18. 我が世誰ぞ常ならむ(8)

 粘ついた小声を交わし始めた賢太郎けんたろう奈津なつに背を向けて、結衣ゆい相模さがみの横にずっていく。

 本当にすぐ傍に寄るまで、彼は全く振り向かなかった。膝に置かれた拳はがちがちに強張り、煙管を咥えた唇は白くなっている。

 呼ぼうとして、止めた。袖を引こうとした指先も静かに下ろしたのだが。

「お偉方から見たら、静かなことはいことなんだろうな」

 ぽつん、と相模が呟くのに、顔を上げる。睫毛の影が濃く差す横顔を、じっと見つめる。

「去年の今頃だったな。なんでもかんでも止めさせられたのは」

 はっと嗤って、彼は視線を向けてきた。

「金を賭けるのは外道と、まず富くじが無くなった。歌舞伎に落語を見るのは心を乱されると、上演していた座が潰された。色を売るのはままならねえと岡場所も潰された」

 瞬く。

「岡場所は」

 そこで苦しめられていた女郎たちは良かったのではないか、と言いかけたところに。

「その時に深川もやられた」

 と彼が呻くのに、息を呑む。

――前にも聞いた気が。

小督こごうさん?」

 深川で一番人気の芸者だった――と聞いたではないか、と目を丸くする。頷かれる。

「あそこは、料亭が多かったんだよ。そこで三味線や長唄を披露する女が大勢いた。その中はついでとばかりに色を売っている奴もいたんだ。それを咎められて――大勢の芸者が、一番格下の女郎として吉原に送られた」

「吉原って」

「御公儀が江戸で唯一認めた色街だよ。当然のように色を売る女ばかりだ。そこに一番格下として追いやられたんだぜ。中には色を売らずに芸一本で踏ん張ってた女もいたのにな」

 ぎゅっと煙草が火皿に押し込まれる。緩く煙が上げて、相模は目を細めた。

「悲惨だったのは芸者たちだけじゃない。寄席や座を潰されて、そこで働いていた奴等が食い扶持を稼げなくなった。興行をするってことは、その舞台に立つ奴だけじゃなくて、そこに荷物を運ぶもの、品物を用意するもの、いろんな人間がいるんだよな。そいつらが一斉に稼げなくなったんだ。どれだけ戸惑ったか、想像できるか」

 やっと見向いてくれたのに。結衣は唇を噛んだ。

「江戸は人が多いから、畑を耕す以外の仕事も多い。それをこなして飯にありついている奴が大勢いるんだ」

 そうかもしれない、とやっと頷く。

楠見の家うちも、下総では特別だよね。稲を作ってなくてもお米を食べれるんだから」

「そう。だけど、領地と江戸を行き来する御大名方を休ませるのが本陣だろう? あの人たちが行き来しなきゃ御公儀は立ち行かない。本陣は遠まわしに世の中を支えてんだよ。畑を耕すだけが世の中を回す方法じゃない」

 相模はふっと笑って、また眉を吊り上げた。

「そういう意味じゃ、人払い令も嫌なんだよ。里で働けないから江戸に賭けて来たっていうのに、追い出される。畑仕事じゃないところに居場所を探そうっていうのを止められてるってのが腹立たしい」

