17. 我が世誰ぞ常ならむ(7)

 外から店の男が声がする。耳を澄まして言葉を拾ってから、結衣ゆいは二階から駆け下りた。一階の入り口の傍らでは、先ほどの三人組が仲良く蕎麦を啜っている。待ちわびた声はまだ外から聞こえると、踏み出す。

 表では、気の良さそうな男と相模さがみが話していた。

 振り向いた相模に手を振られる。男も見向いてきて、頭を下げた。

「お連れ様がお待ちだったんでしたね。お引止めしました。ですが、どうかご検討ください」

 それに、相模は肩を竦める。

「俺じゃなくても、本宿のほうを当たれば適役は他にいるんじゃないか?」

「何をおっしゃいますか」

 男はにこにこしている。

「千住榮屋さかえやの親分さんに誰も文句言いませんよ。だから是非是非お願いしますよ」

 その男に頷いて、相模は結衣に寄ってきた。

「何か頼まれたの?」

 背中を押されて中に入りながら問うと、彼は苦笑いを浮かべた。

「手打ち式の見届け人をしてくれっていうんだよ」

「見届け人?」

「喧嘩した組と組がちゃんと仲直りしたかとかなんとか…… そういうのを見届けてくれって。堅苦しい宴会が付いてくるから面倒なんだ」

 一重の瞳が遠くを見遣る。煙管をくるくる揺らしながら、彼は溜め息を吐く。

 引き受ける気なのだろう、と結衣は見上げた。

 ちくちく、胸が痛い。

「で、おまえ。兄貴はどうしたんだ?」

 問われたことには。

「起きたよ……」

 頭の中がズキズキ鳴り出して、こめかみを押さえる。

「すごい量ご飯食べた」

「そうだろうなぁ」

「お蕎麦とお寿司と、お団子で」

「腹が減っては戦はできぬというしな」

 相模が喉を鳴らす。

「もう…… 恥ずかしいよ。お腹が空いてたから刀がちゃんと握れなかった、なんて」

 苗字帯刀が許された身とはいえ、あまりに情けない、と顔が熱くなる。

「それはそれとして、見つかって良かったな」

 頷いて、俯いて。

「下総に帰れるじゃないか」

 無理矢理微笑んだ。

「そう…… だよ」


――兄様を見つけるために江戸に来たんだから。


 梯子をかたかた鳴らして二階へ戻る。川の流れが見えるその部屋の窓際、男と女が身を寄せ合って外を眺めている。

「本当に賢太郎けんたろう様が御無事でよかった」

「心配かけたな」

「いいんです、いいんです。だってこうやってお会いできたんですもの」

「おまえも無事で良かった」

「ええ、本当に」

 賢太郎の腕が奈津なつの腰に回す。潤んだ眸で見つめ合う二人の顔が近づいていって。

「いい加減にしてよ、兄様!」

 結衣は二人の間に両手を突っ込んだ。

 ぐいっと肩を押して、引き離す。

 二対の視線がじとりと向いてくるのを顔を伏せてやり過ごす。

 頬が熱い。

「お熱いのは構わないが、二年ぶりに会った妹に弁明はないのかね、兄さんよ?」

 と、相模が肩を震わせている。

 賢太郎は口をへの字に曲げた。

 それから、ゆるゆる、視線が結衣に向く。真っ直ぐな眉。目尻に皺が寄って、空気が溶ける。

「いや…… なんというか、気恥ずかしいんだよ」

「なんで」

 ぷうっと頬を膨らませて、その場に正座する。賢太郎も、すっと襟を正した。

「二年も会っていなかった。目の前のお役目に夢中で、なかなか思い出すこともなかったんだ。申し訳ないが」

「ひどい。あたしは兄様のことを忘れたことがないのに」

「いや、申し訳ない」

 顔を伏せられる。結衣は唇を噛みしめた。

「実は、二月から信州に行っていた。今朝戻ってきたんだ。それで一番に奈津の下に向かったら、父君が売ったなどと言うではないか。途方にくれていた」

 うんうん、と結衣も奈津も頷いて、賢太郎も頷く。

「木曽で何度となく倒れそうになり、その度に奈津のことを思い出ていたというのに」

