19. 我が世誰ぞ常ならむ(9)

 筆を置いた。

 これ以上紙を無駄にはできない。立ち上がって、結衣ゆいは裏口に向かった。

 かっと照り付ける西日。むっと唇を尖らせる。

 冷たい井戸の水でごしごしと顔を洗ったから、瞼の腫れぼったさは引いただろうか。

 息を吐いて顔を拭いていると、蝉の鳴き声を裂いて、呼ぶ声が聞こえた。

伊織いおり?」

 立ち上がって見回すと、おざなりな塀の向こう側で伊織が手を振っている。同じ年頃の子どもたちも数人。背伸びして覗き込んできている。

「どうしたの?」

「なんか、おやつ!」

「お母さんには言った?」

「内緒内緒!」

 へへっと笑われる。周りもニヤニヤしている。

「仕方ないわね」

 両手を腰にあて、大きく息を吐きだしてから、炊事場に走る。

 沙也さやはいない。

「内緒、だものね」

 ふふっと笑って、結衣は棚から油紙の包みを取り出した。

 金平糖だ。

 戻って手渡すと、子ども達はわっと声を上げて、去っていく。

「手を洗ってから食べるのよ!」

 もう、と頭を抱えたところで振り返って、見つけてしまったのは相模さがみのにやけた顔。

「なんでしょうか……」

「あげちまったのか」

「だって、ずっと棚にあったもの!」

「仕方ねえなぁ」

 その手で煙管を回すごとに笑みが深まる。

「お結衣とお奈津なつの分と思っていたのになぁ」

 うっと黙りこくる。ぶっと吹き出された。

「また買ってきてやるよ」

 見上げてありがとうと言えば、彼はまた笑った。

 ひどく楽しそうだ。

「紙も要るか?」

「それは、もういいや」

「手紙を書いてたんじゃないのか?」

「それを止めるから、大丈夫」

 あははとわざと軽く笑う。

「だって、なんて書いたらいいの?」


 本来ならすぐに、下総に居る母に兄が見つかったと伝えるべきなのだ。

 同じ藩の兄の朋輩である近野こんの辰之助たつのすけにも。

 だけど、できない。

 兄が藩主その人を裏切る行動出ているのだと、どうやって伝えようか。


「本当に、兄様には困ったよね」

 すると、相模の笑みが引っ込んでしまった。

「相模さん」

 呼ぶ。頷かれる。

「あんなの、あたしの兄様じゃないみたいだ」

 じわりと揺れた視界の中で、また頷かれるのが見える。

「妹のことなんかどうでもいいのかなぁ」

 何故それを相模に言うのだろう。


――誰かに構ってほしいんだ。


 ぐすっと鼻を啜る。

 相模は、真っすぐにひんやりと見遣ってきた。

「また賢太郎けんたろうが戻ってきて、その後はどうするつもりだ」

「母様も、友達もいるもの。下総に帰りたい」

「そうだよな」

 彼はすっと目を伏せた。だけどそれは一瞬。また笑われた。

「兄貴は江戸に居るつもりみたいだがな」

「やっぱり?」

「所帯を持つ気だろう」

 喉を鳴らしながら、彼は続ける。

「お奈津もその気だ。あいつ、借金を返さないとここを出られないってことをすっかり忘れてやがる」

 ああ、と言って結衣は宙を仰いだ。

 空が赤く変わっていく。

 ため息交じりに相模は立ち上がった。

「さて――出かけるとするか」

「何処へ?」

「今夜は向島に行ってくる」

「何をしに?」

「この間の手打ち式の話だよ」

「そうか!」

 手を打って、部屋に戻って行く背中を追いかける。

「用意で手伝うことある? 煙草入れ持って行く?」

「ああ、そうだな」

「中身入れておいてあげようか?」

 そこで柱の向こうの沙也と目が合った。

 彼女は両手で口元を押さえて、ぷるぷる震えている。

「お沙也」

 相模が低く唸る。彼女は、名状しがたい笑い声を上げた後。

「お客だよ」

 と、表口の方を指さす。

「邪魔してるよ」

 上り框で煙草をふかしていたのは、丸顔と鋭い視線が不釣り合いな男――越後屋だ。

「今度は何を押し付けようってんだ」

 相模が舌を打つ。

「御挨拶だね。わたしが年中厄介事を運び込んでいるみたいじゃないか」

 ふーっと煙を宙に浮かべて、彼は目を細めた。

「逆に、少しは感謝してほしいくらいだよ。榮屋の相模が丸くなるのに一役買ったんだからね」

「なんのはなしだ、てめえ……」

 ぴくり、と相模のこめかみが引き攣る。

「ま、それはそれとして」

 と越後屋はいつもの表情で言った。

「今夜は庚申待こうしんまちだねえ」

 ああ、と受けて、相模は腰を下ろした。それに見向いた越後屋の口の端がにやっと上がる。

「久方ぶりに場を設けようと思ってね」

「……博打かい」

 今度は肩が落ちる。そこにぽんと手を置いて、越後屋がますます笑う。

