31. 浅き夢見し(1)

 そのまま、目を開けなかった。


 白い死に装束は、沙也さやが大急ぎで縫い上げてくれた。

 小督こごうはいつもどおりの静かさで、亡骸を清め、髷を直してくれた。

 棺へは、相模さがみが納めてくれた。


 表には、棒手売りのタカや、気のいい三人組、越後屋から走ってきたのだろう松吉まつきち。他にも顔見知りとなった人たちが大勢やってきていた。

「お結衣ゆいちゃん。俺たちに運ばせてくれや」

 そう言って、彼らは棺を担ぎ上げる。

 列の先頭に立たされる寸前、ふわりと白い衣を被せられた。

「女の喪主は白い被衣をするのよ」

 そう言って奈津なつは俯いて、走り去ってしまった。

 横に立った伊織いおりはぐずぐずと鼻を鳴らしている。

「結衣姐ちゃん」

 袖を引っ張られて、無理矢理笑おうとしたが無理だった。

 よろめく。

 肩を抱かれる。

 う、と声が零れて、止められなくなる。


 結衣は大声を上げて、泣いた。




 そんなこんなの騒ぎは昼前だったのに、今見える外の空気は赤い。どれだけ眠っていたのだろう。

 頭の下には座布団が押し入れられ、体には布団が巻き付けてある。自分でやった記憶は全くない。だが、よく考えれば、火屋に出かけるあたりから全てが曖昧だ。

「起きたか?」

 声に、視線だけ動かす。

「相模さん」

 どっかり胡座をかいた彼は、笑って見下ろしてきていた。脇には煙草盆、膝の上には帳面。

 いつもなら帳場でやっていることだ。だが、ここは帳場ではないな、と瞬く。

 すん、と鼻を鳴らして、煙草の匂いの中に線香のそれが混じっているのに気が付いた。体を起こして見回して、一番奥の部屋だ、と知る。

 さして広くはない部屋。滅多に入らない、仏壇の置かれたそこだ。

 相模は静かに、奥の壁に置かれた漆塗りの棚を指差した。

「お結衣のお母さんも置いといたぞ」

 ずらっと位牌が並んでいる。その一番手前に、結衣がさっき抱えていた位牌が置かれている。

「うん。ありがとう」

 もう、下総の楠見くすみの家に持って行けることはないだろう。

 子供の顔を見て安心しきった母は、此処で力尽きてしまったのだから。

 棚では線香が細い煙を立てている。膝でにじり寄って、結衣は手を合わせた。

 目を閉じると、何も分からなくなる。

「今日、静かだね」

「騒ぐ気分になる奴なんかいねえよ」

「母様のせい?」

 結衣は眉を下げた。相模はふっと笑う。

「せい、じゃない。ために、だ。気にするな」

 うう、と結衣は口を尖らせる。

「皆さん、優しい」

「そうか?」

「だって…… あたしも母様も、何の縁も無いのに」

「縁はあるだろう? 榮屋に来たっていう」

 彼は喉を鳴らす。

「ここは無宿者が集まって、生きていくためのところだ。もし亡くなったら、此処で弔ってやる」

 結衣は首を振って、体の向きを変えた。仏壇を背に、相模をまっすぐ見上げる。

「榮屋は」

 問うと、一重の瞳がゆるり細められる。

「此処は何のお店なの?」

 彼は膝の上の帳面を閉じて、床に下ろした。

「口入屋だよ」

「どんな人たちが集まってくる?」

「博打に盗み、たかり、そんな理由で捕まった後だったり。里から逃げてきていたり。そんなワケあり連中が集まってくるところさ」

 小さく笑って。

「もう一度お日様の下で生きたい、暮らしたいと願う奴らの頼る処を作りたい。それが旦那に言われたことだ」

 相模は呟く。

「旦那様は町奉行様と――藩主様がこの間おっしゃってた」

「正確には、前の、な。旦那は水野御老中と仲が悪いんで追いやられた」

 溜め息を吐いたその顔から目を逸らさず、結衣は頷いた。

「相模さんは、いつ、お会いしたの?」

 すると、彼は笑った。

「俺は、十五で村から逃げ出して、江戸に来た。田舎から何も持たずに来た奴が、簡単にまともな仕事にありつけるわけもなくて、賭場を開く小悪党の手下に収まったんだ」

 それで、と先を促すと笑みが曲がる。

「最初はその賭場に文句をつけてくる奴を追い払う役目。それが、イカサマの片棒を担ぐようになって、暴れるようになって、その親分のところを追い出された。そこで懲りるんじゃなくて、もっと暴れるようになった。本当に盗みと脅しに手を出してたんだよ。ようやく捕まった時には、博徒連中にまで避けられるようになっていた」