 彼が呟くと、奈津がまたがばっと動いた。

「賢太郎様! わたし、わたし……!」

「ああ、奈津。離れていても力を分けてくれるとは!」

「はいはい、お二人さん離れる」

 今度は相模が手を出してきた。奈津も賢太郎もごろん、と畳の上に転がった。

「こっちがてられちまう。少し離れて喋れ」

 先に起き上がったのは奈津で、彼女は相模を睨んだ。

「やっとお会いできたのに」

「はいはい、それはお結衣も一緒だろ」

 それだけ言うと、どさっと音を立てて、相模は別に腰を下ろした。引き寄せた煙草盆を使って、煙管に煙を立てはじめる。

 その匂いが漂い終わった頃に。

「信州だなんて…… 遠過ぎるわ」

 でも、と彼女はまだ倒れたままの賢太郎を向く。

「どうして、行き先を教えてくださってなかったの? 辰之助たつのすけ様や他の御仲間にお話ししていなかったの」

「それは」

 と賢太郎が顔を上げた。

「黙っていなくなったのは済まなかった。その、実は――土井大炊頭おおいのかみ様のご指示ではないんだ」

「藩主様じゃないの?」

 結衣は瞬く。

――兄様は、藩主様に連れられて江戸に行ったんじゃなかったの?

 じっと見つめると、すう、と一度息を吐かれた。

「奈津。結衣。おまえたちは分かってくれているか」

 と、賢太郎は視線をずらした。それを受ける前に、相模は横を向く。また煙草盆の横に座って、背を向ける。

 ぐっと肩を掴まれて、三人顔を寄せる。

「内密にしておいてくれ。私を信州に向かわせたのは、御老中の水野越前守様だ」

「ご…?」

「御老中。今、御公儀の中で一番の采配を振るっていらっしゃる方だ」

 うん、と頷く。奈津は、まあ、と声を上げた。

「詳しい話はできないんだが…… 今は、土井様ではなく、越前守様が私の主だ」

 奈津は頷いて、結衣は首を傾げた。

「結衣はまだ分からないか」

 賢太郎が苦笑する。

 そっと身を起こした彼は、一つ咳払いした。

「覚えておけ。今、日ノ本の国は内憂外患に苦しんでいる。陸奥を中心とした飢饉、そしてあちらこちらの海に現れる外国の船――このままではこの国がなくなってしまう」

 うん、と頷く。

「それを防ぐために、水野様は立ち回られておられる」

「はあ」

「もっと真面目に聞け。言うのは簡単だが、非常に難しい問題なんだぞ」

 賢太郎の厳しい視線に身を竦めると、彼は溜め息を吐いた。

「まずは、贅沢を止めよ勤勉にせよと、市中から寄席と座を無くされた。そして、もともと江戸住まいでない民については、速やかに里に戻り畑を耕すよう命じられている。品を運ぶだけで悪儲けをするのは許さぬと、株仲間も解散させた」

 ぐっと膝の上で拳を握って賢太郎は続ける。

「御蔭で今、江戸の市中はとても静かだ。まだ破落戸どもが蠢いているようだが、町奉行の鳥居様の力を持ってすれば、まもなくもっと落ち着くだろう。水野様ご自身は、江戸と大坂の近郊については天領にするよう、働かれている最中だ。目指すところは享保・寛政の政治。凛々しい武士の世だ」

 はあ、と大きな息を吐いて、賢太郎は前を向いた。

「土井様は大きな流れでは水野様と同じお考えだったのだが、天領の件について対立されている。私は水野様のお考えこそ正しいと信じている。だから、藩には黙って動きざるを得ないのだ」

 結衣はもう一度瞬いた。

 見つめる先では、下総の宿場町の本陣を守っていた時とは違う熱が、眸の中で揺れる。

「そうでしたか」

 奈津はぐすんと鼻を鳴らした。

「ご立派ですわ!」

 がばっと二人は抱き合う。今度は、静かに身を退いた。

 ゆるりと視線を相模に向ける。彼は背中を向けたままだが、ひりっと肩を強張らせていた。

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