「あんたは出禁だよ」

「分かってるよ」

 あーあ、と言ってから彼は顔を上げた。

「好き者を送り込んでやりゃあいんだろ?」

「そうそう。それでわたしが儲かる」

「しゃあねえなあ」

 満面の笑みの越後屋が出て行くのと入れ違いで、ふんどし姿の男たちがガヤガヤと戻ってくる。

「今晩は越後屋がやるそうだ」

 それだけで通じたらしい。ざわめきが大きくなる。先に風呂に行くか、などと話が飛び交う。

 ひょっこりとその中から飛脚の高が出てきて、団扇を動かしながら話しかけてきた。

「お結衣ちゃん、庚申待って知ってる?」

「知ってます」

 また頬を膨らます。笑われる。

「おさるまち。庚申の日の夜に眠っちゃうと。体の中に居るっていう三尸さんしの虫が、体から抜け出して天帝に罪過を告げに行っちゃうって言うんでしょ?」

「そうそう。で、罪深い者は早死にしちまう、と」

「寝ないために、美味しいもの食べて大騒ぎするの」

 ああ、だから今日手打ち式が行われるのか、と、妙に納得して表通りに視線を移す。

 継ぎ当てのない真新しい着物を着た相模はもういない。

 しゅんとなる。

 首を振って、顔を上げると、向島で一緒だった三人組がいた。

「越後屋が場を作るのは久しぶりだな」

「旦那も忙しそうだったからなぁ」

「だが、あそこはいいぞ。飯も旨いし、賭けもそこそこ盛り上がる」

「榮屋は、寝たら告げ口をされまくるに違いないヤバい奴らばかりだからな。お楽しみに行くか」

 あ、と呟いて、結衣は振り向いた。

「本当に、博打をする場所なの?」

 すると、狐面にニヤっと笑われた。

「興味あるのかい、お結衣ちゃん」

 もう一度、あ、と呟く。身を退く。蛇男ががははっと笑う。

「なんでえ、行ってみるかい!」

「本当に?」



 陽が落ちても、今日ばかりは通りが明るいままだ。これでもかというほど明かりが灯されている。

 提灯を下げた向こう傷を先頭に、蛇男、狐面、結衣と続く。

「座も岡場所も潰されて、これくらいしか楽しみがなくなったからねえ」

「博打、楽しいの?」

 応と受けられて、そう、と苦笑する。同時に、奈津の渋い表情を思い出す。


――行かない。お父ちゃんを狂わせた博打なんか、滅びればいいんだから。


 だが、三人組の足取りは軽い。

「お武家様も結構顔を出してくるんだよ。博打をしたくらいでしょっ引かれるのは昔の話さ」

 越後屋の前は依然来た時よりも人の出入りが多かった。

「あんたが来たのかい」

 越後屋の主人はぴくりと眉を動かした。

「賭けるんじゃないよ」

「やりかた分からないから大丈夫です」

 体を小さくする。声も小さくなる。大袈裟な溜め息を吐いた彼は、そのまま奥へと進ませてくれた。

 そろりそろり、縁側を進む。そこかしこから不躾な視線が飛んでくる。あんな年頃の娘が、という声も。

「ばっきゃろう!」

 それを一喝したのは狐面だ。蛇男が指をゴキゴキと鳴らす。すいっと向う傷が結衣の後ろに立つ。

「手を出したらただじゃいられねえぞ。これは榮屋の相模の女だからな!」

 辺りが一瞬静まり返る。もう一度騒めき出した時には、向いてくる目の数は減って、それも弱くなった。


――名前だけで相手を怖がらせる、相模さんって。



「さあさあ、入りました!」

「丁!」

「半!」

「いやいや、やっぱり丁だ!」

 座敷の一番奥、さらしを巻いた体を見せた女に向かって口々に叫ぶ。

 結衣はぽかんとなった。

「あの女の手元に籠があるだろ?」

「うん」

「中に賽子さいころが二個入っている。その目を合わせた数が丁度か半端か――分かるか?」

「分かんないよ!」

 ぶっと狐面が吹き出す。蛇男が背中を叩いてくる。

「いや、賭けはすんなって言うんだからお結衣ちゃんは静かにしてろ」

「代わりに俺たちががっぽり稼いでやるからな」

 頷くが、向う傷が肩を竦めるので、瞬く。

「稼げるのは場を作った筒元だけだ。負けたら金をとられる。勝っても、得た金の一部を手間賃としてとられる。俺らの金は減る一方だ」

「一時の愉しみを買ったってことよ!」

 そこでまた、女が声を張り上げる。

「ハイ、ツボをかぶります!」

 受けて、丁だ、半だ、と声が飛ぶ。

 蛇男と狐面は丁だと叫んでいる。向う傷までも同じだ。

 ぐるり見回せば、半と叫ぶ人もいる。

 その中に知っている顔を見つけた。ひゅっと息を呑んだ。

「……辰之助様?」

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