15. 我が世誰ぞ常ならむ(5)

「お奈津なつちゃん、お奈津ちゃん」

 表玄関から裏の井戸まで、真っ直ぐに駆け抜ける。

 縁側に腰を下ろしていた相手は、きょとんとした顔で結衣ゆいに振り向いてきた。

 傍に滑り込む。

「兄様が」

 と、上擦った声で告げれば。

賢太郎けんたろう様が!? どうしたの!?」

 奈津が肩を掴んでくる。

「賢太郎様がどうなすったの? 何があったの? 御無事なの?」

「む、向島で」

 見かけられた、と言おうとしたのに、言葉が出ない。奈津の眉尻が下がる。

 こん、と後ろで足音がしたので、ぜえぜえ言いながら振り向いた。

「お結衣、気が早いんだよ」

 相模さがみが笑っている。

 その横には先ほどやってきた茶色の着物の男がいて、顎をしゃくられた。

「話は最後まで聞いてやんな」

「いやあ、ここまで喜んでくれたなら、走ってきた甲斐があったってもんよ」

タカさん。とりあえず、おまえさんも落ち着け」

 結衣は何度も大きく息を吸った。

――そうだよ、ただ向島にいたって聞いただけじゃない。

「お茶入れてきますね」

 と、立ち上がった。



「お奈津の家の周りを捜せてたんだよ」

 と並んだ湯呑の一つを取り上げながら、相模が言う。

「そうそう。だから最近、向島の方をよく回ってたんだ」

 高という渾名あだなの男も頷く。

「そしたら、もともと顔なじみのおかみさんの世間話の中に出てきたんだよ」

 ふむ、と結衣と奈津で揃って頷く。彼はまだ首の後ろに手を回している。

「あの近所のおかみさんたち、奈津のい奴で『賢太郎』っていう男がいる、ってのは知ってたんだ。実は、前にも聞いてたんだが、その時は知らねえって言われたんだよ。もしかして今までは、姓も名も合わせて聞いていたのも失敗だったのかもな」

 肩を竦めてから、彼は続ける。

「ま、それはそれとして、世間話のことな。ここしばらく音沙汰なかった男が今日になってやってきたらしい。んで、お奈津がいないことについて、その家の旦那に突っかかっていったんだが叩き出されたらしいんだ」

 その瞬間、奈津が顔を真っ赤にした。

「お父ちゃんったら! また賢太郎様に失礼な真似を……!」

「今、お奈津の家には親父殿の他にも誰かいるのか?」

 相模が訊くと、高は首を振った。

「いいや、今は親父殿一人みたいだよ。包丁握ってる親父さんより、大小差した奴のほうが弱かったってんだから…… まあ、お結衣には悪いが、笑い話だな」

 結衣も苦笑する。

「あの兄様が喧嘩に強いとは思えません」

 ぎゅっと奈津に横目で睨まれたが、そしらぬふりをする。相模がくくくっと笑った。

「で? その親父さんが勝った喧嘩はいつの話なんだったっけ?」

「だから今日だって」

「じゃあ」

 と結衣と奈津は顔を見合わせる。

「まだ向島にいらっしゃる?」

「かもしれないな」

 よっこらせ、と相模は立ち上がった。

「それじゃあ早速、優男さんをとっ捕まえにいくとするか」

「どうやって?」

 結衣は眉を寄せる。相模はにっと口の端を上げた。



 真っ蒼にもほどがある青空の下。

「奈津!?」

 ぎゃっと叫んで、男が道に尻餅をついた。年の頃は三十路の半ばか。結った髷の中に白いものが混じっている。染みの目立つ前掛けに捻じり鉢巻き姿。背後には、寿し、と書かれた暖簾がかかった店。その中に入らせまいというのか、男は必死に手を広げて戸口を塞いだ。

