20. 我が世誰ぞ常ならむ(10)

 辰之助たつのすけ結衣ゆいに気が付いたらしい。目を大きく見開いて、見つめてくる。

 やいやいと騒ぐ三人組からそっと離れて、反対側の並びに向かうと、彼もすいっと動いてきた。

 賽子さいころの動きに盛り上がる列の端で顔を合わせて、お互い吹き出した。

「こんなところで何をしているんだい?」

「今夜は寝てはいけませんから」

「だからって年頃の娘が賭場に顔を出すのは感心しないよ?」

「はい」

 眉を下げると、ケラケラと笑われた。

「まあ、他に楽しみがないというのも理解はできるけどね」

 え、と目を丸くする。

「水野ご老中はそのあたりご理解なさらないらしいけど。人間、息抜きは必要なんだよ」

 ほら、と彼はしなやかな指先を向ける。

「あそこをご覧。お奈津なつの父親だ」

 花札に興じている一角。円に座る男たちの中の一人は、向島で見た男だ。札を睨んで笑っている姿に、さあっと顔から血の気が引く。

「家族を取られても博打をするの?」

「僕も驚いたよ」

「お奈津ちゃんが来てなくて良かった」

「あはははっ。ここで親子喧嘩が始まっても困るからねえ。それに」

 肩を竦められる。

「女はどうしてもその体を賭け札にされてしまうことがあるからね。お奈津がそんな目に遭うようなら僕はこの刀を抜くよ」

「はあ」

「君も充分に気を付けたまえ」

 だけど、と辰之助はその瞬間だけ鋭い視線を巡らせた。

「そうでなくても、目を配ってもらっているみたいだね」

 彼の視線の先を追えば、襖の影でひっそりと立っている男が一人。

「あれはここの胴元の手下だろう」

 結衣は頷く。何度となく見かけている顔だ――最初に売られそうになった時にも、奈津が連れて来られた日にも、越後屋と一緒に動いていた男。

「君にちょっかいを出そうという男をさっきから牽制している。僕のことも隙あらば叩き出そうとしているようだ。下町の用心棒如きが小賢しい」

 結衣は眉を寄せた。

――ここに居るのはお武家様より、普通の下町の人が多いと思うのですが。

 言えずにいるうちに、辰之助はまた肩を竦めた。

「まあ、さっきの口上も効いてるよね」

「え?」

 見上げると笑われた。

榮屋さかえや相模さがみの名前で腰が引けるというところが小者なんだよ」

 ふんっと鼻を鳴らし。

「まあ使えるなら、悪名でも何でも使えばいいさ。僕は遊びに戻るよ」

 ひらりと手を振られて、はあ、と息を吐いた。


――兄様のこと、言えなかった。


 眉を寄せたまま、踵を返すと、前にずっと影が立った。

「疲れましたか?」

 見上げれば、先ほどの男だ。

「えっと――」

松吉まつきちでごぜえやす。相模さんには御恩がありまして」

 瞬くと、笑われた。

「おまえさんに怪我させるわけにはいかねえ」

「あの」

 と思わず、彼の袖を掴んだ。

「ここの人たちは相模さんが怖いの?」

「怖い?」

「名前を聞いただけで吃驚するじゃない」

――最初に助けられた夜だってそうだった。

 だが、松吉は満面の笑みになった。

「成程、怖いという者もおりましょう。だがあの人は何でも懐に入れる。だから怖いというのは、今後ろめたいものを抱えている最中だって奴だけですよ」

 そういうものかと首を捻るが、何も思い浮かばない。

「あっしも昔は榮屋に出入りして食ってたんですよ。それを越後屋ここの旦那が気に入ってくださって、引き入れてくれたんで」

「働きを見ててくれたんだ」

 越後屋の意外な面を聞いた気がする、と瞬く。

「まあ、そうなんすけど。きっかけを作ってくれたのは相模さんなんで」

 松吉は首の後ろを掻いた。

「あの人たちもそうですよ」

 そう言って、松吉は三人組を見遣った。

 彼らはまだ、賽子の行方を当てようと躍起になっている。外れが判った瞬間揃って額に手を当て宙を仰ぐ姿に、思わず笑った。

 松吉も吹き出す。

 堪えきれず、結衣は口元を押さえて、くすくすくすくす笑った。

「楽しそうだね」

 溜め息交じりに越後屋が声をかけてくる。

