お疲れ様」とねぎらってくれ、早良王は「兄さん、すごいや」と感嘆の声を上げて喜んでいる。
「法華寺の門を全て閉じよ。法華寺に出入りする者はすべて取り調べ、持ち物を検めよ」
山部王の命令に、種継が連れてきた兵が散ってゆく。
道鏡を寺に封じ込めることができた。呪詛に通じた禅師であっても、空を飛んで内裏へ入ることはできまい。このまま閉じ込めておけば、道鏡は天皇様の遺詔とやらを読むことができない。
山部王たちが一息ついているところへ、明信が手を大きく振りながら走り寄ってきた。
「大事件よ!」
宮中で何か起こった? 道鏡の別働隊が騒ぎを起こしたのか。それとも、国体が定まらない隙を突いて誰かが兵を挙げたのか。いずれにせよ一難去ってまた一難だ。
息を切らした明信は次の言葉を出すことができない。山部王は明信に深呼吸するように言った。
「白壁王の小父様が次の天皇様に選ばれたわ」
山部王と早良王は顔を見合わせた。
「本当に父さんが天皇になれたのか」
「嘘や冗談で言うことじゃない」
明信は微笑みながら続ける。
「称徳天皇様が崩御されてから、公卿が集まって次の天皇様を誰にするかという会議を開いていたの。吉備真備様と
「遺詔というのは、あからさまに嘘くさいな」
「真備様も山部王さんと同じことを考えたでしょうね。結局、白壁王様は聖武天皇の
「ということは?」
「白壁王の小父様が天皇様、井上内親王様が皇后様、他戸王が皇太子様に決まったのよ」
「父さんは、聖武天皇様の血を引く他戸が大きくなるまでの中継ぎという訳か」
皇后と皇太子は順当な人選か。父さんは六十を超していれば、十年も天皇を続けられないだろうが、十年すれば他戸も二十を越える。世の中はうまくできている。父さんは性格が悪い井上内親王様に困っていたけれども、良いことがあったということだ。
「天皇様が決まれば道鏡なんて恐くない」
「種継の言うとおりだが、恐い思いをして自分が何をやっていたのか分からなくなる」
「山部王さんが頑張らなきゃ、道鏡禅師が台閣に乗り込んで大混乱してたと思う。ひょっとしたら、即位を宣言していたかも」
「おいおい、今日からは山部親王様だぞ」
種継が笑いながら言うと、明信が嬉しそうに拍手し、近くにいた兵たちは立て膝になって頭を下げた。
「ところで、あれは何?」
明信は門の前に散らばっている金色の物体を指さした。
「車駕の上にあった鳳凰だ。自分が打ち落とした」
「まあ! 山部王さんは何て畏れ多いことをしたの。罰が当たらないかしら」
「親王様だから大丈夫だ」
種継の言葉に四人は大笑いした。
「親王様」か……。全然実感がわかない。
深呼吸すると、秋の乾いた空気が胸の中に広がった。暖かい日の光で身も心もほぐされ、道鏡と対峙したときの緊張が解けてゆく。
父さんが天皇になれば、自分も参議として台閣に席を持つことができるかもしれない。参議として父さんを助け、他戸が即位するときには右大臣になって政を行う。聖徳太子の理想の国創りに一歩近づけたんだ。
「法華寺の中にいる道鏡に、新天皇様のことを伝えてやれよ。奴は涙を流して喜ぶぞ」
「種継は人が悪いが、おもしろそうだ。道鏡禅師の野望を打ち砕くために、明信は中に入って伝えてもらえないか」
明信は「承知つかまつりました、親王様」と笑いながら寺の中に入っていった。
神護景雲四年(七七〇年)八月四日、称徳天皇が崩御した後、白壁王が天皇に選出された。道鏡は下野国薬師寺別当に左遷、弓削浄人ら道鏡が引き上げた一族や側近はことごとく流罪となり、和気清麻呂や不破内親王ら道鏡によって罰せられた者は復位し、朝廷から道鏡一派は一掃された。
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