 煙を吐き出して。

「……ここで俺が吠えたところで何も変わんねえけどな」

 ぷいっとまた背を向ける。

 そろりと振り向くと、賢太郎だけがこちらを向いていた。

「結衣」

 真っ直ぐな、きりりと引き締まった視線を向けられても、呼ばれても応えられない。

 ただ。

「とにかく今は、世の中を変えるために動く者が必要なのだ。私はその一人になりたい。儘田の本陣など些事に過ぎない」

 だから、と続いた。

「結衣だけで儘田に帰れ」

 それにやっと、むっと頬を膨らませた。

「帰れません」

「何故」

「叔父様が何をなさろうとしているか、知ります?」

 じとっと睨む。その一瞬は、兄もぽかんとなった。

「楠見の家の主になりたいそうです」

「はあ」

 間延びした声。結衣は吹き出す。賢太郎に寄り添ったままの奈津が、まあ、と声を上げる。

「賢太郎様の座を奪おうというの」

「そうです。今、家に、兄様がいないから」

 眉の端を落として笑うと、兄は大きく溜め息を吐いた。

「ならば渡してしまえばいい」

「え?」

 今度は結衣が間抜けな声を上げる番だった。奈津も目を丸くしている。

 げほっと相模は大きく咽た。そのまま、げほっげほっと体を揺らす。

「賢太郎様?」

「己にないものを欲しがるなど、さもしい限りだが。下総の小さな宿場町で何が起ころうと、日ノ本の国の行方には関係ない。叔父が好きにすればいい」

「そう」

 しゅん、と肩を落とす。

「あたし、兄様とじゃなきゃ、下総に帰れないよ」

「私は戻らない。江戸に残る」

「母様だって、兄様が帰ってくるのを待っているのよ?」

「それは…… いや、駄目だ。母上の頼みでも駄目だ」

 ぐっと拳を固めてみせても、賢太郎は首を横に振る。

「今は国の大事な時だ。耐えてくれ。下総が危険だというなら、江戸で待っていてくれ」

 言い返す言葉は喉につかえた。じわり、涙が滲む。

「すまない、耐えてくれ。本当に、耐えてくれ」

 ぶんぶん頭を振る。涙が飛び散る。ぐずっと鼻を啜って、横を向く。

 相模と目が合った。煙管を咥えたまま笑む人と。

「先ほどの話だと、奈津も結衣も千住の同じ店にいたそうだな」

 賢太郎は言い、相模に向き直った。

「私は水野様のご指示に従い、これからまたすぐに出かけなければならない。今度は一月もせずに戻ってこれるだろうが」

「ああ、そうかい。気をつけてな」

「その間また、二人を頼めないだろうか」

 彼は眉を跳ねさせてて、煙管を置く。カン、と固い音が響く。

 座ってもなお、背の高い相模が、優男の賢太郎を見下ろす形だ。ぎろり、鋭い一重の瞳が賢太郎を刺す。

 がばっと賢太郎は両手をついて頭を下げた。

「頼む! このとおりだ。奈津と結衣を守ってやってくれないか」

「てめえ、自分がどれだけ虫のいい話をしているのか分かっているのか?」

 ぎり、と相模の奥歯が鳴る。

「本当なら、私の力で二人を安心できる場所に匿うのが一番だ。もちろん分かっている。だが、一度江戸を離れる身では難しいんだ。頼む、今までの縁でもう少しだけ、頼む」

 ごんと床が鳴る。賢太郎が顔をぶつけたらしい。それでも呻き声一つ上げず、彼は伏している。

「ああ、畜生!」

 がりがりっと相模は片手で頭を掻き毟る。

「……お結衣の兄貴じゃなきゃ、徹底的に嫌えたってのにな」

 ぐいっと髷を掴んで、顔を上げさせられた賢太郎の鼻先に、相模はずいっと顔を出す。

「この相模を顎で使おうとはいい度胸だ。 だが、俺も頼られて逃げるような真似はしない。預かってやろうじゃねえか」

 どすんと床を蹴って、相模は立ち上がる。賢太郎はそこにもう一度額を床に擦りつけた。

「帰るぞ」

 相模が言う。結衣と奈津は顔を見合わせた。

「千住に?」

「他に何処に行こうってんだ」

 ははっと笑い、彼は下に降りていく。

「待って!」

 慌ててそれを追う。

 梯子を下りてきたのは、相模と結衣だけだった。

 奈津と賢太郎はまた睦言を囁いているのだろうか。

 店の外の光は赤い。夕暮れ時だ。

 蕎麦を食べ終わったらしい三人組が満面の笑みで去っていくのに、手を振る。

「俺たちも早く帰りてえな」

「お奈津ちゃん、遅いなぁ。仕方ないのかな」

「想い人ってのは妹より大事なんだってよ」

 また頬を膨らませていたら、ぽんぽんと頭を撫でられた。

「お結衣」

「なんでしょうか」

「あんた、下総に帰れねえな」

 一重の瞳が柔らかく細めらて、静かに輝く。夕陽と同じだ。

 頬が染まるのは、夕焼けのせいだ。

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