第2話 思いがけないハネムーン
「ただいま~」
「ただいま戻りました」
一ヵ月程前に、聖紋持ちである自分にブチブチ文句を付ける一派をリスベラントでぶちかまして帰国し、手を出してくる人間が滅多に来なくなってからも、『本国の意向』とやらで女装して同じ学校に通っているルーカスと、いつも通りいがみ合いながら帰宅した藍里は、玄関に入って挨拶しても無反応だった為、靴を脱いで上がり込みながら怪訝な顔になった。
「お母さん、居ないの?」
奥に向かって軽く呼びかける藍里の横で、ルーカスも軽く顔を顰める。
「今日はマリーは、リスベラントに出向く予定だったか?」
「ううん? そんな事は無かった筈。まだ買い物から帰ってないのかしら?」
グレン辺境伯夫人兼、総内務長官夫人としてリスベラントの貴族社会での付き合いにも顔を出している万里は、夫程ではないにしろ忙しい日々を過ごしていたが、その日この時間に家を空ける予定は耳にしていなかった二人は怪訝な顔を見合わせた。しかしそこで二階から物音が聞こえて来た為、二人は無言のまま慎重に二階に上がって、音がしたと思われる部屋の様子を窺ってみる。
「……お母さん?」
僅かに緊張しながら、静かにドアを開けて室内を覗き込んだ藍里だったが、目に飛び込んで来た光景に、思わず脱力しそうになった。
「あ、お帰りなさい! もう少ししたらご飯の支度を始めるから、ちょっと待っててね!」
それはすこぶる上機嫌に振り返った母がベッド上と言わず床と言わず、衣類や小物の類を広げていた為で、藍里の背後から覗き込んだルーカスも、その惨状に唖然となった。
「それは良いんだけど……。こんな時間にこんなに服を出して、何やってるの? 衣替えは、この前済ませたばかりよね?」
その問いかけに、万里が嬉々として立ち上がり、娘に報告し始める。
「聞いてよ、藍里! 私達、新婚旅行に行く事になったの!」
「はぁ? いきなり何を言いだすのよ?」
「ほら、私、結婚してすぐに界琉を身ごもったから、新婚旅行なんかできなかったのよね。ある程度界琉に手がかからなくなったら、今度はダニエルがリスベラントの仕事で忙しくなっちゃって。満足に纏まった休みが取れないまま、ずるずると今まで来ちゃったのよ」
言われた内容を藍里は思い返し、納得して頷いた。
「そうね……。言われてみれば、家族揃って纏まった日数の旅行って、昔私がアルデインに行っていたつもりで、実はリスベラントに行っていた時位? でもひょっとしてその時も、お父さんは仕事をしていたとか?」
そう疑問を呈した娘に、万里が力強く頷く。
「そうなの。だけど今日付けで、リスベラント公宮の総内務長官を辞職する事になってね。そうしたらダニエルが『伸ばしに伸ばしていた新婚旅行をするか』って言ってくれて、超豪華客船での世界一周のツアーを申し込んでくれたのよ!! 三か月よ? 部屋はロイヤルスイートよ? 六日後にイギリスのサウザンプトンから出航するから、もう準備が大変!」
「ちょっと待って! 何、その急な話は!?」
「グレン辺境伯が総内務長官を辞任!? そんな馬鹿な!!」
両手を組んでのハイテンションな万里の話を聞いて、いきなりの降って湧いた話に藍里は仰天したが、彼女以上に衝撃を受けたルーカスが藍里を押しのける様に前に出て叫んだ。しかし万里は彼の動揺には全く注意を払わず、上機嫌のまま話を続ける。
「あら、殿下。本当の事ですよ? 情報がまだ伝わっていないんですか? おかしいですね……。まあそんな事は、どうでも良いですけど。ええと、水着も持って行かなくちゃいけないし、ドレスコードもきちんと考えて靴やバッグも一通り揃えて持って行かないとね。それから虫除けとか必要な薬も……。必要な物を書き出して、急いで買い出しに行かないと!」
そして再び室内を行き来しながら、持ち物を揃える事に没頭し始めた万里を見て、何を言っても駄目だと悟った藍里は、溜め息を吐いてルーカスを促した。
「……これ以上、ここに居ても無駄だわ。行きましょう。今日の夕飯は私が作るから」
その申し出に、ルーカスも沈鬱な表情で頷く。
「そうだな。俺は早速事の真偽を、ジーク達に確認してみる。部屋にいるから」
「分かった。準備ができたら、声をかけるわ」
そうして二人で元通りドアを閉めて廊下に出た二人は、それぞれ必要な事をするべく左右に別れた。その後、夕食を作り終えた藍里がそれぞれの部屋に籠もっていた二人に声をかけ、三人揃って夕食を食べ始めたが、女装を解いて一階に下りてきた当初から、ルーカスの顔色がどことなく優れなかった為、訝しんだ藍里はその理由を尋ねてみた。
「食事時に、何辛気臭い顔をしてるのよ。ちゃんとジークさん達から、お父さんの辞職について話を聞いたんでしょう?」
「ああ。まあな」
渋い顔をして肯定したルーカスに、万里がおかしそうに笑いかける。
「間違い無かったでしょう? だってダニエルも『急に身を引く事になって忙しかったが、皆快く了承してくれて、関係各所との引き継ぎを何とか終わらせられそうだ』って言ってたし」
「……ええ、そうですね」
万里の話を聞いてルーカスが益々渋面になったのを見て、藍里は何となく釈然としないものを感じた。
「そんなに急だったの? 確かお父さんの役職って、リスベラントでは相当偉いんじゃなかった? それなら普通に考えたら、急に辞めるのって難しいと思うんだけど……」
「だって界瑠とクラリーサさんの婚約が、急に公表されちゃったし」
「え? どうしてお父さんの辞職と、界瑠の婚約が関係するのよ?」
益々わけが分からなくなった藍里の隣で、ルーカスが僅かに顔を強張らせたが、万里は彼の表情には気付かないふりをして娘に対して噛み砕いて説明した。
「だって公爵家からすれば、娘婿の家族は外戚になるわけじゃない? 歴史的に見て、そういう人物が要職に在る場合、色々な問題が生じ易くなったり、妬みの対象になるでしょうが」
それを聞いた藍里は、素直に納得した。
「あ、なるほどね。だからお父さんは予めトラブルになるのを避ける為に、この機会に自分から進んで辞める事にしたわけだ」
「厳密に言えば、公爵様から『辞めてはどうか』と打診されたそうなんだけど。父と息子で、それぞれリスベラントとアルデインの要職を占めるのは如何なものかと、難癖を付ける人間が出かねないもの」
「確かに居そうよね。さすが公爵様、慧眼だわ」
うんうんと感心して頷いた藍里だったが、その横でルーカスが弁解する様に声を上げた。
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