 道の両端には暖簾を下げた店が他にも立ち並んでいるのだが、道行く人は皆それらの中に引っ込んでしまったようで、他に見える影は男の前に立つ四つだけ。

 その一つ、諸肌脱ぎした大男が転んだ男の真ん前にずしっと足を踏み出す。

「よう、旦那」

 左肩から右肘にかけて藍色の蛇を這わせる男は、にっと笑った。

「お嬢ちゃんを連れて帰ってきてやったぜ」

 そう言って振り向いた先には、二人の男に挟まれて立つ娘が一人――奈津だ。俯いて、肩を震わせて、黙って立っている。

 その彼女から視線を外さないまま、尻餅をついたまま、彼はずりっずりっと後ろに下がっていく。

「なんで逃げるのかな。折角の再会だろう?」

「いやいやいやいやそうなんだが! なぜ、奈津が普通にここにいるんだ!?」

「いや、どう考えても普通じゃないっしょ」

 蛇男の少し後ろに立った、奈津を挟む男の一人――狐面がぴっと指を立てる。

「よく見てよ親父さん。お嬢さん、如何にもって感じの破落戸に囲まれてるんだけど」

「いや、だから、あんたたちも大概だが、奈津は、奈津は……!」

「売った、んだったな」

 今度口を開いたのは、奈津を挟んだ反対側の、額に大きな傷跡を付けた男だ。

「賭場の寺銭に女房と娘を出すとはとんでもないクズだな」

「あ、あれは仕方なかったんだ!」

 男はへたり込んだまま、大声を上げた。

「まあ、それはそれ」

 と傷顔が横を向く。

「で、この娘っ子をどうしたらいいんだっけ」

「ああ、それね」

 狐面が一歩踏み出す。

「親父殿。この子の男を捜してるんだよ」

「は、はあ……」

 がくん、と頷いた男に。

「お父ちゃん」

 奈津が細い声を出した。

「賢太郎様が見えていたの?」

「あ、ああ……?」

「どうなの!?」

 ひっと息を呑んで、男は――奈津の父親は視線を彷徨わせて、手を挙げた。

「あ、あっちに……」

 人通りが消えていたはずの道を、ふらふらと寄ってくる影がある。

 小袖に袴、大小の二本差し。着物の色が薄暗い色合いなのと、真夏にも関わらず頭巾を被っている。

「出た!」

「オバケか!?」

「ちげえよ、賢太郎だ!」

 ぐっと狐面と傷男が腕をまくる。と同時に、影は刀を抜いた。刃がぎらり陽の光を切り裂く。

「うおっとあぶねえ!」

 蛇男が一閃を潜って、地に転がった。

 影は刀を握っていない手で奈津の腕を掴む。

「野郎!」

 叫んだ傷男の正面にもう一度刃を突き出しておいてから、影は奈津を引っ張って走り出した――よたよたと。

「おー、逃げた逃げた」

 狐面が笑う。

「おびき出しには成功だぜ」

 と、振り向く。

 結衣は塀からそっと顔を出した。

「あいつだろ?」

 問われ、頷く。

 頭巾の隙間から少ししか見えなかったし、随分面変わりしたと思ったけれど。兄だ。楠見くすみ賢太郎だ。

「しっかし弱いなぁ。あの刃の勢いのなさ、見たかよ。素手で受け止められそうだぜ」

「止めとけ止めとけ。お兄さんにいい思いさせてやんな」

「お奈津に、の間違いじゃねえのか?」

「あたしは兄様が弱くても全然気にならないから」

 真面目なだけが取り柄の人、と微笑む。

「あ、あんたたち……」

 地面に転がったままの奈津の父親がかすれた声を上げる。

 男たちは肩を竦めた。

「ご苦労さん。お奈津はまた俺らが千住に連れて帰るからな」

「え、ええ!? 千住だって!?」

 親父の叫びを背に、男たちと結衣は顔を見合わせて笑った。

「さあ、ふんじばるぜ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る