13. 我が世誰ぞ常ならむ(3)
「そこ、違う」
目を閉じたままの
「お
二人並んで座って、首を竦める。
「もう一度、最初から」
その声に、そろりそろり、両手を動かした。
呻いて膝をずらすと睨まれる。
怖いお師匠だ。
一刻余りが過ぎてようやく、今日はここまで、と言われた。
「めちゃくちゃ出来の悪いお弟子になりそうです、あたし……」
結衣が肩を落とすと。
「
小督はきっぱり言った。
その彼女に長屋の出入り口まで送られる。木戸の傍には十を超えたばかりくらいの女の子がそわそわしながら立っていた。次に習うお弟子らしい。
「精進なさい」
その子と戻っていく小督の背中に頭を下げて、奈津と二人じめっとした空気の中を歩き出す。
「難しいね、三味線って」
「驚いた」
二人分の溜め息が空に飛んでいく。
「でも、なんで突然、相模さんは三味線やれなんて言い出したんだろう?」
「どうしてだろう。でも、二人一緒で良かった」
奈津は笑った。
「一人じゃ怖くて小督さんのところに行けないわ」
「そうかも」
結衣も吹き出した。
「なかなかお喋りしてくれないし、考えていることも分かりづらくて、怖いものね」
「そう。怖いの怖いの」
二人で、くすくす、くすくす。
一頻り肩を震わせた後。
「ねえ」
と、奈津が見向いて来た。
「寄り道して帰ろ」
長屋がある路地から一直線。本当なら曲がる角を素通りして、表街道へ。
千住を抜ける道は、水戸へ向かう道と仙台へと向かう道の二つ。この宿場町の真ん中は荒川にかかった堅牢な橋で、旅装束の人々だけでなく飛脚や棒手売りが行き交う。川の上でも、材木を積んだ舟が何隻も泳いでいた。
水鳥の声が響く。
「大橋の向こうはもう江戸じゃないのよ」
「同じ千住宿なのに?」
「もともとは、橋の向こう側だけが宿場町だったけど、どんどん南に延びてきたんですって。端っこは仕置き場」
橋の欄干に手をかけて、奈津は振り向き。
「うちの店はあっちの向島のほう」
今度は南東を差す。
「向島と千住の真ん中あたりに、賢太郎様と辰之助様がお仕えする藩屋敷があるわ」
「そう、なんだ」
この千住宿だけでも、結衣が生まれ育った宿場町の何十倍もあるというのに。
「江戸は広すぎて覚えられないわ」
溜め息を吐くと、笑われた。
「
視線は橋の向こうへ。平らかな原っぱの向こうに雲がかかる。
「遠い?」
「遠いわ」
「江戸の広さよりずっと遠くよ?」
「そうかもね」
「そこから来てくれなかったら、逢えてなかった」
奈津はすん、と鼻を鳴らした。
「お結衣ちゃんが賢太郎様の妹だって教えてくれてたら、もっと早く好きになれてたのに」
「そ、そうなの?」
結衣は肩を縮こまらせる。
「……話せてなかったこと、怒ってる?」
「怒ってた、よ。今は全然」
奈津は微笑んだ。
「お結衣ちゃんと会えて良かった。賢太郎様にまた会える時まで、頑張れる」
ぽっと頬が熱くなる。がくんがくん頷いて、結衣は瞼をすった。
「そうなの?」
彼女はぎゅっと眉を寄せた。
「一人だったら耐えきれない――だって、あの人たち怖いんだもの」
「
「あの人も、出入りしている大工や飛脚の人たちも皆」
ぱちぱち、と結衣は瞬いて見せる。
「厭よ、あの人たち。体中入墨なんか入れてて。絶対悪い人たちだわ」
奈津はしかめっ面になった。
「知ってるでしょ? 咎人には、その
左の肘の下に、真っ黒な二本線。
「そのとおりだけど……」
と結衣は肩を落とした。
「きっと標を誤魔化すために入れているのよ」
奈津は静かに前を向き。
「あの人たちと仲良くなんかなれない。そういう人たちを纏めてる相模さんを好きにはなれない。小督さんだって相模さんの
硬い声で言い切る。
「そういう…… 噂だけど」
ちくり、胸の底が軋む。
「でも、あたしは……」
朱色藍色、これでもかというほど鮮やかな色の鯉や蛇、天部神たち。
最初こそ驚いた、男たちの肩や腕、背に描かれたそれらを結衣はもう怖いとは感じない。物静かな小督も、艶やかに笑う
だが、それを奈津に言うことはできなくて、俯く。
「厭だけど」
と、奈津の声が続く。
「賢太郎様にお会いするまで頑張らなきゃ」
すん、と鼻をすすって、結衣は無理矢理頷いた。
「早く兄様に会いたいね」
「うん」
奈津は、ほうっと息を吐き出した。
「お会いできたらすぐにでもここを出て行きたい」
赤い夕陽を背負って帰る。
結衣と奈津がそろって近づくと、ほっと溜息をつかれた。
「遅かったな」
「ごめんなさい」
「何もなかったか?」
「うん、何も」
くるくると煙管を回しながら、相模はまた大きく息を吐いた。
「最近物騒だからな。気を付けてくれよ」
「どこか出かけてたのか?」
男たちの声に、結衣は笑った。
「三味線を教えてもらうことになったの」
「おうおう、良かったなぁ」
朗らかな声が返ってくるので、やっぱり怖くない、と頷く。奈津は下を向いて、男たちの合間を抜けて戸口の向こうへ行ってしまった。
残された結衣を皆が囲む。
「稽古は楽しかろう」
「誰に教わるんだ?」
「訊くまでもねえ、小督だろ」
「おお、そうだよなあ」
「おっかない師匠だろ」
それにもつい頷く。どっと笑いが沸いた。
「ぶすっとしてて、愛嬌も何もあったもんじゃねえ」
「昔はあれでも深川の店で一番人気の芸者だったんだぜ」
「御上があの辺の店をぜーんぶ潰しちまったから、仕事がなくなって千住に来たんだよ」
そう誰かが言ったのに。
「え? 違うだろ? 相模が身請けしたって聞いたけど」
問うような声が上がる。当の本人は唇を曲げた。
「俺じゃねえ」
おまけに、ちっと、舌を打った。
「いい加減なことを言ってる奴は
それからがりがりと首の後ろを掻いて、彼は店の中に入っていく。
残された男たちの談笑がまた響く。
結衣はパタパタと相模を追った。
「あの」
「なんだ?」
「小督さんは」
「おっかない師匠なんだろ」
いつもどおり帳場で胡座をかいた彼にふっと笑われて、ぽかんと見上げた。
「うん…… 精進しなさいって言われた」
「本当は教えるのより、自分で弾きたい女なんだよ」
相模は首を振った。
「御上の舵取りで迷惑を被った奴の一人さ、あいつも」
「そう、なのね」
「取り敢えず、笑って通ってやってくれ。無愛想だが、あんたのことを嫌っているわけじゃねえから」
頷く。
「でも、なんで突然習えなんて言い出したの?」
「お結衣はおまけだ」
その言葉に、え、と瞬く。
「目的はお奈津だよ。あいつ、もっと自分で稼ぐようにならないと本当に
彼はまた首の後ろを掻き始めた。
「三味線の芸が売れるようになったら、女郎より稼げるかもしれんからな」
そうか、と結衣は頷いて。
「……あたしはおまけ?」
と項垂れた。
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