14. 我が世誰ぞ常ならむ(4)
炊事場からの上り口に腰掛けていると、後ろから
「向こうにあんたもお
前掛けで手を拭きながら、彼女も腰を下ろす。
微笑まれて、
「ちょっと、疲れちゃって」
「そういう日もあるわねえ」
はい、と渡された椀の中には
しゃく、と赤く瑞々しい欠片を口に放り込んで、沙也は見向いてきた。
「
「相変わらず筋の悪いお弟子で、自分で厭になります」
肩を落とすと、ぽんぽん叩かれた。
「そこで諦めるか諦めないかが上達の分かれ道らしいからね」
「小督さんにも、精進なさい、と言われました」
「あはははは! 本当にあいつは厳しい師匠なんだから!」
同じ時に、向こうでもどっと笑いが起こる。伊織の叫び声も混ざっているが、沙也は気にしないらしい。
「放っときな。揉まれて強くなりゃあ良いのよ」
「そうですか」
「今夜は
「いつもは帳場に詰めっぱなしなのに」
「でしょう? 今日はそんなに忙しくないのか、やりたい気分じゃないのか分からないけどね。お蔭でわたしたちがのんびりできる」
うん、と頷いて、結衣も西瓜を口に含んだ。
甘酸っぱくて、冷たい。
口元が歪む。
「わたし、おまけだって言われました」
「誰に」
「相模さんに」
「何の?」
「三味線のお稽古。お奈津ちゃんに習わせるのが目的で、あたしが通うのはおまけだって」
ふうっと細く息を吐く。
「でも、当然ですよね。あたしは兄様が見つかったら下総に帰るんだもの。三味線を習ったって、披露する機会なんてないでしょうし」
すると、沙也は目の端を緩めた。
「違うわよ。相模はあんたに気を向けたくて仕方ないのよ」
瞬く。
沙也はにやっとした。
「本当に莫迦よねえ……
ええっと、と結衣がもう一度瞬くと。沙也はまた一切れ、西瓜を口に入れた。
「
指先に残った赤い汁を舐めながら、沙也は喉を震わせた。
「そう
「はあ」
「お結衣も可愛い顔してるんだから」
「そうですか? 間抜けな顔だなあって思いますけど」
「笑うとくしゃってなるのがいいのよ」
ふふふ、と沙也自身は艶やかな笑みを浮かべる。
「でもね、夫婦になっちまったら、次は心持ちの勝負だから」
「はい」
「目の前でちょこちょこ世話を焼いてくれる娘に、コロッと落ちちゃったんだって」
「はあ」
「だからその意気で行けば大丈夫よ」
「うん」
そう受けてから、あれ、と結衣は動きを止めた。
「なんでそんな話」
「あんただって相模を好いてるっていうのはバレバレだよ」
かくん、と口を開ける。さあっと顔から血の気が引いていく。沙也は笑みを深くする。ふるふると腕が震えた。
「で、でも」
と声を絞り出す。
「相模さんは小督さんと……」
「あれは莫迦な連中が勘違いした噂話」
沙也が、ふんっと鼻を鳴らす。
「小督を身請けしたのは
「……そうでしたっけ」
「一度も主人だとは名乗っていないはずだ」
あっと声を上げる。
そう言われて見れば。辰之助に対しても「榮屋の番頭」と名乗った気がする。その時は全く気に留めなかったが。
「相模さんは、奉公人さんなの?」
「そう。ここの旦那は別にいる。わたしも、相模も小督も、古くから通っている連中皆んなが恩を感じている人だ」
沙也が笑みを浮かべるのに、結衣は首を傾げた。
「今はどちらに?」
「ちょっとね。御上のお怒りに触れて、街中からいなくなっちまった」
そんな、と呟こうとした口に、沙也が最後の一切れと西瓜を押し込んできた。
「今更隠すまでもないけど」
指先を結衣の口元に残したまま、沙也が言う。
「ここに集まってきている連中はみんな訳アリだ。わたしや小督なんて可愛いもんだよ。旦那の御恩がなければお日様の下を歩けないような奴も多い」
「相模さんは」
口の中だけで言ったのに、ちゃんと聞こえてしまったらしい。
「あいつだって充分に訳アリだよ」
寂しそうな笑みが返ってくる。
「背中にでっかいものを背負ってるんだ」
次の日も晴天だった。
その蒸し暑い空気の中を、得も言われぬ匂いが漂う。
「今、仕置き場で焼いてるかい?」
「ああ――また莫迦な奴が焼かれているよ」
誰かが静かに手を合わせる。南無、という声が小さく響く。
いつか見たように、咎人に火がつけられたということらしい。結衣も眉を寄せた。
通りの掃除に使っていた箒にもたれかかって、じわっと涙が浮かべていると、横に居た男が手拭を差し出してきた。
「こっそり泣きな、こっそりな」
え、と見上げると顔なじみになった男が困ったように笑っている。
「大っぴらに同情してると、俺らもしょっ引かれかねえからな」
頷く。
「俺らは、ああなりかけてた奴だから、つい手を合わせたくなるんだよ」
しんみりとした榮屋の表に。
「おい、誰か」
がらん、と下駄の音を響かせて、相模が中から出てきた。
「ご住職様にお持ちしろ」
おうよ、と別の一人が立ち上がる。相模は彼の手に油紙の包みをぽんっと落とした。
それを大事に懐に入れて、彼はたっと駆けていく。
「今のは」
「弔い銭だ。家族にさえ触れさせない亡骸でも、仕置き場の横にあるお寺のお坊様には触らせてくれる――弔わせてくれるんでね」
横に立った相模を、結衣はじっと見上げた。
「なんだよ」
「ううん」
首を振る。
背が高い相模の腕はちょうど、目の前に。あの、袖に隠された腕に、黒い二本線があったら。
――あたしはどう思うんだろう?
ふう、と息を吐く。
「中に入って休め。日差しもだが、臭いも辛いだろ」
「うん」
そっと肩を押されたのにも動けずにいると。
別の足音が近づいてくるのが聞こえた。皆が顔を向ける。
「いやあ、えらい匂いだなぁ。走るのが大変だった」
見られた男は肩で息をしながら、言った。
「急いで来たかったんだよ」
ぜえ、ぜえ、というのが収まってから、彼はすいっと寄ってきた。
「おい。野郎が出たぞ」
ひそっと言った男を相模は横目で睨む。そのまま、結衣と男の腕を引っ張って榮屋の暖簾を潜ると、ぴしゃんと戸口を閉めた。
茶色の着物を尻っぱしょりにして、売り物を運ぶための棒を杖代わりにした男は、大きく息を吸って、相模に嗤いかけた。
「
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