 遠くを見遣り、彼は煙管を手にした。静かに煙草を詰め込んで、火を付ける。細い筋が昇る。

 緩やかに吸い込んで、吐き出して。

「牢屋にぶち込まれて、そこで初めて、町奉行の旦那に会った」

 相模は静かに言った。

「鞭打ちに水責め、何をされても黙ってる。それなのに、死にたそうな目をしてる、と笑われた」

「笑われ…」

 結衣はぽかんと口を開けた。相模は、くくく、と喉を鳴らす。

磔刑はりつけにするのは簡単だ、だが面白いから生かしたい、だと。それで人足寄場に送られた。無事に出た暁には、自分のところに顔を出せって言ってな」

 ふう、と煙を吐き出して、相模は遠くを見遣る。

「二年、寄場でこき使われて――それでも働く技なんてまともに身につかねえし。唯一できるようになったのは読み書きくらい。追い出されて途方に暮れてたら、身重のお沙也に会ったんだ」

「お沙也さんに?」

「あいつも奮ってるぜ。死にたくない、赤ん坊を産んで育てたい、でも家は無い。仕事も無い。妙案なんかないから、二人で慌てて旦那のところに駆け込んだんだよ」

「それが此処?」

「そうだ」

 頷かれる。

「旦那は、俺みたいな奴のために口入屋を始めていた。だけど、本業の町奉行に他の仕事にと手一杯だって言ってな。俺に此処だけ任せてきたんだよ――条件付きで」

「何を言われたの?」

 静かに、もう一度煙を吸って、吐き出して。

「死ねぬと思うまで生きてみよ」

 相模は目を伏せて、笑った。

「これより先、咎を背負い、何を踏みつけることもなく、死ねぬと思うまで生きてみよ、ってね」

 煙草の火が消える。

 結衣は黙って、部屋を見回した。煤けて、それでも曲がらない桟や梁。真っ直ぐに立つ柱たち。炊事場から米の炊ける気配が漂ってくる。

「榮屋を潰すわけにはいかない」

 冴える視線に、結衣も背筋を伸ばす。

「お沙也がいる。伊織がいる。小督に松吉といった、ここから街に戻っていった連中がいる。まだまだここで食い扶持を稼いでいる奴らがいる。皆がいる限り――俺は死ねないな」

 だから、生きるのだ。

 顔を伏せる。

「お結衣」

 呼ばれて、身を固くする。

「明日からどうする?」

 ぐっと唇を噛む。

「……兄様を捜さなきゃ。火を付けたこと、ちゃんと償わなきゃ」

「賢太郎はどうでもいいんだよ。あんたはどうするんだって」

 彼は喉を震わせる。

 身を竦める。

「あんた、俺が怖くないな?」

 瞬く。

「極悪人なのは分かっただろう?」

「でも今は、違うでしょう?」

 顔を上げて、睨む。彼はまた火皿に煙草を詰めていた。火を移して、煙を立てて、吸い込んで。

 彼は、ふう、とその煙を結衣に吐きかけてきた。

 堪らず目を瞑る。

 息を止める。

 唇を塞がれる感触がした。肩に腕が回されてきたのも分かる。

 それに身を委ねると、呆気なく胸元に飛び込まされた。やっと溜め息を零す。

「温かい」

「そりゃそうだ」

 ははは、と笑って、彼は頰を撫でてきた。

「お結衣」

 耳元で呼ばれ、背中を揺らす。

「下総に帰るなんて、もう言うな。あんたも此処にいろ。俺が全部引き受けてやるから」

 うん、と頷く。顔を厚い胸板に擦り付けた。

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