「松吉。見回りを頼むよ」

 それを、へいっと受けて、松吉は騒めきの中へと足を踏み入れていく。

「あんたはあいつらと一緒に居てくれ。そこまで面倒を見れないよ」

 背中を押されるまま進みながら、顔を向ける。

「あの。松吉さんは何の見回りに?」

「イカサマをしている奴がいないか見てるんだよ」

 あ、とまた呟く。越後屋は目を細め、結衣をさらに押した。

 それっとまた座らされる。

 手元に何もない蛇男が壁を向いて肩を落としている。向う傷だけがニヤニヤ笑っている。狐面は旨そうに煙を吹いていた。

「イカサマぁ?」

 結衣の問いに、眉を跳ねさせる。

「博打で稼ぐような真似を考えてなきゃ、そんなことはしないはずなんだがね」

「そんなことしたら、しょっ引かれるだけさ」

 ひょいっと両手を前に出してぶら下げる。縄をかけられた姿を真似したかったらしい。

「賭場には現世のいざこざを持ち込まないのが粋ってもんさ。だが」

 とん、と灰に変わった煙草を落としてから、彼は一度笑った。

「ちょっと前までは、賭場荒らしなんてのも結構いたんだよ」

 結衣は瞬く。狐面はまた煙管を咥える。

「博打で稼いで生きてこうなんて言う破落戸ごろつきが、それこそゴロゴロと」

「あー、つまんねえ」

 べしっと蛇男が背中を小突く。げほっと咽て、また結衣を向いてきた。

「千住から板橋にかけてを荒らしまくった賭場荒らしもいたんだぜ」

「そうなの?」

 結衣は首を傾げる。三人が三人とも遠くを見遣った。

「相州嘉助って言ってさぁ。そりゃあエグイことをしまくった奴がいたんだぜ」

「見たらすぐ分かる。背中にでっかい彫り物を背負ってるんだ」

 ひょいひょいっと蛇男が自身も入墨を入れている背中を指さした。

「焔に包まれた鬼子母神」

 ふわりふわり、煙が漂っていく。

「その人はどうしたの?」

 問うと、ぎゃははっと笑われた。

「町奉行にとっ捕まって、人足寄場にんそくよせばに送られたんだよ」

「人足寄場?」

「こっから見たら南の沖合にある埋め立て島にある、御公儀が作った、悪人を懲らしめる所さ」

「仕置場じゃなくて?」

 また瞬くと、困ったような顔をされた。

「仕置き場は、ほら、咎人を死なせちまうところだろ。人足寄場は死なせねえところなんだ」

「へえ」

「こう…… 手に職を付けさせて、それから江戸の街に返してくれるところらしい その辺はまあ…… やっぱり相模が詳しいよ」




 朝日が眩しい。涙が溢れる。両手で目を擦る。

「いやー、今日の仕事はしんどいな。こりゃ」

 蛇男が大きな欠伸をした。狐面は真っすぐ歩けていなくて、向う傷が肩を貸している。

 いつもの朝とは違う、静かな道を歩いて榮屋へ戻る。

 その戸口の前。

 手元で煙管を不規則に回しながらこちらを睨んでくる影がある。

「げ」

 四人揃って、呻いた。

「やべえ、相模だ」

「相当へそ曲げてるぞ、あの顔」

 着物はいつもの着古したそれに代わっている。随分前に戻ってきていたのだろうな、とぼんやり思ったところで。

「仕方ない」

「お結衣ちゃん! 俺たちのために頼む!」

 とん、と肩を押された。

「え? え? 何?」

 ぐいぐい進んでいく。止まれない。最後、叫ぶ間もなく吹っ飛んだ。

「危ねえじゃねえか、てめえら!」

 相模が叫ぶ声が、頭のすぐ上から聞こえた。

 突き飛ばされたのだ。それで顔から相模の胸に突っ込んだ。抱きとめられた。

 ふわり、慣れない匂いが体中を包んでくる。温もりも伝わってくる。それが背中側にも回ったので、ますます動けなくなった。

 笑い声が建屋の中に吸い込まれていく。ああ、御礼を言わなければ。賭場は思いの外温かい処だった、と。

「ったく、心配させやがって」

 呟きにはっと目を開く。

「あの、相模さん?」

 応えはない。

 身じろぎすらできない。呼吸と拍動が繰り返されるのを聞くばかりだ。

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