21. 有為の奥山(1)
「一雨欲しいわねぇ」
ぱたぱたと扇子を動かしながら、
「駄目です」
ざぶざぶ、盥の中で白い布が何枚も泳いでいる。その中身を踏みつけながら、
「今降ってきたら、乾きませんから」
「どうせ、あいつらのふんどしでしょう? 大丈夫よ、半乾きで」
「生乾きで臭かったら困るじゃないですか!?」
「大丈夫大丈夫。どうせすぐ汗でびしょびしょになるんだから」
はあーっと大きな息を吐いて、彼女は縁側に寝転んだ。
「あー駄目、暑い。髪を結い直すのも面倒くさい」
「あたしで良ければ、後でやりましょうか?」
足を一度止めて問うと、沙也は跳ね起きた。
「お願い!」
やがて広がったふんどしたちが作る影、風鈴の音色。
鏡台の前に座った沙也の後ろに立ち、彼女の髪を梳く。黒々と豊かな、と思っていたそれの中にはところどころ白いものが混じっていた。
沙也を結っていると、
「わたしもお願い、お結衣ちゃん」
頷くと、沙也がけらけら笑う。
「ごめんねお奈津、先に取っちゃって」
「大丈夫です」
「いつも二人でやり合ってるものねえ、羨ましいわ」
沙也の表情にすっと華が差した。
「子どもの頃、将来の旦那さんと髪を結い合いっこする夢を見たことがあるわ」
瞬いて、手を止める。腰のある髪が掌から逃げていきそうになったので、慌てて梳き直す。
「あんたたちはできるかもねえ」
まだ沙也は笑っている。奈津は両手で頬を押さえて、
――旦那さん、旦那さん……
ああ、と胸の裡で叫ぶ。
「もう、兄様とお奈津ちゃんの莫迦! あたしまで変になっちゃうよ!」
がしゃん、がしゃん、と音を立てて、鉄瓶を囲炉裏に戻す。お盆の上に湯呑みを載せて、足を帳場に向けた。
今日も、彼はそこにどっかり座り込んでいる。
真夏だ。なのに、いつもの着流し姿だ。腕は見えない。
――あの着物の下に、本当に入墨があったら、どうするの?
「いや、それよりも…… 見ること自体如何なの?」
「随分デカい独り言だな」
振り向いた
「何が見たいんだ? 賭場はこの間行っただろ。歌舞伎か? それとも、浅草まで雷門でも見に行くか?」
それに何も答えられない。横を向く。
「なんだよ…… つまんねえな」
「つまんなくないもん」
「ああ、はいはい」
「麦茶いる?」
湯呑みを差し出すと、彼はすっと持ち上げて、一気に飲んだ。
横合いからその顔を見つめる。
帳簿を睨む一重の瞳、すっと通った鼻筋、薄い唇。太い首。くっきり浮き出た鎖骨。滑らかな胸元。
――ああ、もう! お奈津ちゃんの莫迦!
かっか、かっか、頬が熱い。何処にも逃がしようがない。
――お奈津ちゃんだけじゃないんだから! あの日に突き飛ばしてくれた三人も悪い!
ちょくちょく顔を出す三人組を思い出して、結衣は戸口を向いた。
ちょうど、一つ影が駆け込んでくる。
息が荒い。
「おう、どうした留蔵? おまえさんも恋煩いかい」
相模が呼ぶと彼は真っ赤な顔を上げた。
「莫迦言うんじゃねえ! 一大事だ」
はあっ、はあっ、と息を切らしながら、震える手を上げて、北を差す。
「川で舟が引っ繰り返ったんだ!」
相模がぱたんと帳面を閉じる。
「それで?」
「積んできた材木も流れて行ったんだが、人が…… 人が……」
結衣は両手で口元を覆う。
「乗っていた人も流されちゃったの?」
「お結衣」
ぎくっと肩を揺らす。
「二階で寝ている奴を叩き起こしてこい。人手が要るぞ」
何度となく人が行き来する。
「今日は舟が多かったんだと」
「最初に引っ繰り返ったやつにぶつかって、さらに何隻も引っ繰り返ったらしい。沈んだのもある」
「
話も届く。そのうち、相模も走っていってしまった。
陽が傾く頃合いになっても通りは騒がしい。
「お沙也さんとお結衣ちゃんの手も借りたいってさ」
やってきた飛脚の
「晩飯の支度はどうするのさ」
「握り飯にでもしとけってさ」
「まあ、それしかないけどねぇ」
くるり振り返った彼女は、胸の高さにある息子の頭をぐりぐりと撫でた。
「
「はぁい……」
「お奈津、悪いけど握り飯作っておいて。くれぐれも火は使わないようね」
奈津がこくん頷いた。その奥で、小督も静かに首を振る。
「じゃあ行きましょうか、お結衣」
「手ぶらでいいんですか?」
「何も言われてないんだから平気でしょ」
喋っている間にもう裾が翻り始める。下駄の音がいつになく煩わしい。
川にかかる大橋の袂。両岸とも材木問屋の並びだ。今日だけは賑わいが違う。野太い声がいくつも響く。
歩いていく人の数も多い。中には羽織袴に上品な髷の武士もいる。
「辰之助様だ」
見知った顔を見つけて、ぽつんと呟いた。
通りの反対にいる彼はさすがにこちらは見えないらしい。数人で固まって動いていて――その真ん中の人を真ん中から出さないように陣を組んで、歩いていく。
北側、橋戸町の河岸まで行くのかもしれないとぼんやり見送る。
――相模さんも忙しいんだろうなぁ。
教えられた材木屋の戸口を覗くと、狐面が手招いてきた。
「こいつを洗ってくれってさ」
盥に山積みにされた手拭がある。妙に黒い。斑に染められている。
「怪我の手当てに使ったやつなんだよ。洗って干しといてくれって」
「ああ、それでお結衣を呼んだの」
「姐さんよう…… それだけじゃねえと思わねえ?」
「分かってても、今は無視だね」
半眼になった狐面ににっこり微笑んで見せた沙也は、ぐいっと袖をまくった。
「さっさと終わらせよう、お結衣」
「はい」
幸い、洗い場はすぐそこだ。
盥に水を流すと、どろりと赤い渦が広がる。
錆びた匂いが上がる。
「血だ」
言うと、みぞおちの辺りがぎゅうっと締め付けられた。
喉をせり上がってきたのを無理矢理呑みこむ。
「これまた随分派手に怪我したんだねえ。何人分だい」
沙也は澄ました顔で、手を動かす。
ぎゅっと眉を寄せて同じことをしているうちに、感覚なぞ分からなくなってきた。
良く聞けば、奥から呻き声が聞こえてくる。幾重にも、幾重にも。
――苦しんでる。
浮いてくる涙は、まっすぐに盥の中へ落ちて行って、赤い渦と混ざっていく。
こら、と沙也に額を叩かれた。
「具合悪いなら休む!」
「いえ、大丈夫」
「真っ蒼な顔していうことかい、おバカだね!」
「嫌です、やります」
ぐいぐいと腕を動かす。水に赤が広がる。
「あーあ、お結衣も頑固な江戸の女になっちゃったよ」
沙也が朗らかに笑うのが聞こえた。
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