14. 我が世誰ぞ常ならむ(4)

 炊事場からの上り口に腰掛けていると、後ろから沙也さやが寄ってきた。

「向こうにあんたもお奈津なつも顔を出さないって、男連中が煩いのなんの」

 前掛けで手を拭きながら、彼女も腰を下ろす。

 微笑まれて、結衣ゆいは苦笑いを返した。

「ちょっと、疲れちゃって」

「そういう日もあるわねえ」

 はい、と渡された椀の中には西瓜すいかの切れ端。向こうの連中に出した余りだと言われた。

 しゃく、と赤く瑞々しい欠片を口に放り込んで、沙也は見向いてきた。

小督こごうの三味線の稽古はどう? これで三日通ったんだっけ?」

「相変わらず筋の悪いお弟子で、自分で厭になります」

 肩を落とすと、ぽんぽん叩かれた。

「そこで諦めるか諦めないかが上達の分かれ道らしいからね」

「小督さんにも、精進なさい、と言われました」

「あはははは! 本当にあいつは厳しい師匠なんだから!」

 同じ時に、向こうでもどっと笑いが起こる。伊織の叫び声も混ざっているが、沙也は気にしないらしい。

「放っときな。揉まれて強くなりゃあ良いのよ」

「そうですか」

「今夜は相模さがみも一緒に食べてるしね、莫迦なことをする奴がいたら放り出してくれるわよ。大丈夫」

「いつもは帳場に詰めっぱなしなのに」

「でしょう? 今日はそんなに忙しくないのか、やりたい気分じゃないのか分からないけどね。お蔭でわたしたちがのんびりできる」

 うん、と頷いて、結衣も西瓜を口に含んだ。

 甘酸っぱくて、冷たい。

 口元が歪む。

「わたし、おまけだって言われました」

「誰に」

「相模さんに」

「何の?」

「三味線のお稽古。お奈津ちゃんに習わせるのが目的で、あたしが通うのはおまけだって」

 ふうっと細く息を吐く。

「でも、当然ですよね。あたしは兄様が見つかったら下総に帰るんだもの。三味線を習ったって、披露する機会なんてないでしょうし」

 すると、沙也は目の端を緩めた。

「違うわよ。相模はあんたに気を向けたくて仕方ないのよ」

 瞬く。

 沙也はにやっとした。

「本当に莫迦よねえ…… 三十路みそじ近くになって未通女おぼこに惚れちゃって、扱いに困ってるなんて」

 ええっと、と結衣がもう一度瞬くと。沙也はまた一切れ、西瓜を口に入れた。

未通女おぼこのうちは顔の良し悪し、二十歳はたち過ぎたら気立ての良し悪し、三十路みそじ過ぎたら寝屋の良し悪し」

 指先に残った赤い汁を舐めながら、沙也は喉を震わせた。

「そううのよ」

「はあ」

「お結衣も可愛い顔してるんだから」

「そうですか? 間抜けな顔だなあって思いますけど」

「笑うとくしゃってなるのがいいのよ」

 ふふふ、と沙也自身は艶やかな笑みを浮かべる。

「でもね、夫婦になっちまったら、次は心持ちの勝負だから」

「はい」

「目の前でちょこちょこ世話を焼いてくれる娘に、コロッと落ちちゃったんだって」

「はあ」

「だからその意気で行けば大丈夫よ」

「うん」

 そう受けてから、あれ、と結衣は動きを止めた。

「なんでそんな話」

「あんただって相模を好いてるっていうのはバレバレだよ」

 かくん、と口を開ける。さあっと顔から血の気が引いていく。沙也は笑みを深くする。ふるふると腕が震えた。

「で、でも」

 と声を絞り出す。

「相模さんは小督さんと……」

「あれは莫迦な連中が勘違いした噂話」

 沙也が、ふんっと鼻を鳴らす。

「小督を身請けしたのは榮屋さかえやの旦那っていうのを、相模だと勘違いしてるの。相模はここの旦那じゃないよ」

「……そうでしたっけ」

「一度も主人だとは名乗っていないはずだ」

 あっと声を上げる。

 そう言われて見れば。辰之助に対しても「榮屋の番頭」と名乗った気がする。その時は全く気に留めなかったが。

「相模さんは、奉公人さんなの?」

「そう。ここの旦那は別にいる。わたしも、相模も小督も、古くから通っている連中皆んなが恩を感じている人だ」

 沙也が笑みを浮かべるのに、結衣は首を傾げた。

「今はどちらに?」

「ちょっとね。御上のお怒りに触れて、街中からいなくなっちまった」

 そんな、と呟こうとした口に、沙也が最後の一切れと西瓜を押し込んできた。

「今更隠すまでもないけど」

 指先を結衣の口元に残したまま、沙也が言う。

「ここに集まってきている連中はみんな訳アリだ。わたしや小督なんて可愛いもんだよ。旦那の御恩がなければお日様の下を歩けないような奴も多い」

「相模さんは」

 口の中だけで言ったのに、ちゃんと聞こえてしまったらしい。

「あいつだって充分に訳アリだよ」

 寂しそうな笑みが返ってくる。

「背中にでっかいものを背負ってるんだ」



 次の日も晴天だった。

 その蒸し暑い空気の中を、得も言われぬ匂いが漂う。

「今、仕置き場で焼いてるかい?」

「ああ――また莫迦な奴が焼かれているよ」

 誰かが静かに手を合わせる。南無、という声が小さく響く。

 いつか見たように、咎人に火がつけられたということらしい。結衣も眉を寄せた。

 通りの掃除に使っていた箒にもたれかかって、じわっと涙が浮かべていると、横に居た男が手拭を差し出してきた。

「こっそり泣きな、こっそりな」

 え、と見上げると顔なじみになった男が困ったように笑っている。

「大っぴらに同情してると、俺らもしょっ引かれかねえからな」

 頷く。

「俺らは、ああなりかけてた奴だから、つい手を合わせたくなるんだよ」

 しんみりとした榮屋の表に。

「おい、誰か」

 がらん、と下駄の音を響かせて、相模が中から出てきた。

「ご住職様にお持ちしろ」

 おうよ、と別の一人が立ち上がる。相模は彼の手に油紙の包みをぽんっと落とした。

 それを大事に懐に入れて、彼はたっと駆けていく。

「今のは」

「弔い銭だ。家族にさえ触れさせない亡骸でも、仕置き場の横にあるお寺のお坊様には触らせてくれる――弔わせてくれるんでね」

 横に立った相模を、結衣はじっと見上げた。

「なんだよ」

「ううん」

 首を振る。

 背が高い相模の腕はちょうど、目の前に。あの、袖に隠された腕に、黒い二本線があったら。

――あたしはどう思うんだろう?

 ふう、と息を吐く。

「中に入って休め。日差しもだが、臭いも辛いだろ」

「うん」

 そっと肩を押されたのにも動けずにいると。

 別の足音が近づいてくるのが聞こえた。皆が顔を向ける。

「いやあ、えらい匂いだなぁ。走るのが大変だった」

 見られた男は肩で息をしながら、言った。

「急いで来たかったんだよ」

 ぜえ、ぜえ、というのが収まってから、彼はすいっと寄ってきた。

「おい。野郎が出たぞ」

 ひそっと言った男を相模は横目で睨む。そのまま、結衣と男の腕を引っ張って榮屋の暖簾を潜ると、ぴしゃんと戸口を閉めた。

 茶色の着物を尻っぱしょりにして、売り物を運ぶための棒を杖代わりにした男は、大きく息を吸って、相模に嗤いかけた。

楠見くすみ賢太郎けんたろうだ。向島に出た」

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