16. 我が世誰ぞ常ならむ(6)
よろめいて進む男が娘の手を引いて辿り着いた先は、荒川のほとりだった。
南天の太陽と蝉時雨が容赦なく降り注ぐ。
「
引っ張られてきた
頭巾をずらして覗かせたのは、げっそりと痩けた頬。
「奈津」
呼びかける声も掠れている。奈津は目を潤ませた。
「本当に、賢太郎様なんですね」
倒れ込むように男の胸に飛び込む。げほっと呻いて彼はそのまま背中から倒れ込んだ。
乗っかるような形になった奈津が跳ね起きる。
「どこか具合が悪いのですか!?」
見下ろす彼女の視線の先で、ぐう、と腹の虫が泣く声がした。
「賢太郎様!?」
目を丸くした奈津に、転がったままの男が手を伸ばす。
「すまない…… 私がいなかった間に辛い目に遭わせてしまった。まさか、売られるなんて」
くうっと彼は呻く。奈津は笑みを浮かべ、首を振った。
「いいんです。こうしてまたお会いできたんですもの」
伸ばされた手を握って、頬を寄せる。
「このままずっと一緒にいられたらいいのに」
男はまだふらつきながら起き上がり、奈津の体に両腕を回した。わっと奈津が声をあげて、しがみつく。
固く抱き合う二人に、
男が顔を上げたのに、くるくる煙管を回しながら、嗤う。
「
「何故、私の名を」
「頼まれて捜してたんだよ。何かと面倒事が集まってくる身なんでね」
「よく云う」
男が頭巾の合間から睨みつけてくる。
「おまえも人買いだろう?」
「違うよ。人買いから買い上げてやったんだよ」
「では、先ほどのあれはなんだ。
すり寄る奈津の肩を引き寄せて、相手――賢太郎が叫ぶ。
「奈津を害することは許さん」
彼はぐっと足に力を込めて立ち上がった。
「いいぜ? 売られた喧嘩は買う主義なんだ」
ちょいちょい、と相模は右のひとさし指で己の胸を叩く。
きん、と音が立って、鞘から刃が躍り出る。それを大上段に振りかぶって、賢太郎は転んだ。
「あ?」
ぱかっと口を開く。ごん、と音を立てて、相手は地面に頭をぶつけた。奈津が悲鳴を上げる。
「おいおい、しっかりしてくれよ」
つい、手を出してしまった。
それを叩かれる。完全に脱げてしまった頭巾からぎらぎらとした視線を向けられた。
細面の、本当なら目元が柔らかな、優男なのだろう。青々とした月代に向かう広い額の真ん中は真っ赤に腫れている。
「むかつくぐらいそっくりだな」
呟くと、相手は唸り声を上げた。
見下ろす。見返して、立ち上がって、彼はもう一度刀を構えた。
「いかんな、嫌われた」
ははっと息を吐き出して、腰を落とす。己より低い相手の懐に飛び込んで、腕を握って担ぎ上げて、振り飛ばす。
呆気なく彼は宙を舞った。刀ががらんと転がる。土手に落ちた躰から、ぐえ、と声が響く。
「……やり過ぎた」
呟くと、後ろから背中を小突かれた。
「莫迦じゃねえの?」
振り向くと、狐面が眉間を押さえている。向う傷は肩を震わせて、蛇男はお腹を抱えている。
「捕まえるんだっていったのはあんたじゃないか、相模」
「まあ、確かにこれで逃げられなくなったけどな!」
「可哀想に、お兄ちゃん。恋人と妹の面前で吹っ飛ばされるなんて」
奈津は真っ蒼な顔で睨んでくる。
淡い笑みに腹の底が痛くなる。
溜め息を吐き出すと、男たちの笑い声が一層高くなった。
「叩きのめすのは得意なんだが」
大笑いが収まるのを、黙って待って。
「おまえら、運んでやってくれ」
言うと、へいっ、と威勢のいい声。蛇男がふにゃっとなった賢太郎の体を担ぎ上げる。
「この向こうに」
と、相模は指差した。
「知り合いの店がある。もう話はつけてあるから、旨いもの食わせてもらえ」
「やりい! 相模の驕りな」
「おうよ」
歩き出した三人の男を、奈津が叫び声を上げて追う。
転がっていた刀を拾ったのは結衣だった。
「お結衣も行ってきな」
見下ろして、笑う。うん、と呟いて彼女は顔を顰めた。
「どうした?」
「刀って重いのね。案外」
そうだなと頷いて、おい刀だ、と呼ぶ。向う傷が賢太郎から鞘を抜いて戻ってくる。
「持ってもらいな」
「でも、あたしの兄様の荷物なのよ。あたしが持たなきゃ……」
「気にするな」
ぼそっと言って、向う傷は駆け出す。相模もふっと息を零した。
眉をハの字に落とした結衣の肩に掌を置く。
「ほれ、行きな」
「相模さんは?」
「後から行く」
五人と一人が角の向こうに行くのを見送ってから、踵を返す。
蝉時雨は止まない。
がらん、がらん、と下駄を鳴らして行っても目立たないほど、先ほどの通りは賑わいを取り戻している。
奈津の家――寿しの暖簾が草臥れた店の前だけは静かだ。
「邪魔するよ」
左手で煙管を掴んだまま、腰を屈めて薄暗い中へ。天井が低くて、頭が閊えそうだ。
店主はまた腰を抜かして、へたり込んだ。
「あ、あんたも! あんたもさっきの奴等と一緒だろう!?」
金切声に、片耳に指を突っ込む。
「おお、よく分かったじゃねえか」
「さっき塀の影にいたのを見たんだよ! 他にも娘っ子がいたな…… 奈津だけでも満足できず、他にも娘を攫ってきたのか!?」
「人聞きの悪い。お奈津もあの小娘も、攫ってなんかいねえよ」
「う、嘘を吐くな!」
「ちゃんと金で買ったんだよ――娘が女郎にならなくて済んだ恩人だぞ、俺は」
ちょん、と転がった男の前に屈みこむ。
「なあ、親父殿」
僅かに口を吊り上げると、奈津の父親はぎゃっと後ずさった。
「俺がお奈津を買い上げたおかげで、また賭場に顔を出せるようになったんだろう?」
なあ、と顔を近づける。
「この界隈だけでなく、千住まで来てるって話だ――そんなに好きかい」
相手はがくんがくんと首を振った。
「いい度胸だな。女房娘を手放しても、まだ博打にのめり込めるのか」
「そ、それは……」
「好いた男と会えなくなったと嘆いた娘の気持ちはどうしたらいいんだろうねえ?」
すると、さあっと男は蒼くなった。
「賭けざるを得なかったんだ! あっしのせいじゃねえ!」
ふうんと嗤う。また一歩踏み込んで、顔を近づける。
「その辺、詳しく聞かせてもらおうか」
くるくるり、煙管が回るのは止められない。
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