12. 我が世誰ぞ常ならむ(2)

 僅かに風が吹き抜けて、皆の袖を揺らす。

「あの」

 と、泣き止んだ奈津なつが口を開いた。

賢太郎けんたろう様はお屋敷にお戻りになりましたか?」

「いいや、だだよ。賢太郎が見つからないことについては、我々も困っているんだよ」

 辰之助たつのすけがこちらを振り向いてきたので、結衣ゆいは唇を噛んで俯いた。奈津は首を傾げる。

「このままでは、彼は脱藩者として追われる身になる」

 はあっと息を吐いた辰之助に、奈津は身を乗り出す。

「そんな……!」

「仕方ないだろう? 藩主の言うことを聞いていないってことなんだから」

「でもっ! わたしにはお役目があるとおっしゃってました」

「知らないね。僕は聞いていない」

 肩を竦めて、一層視線を鋭くする。

「今御公儀は、ご老中水野越前守様御主導による改革の真っ最中だ。わが主の土井大炊頭おおいのかみ様もその手助けにお忙しい。となると、僕らも大忙しなんだよ。享保・寛政の政治に復帰するように努力せよというのが最大のご命令。今はそれ以外にお役目などありえないんだから」

 しゅん、と奈津は肩を落とした。

「賢太郎様……」

 呟いて、彼女はまためそめそと泣き出す。結衣もぐいぐいと顔を拭った。

 ふう、と辰之助は立ち上がろうとして、また腰を下ろした。そして足を組んで。

「おい、おまえ」

 と帳場を向いてくる。煙管を下げて、相模さがみは笑った。

「相模と呼んでくだせえ」

 辰之助の眉がぴくっと動いた。

生国しょうごくを通り名としているだけだろう、それは。おまえ自身の名は何と云う?」

「名乗るほどではございませんよ」

 淡々とした声に相手は、今度は口元を歪ませた。

「下町の口入屋風情が偉そうに……」

「おや。ここが口入屋とよくご存じで」

 くつくつと相模は喉を鳴らす。辰之助の頬が引き攣る。

「仮にも賢太郎の妹の仮宿だからね。どんな店かは調べさせた。って――そんなことはどうでもいいんだ」

 はぁっともう一度息を吐いて。

「ここでのお奈津の奉公を止めさせたいんだが」

 辰之助は言った。

「こんな場末で粗末な仕事をするような子じゃない」

「なんですか、身請けでもされるおつもりですか」

 相模の鋭い視線を真正面から受け止めても、彼は揺らがない。

「幾ら払えばいい?」

「金で解決させるおつもりで」

「身売りした娘を金で買った外道が何を言う。それに合わせてやろうというんだ、ありがたく受けろ」

「……辰之助様」

 そこで奈津がきっと顔を上げた。

「お気持ちは嬉しいですけれど、お世話になるわけにはいきません」

「だけど、お奈津」

「将来を誓った賢太郎様ならいざ知らず、辰之助様は赤の他人でございますから」

 きゅっと眉の間を寄せて、彼女は言い切った。

「わたしはわたし自身で頑張ります」

 辰之助が、ぽかん、と口を広げる。

「だそうですよ、近野こんの様」

 相模が静かに告げる。

「此処は色を売る店じゃないんでね、そういう点はご安心くださいよ。やることと言ったら、泊り客の飯の用意と洗濯くらいだ。まあ、そんなのんびり働いていたら、金を返し終わる頃にはばばあになっているかもしれないが」

「あの」

 と、奈津も口を開いた。

「わたしは大丈夫です。だから――もし、お願いできるならお母ちゃんを」

 辰之助が厳しい顔になる。

「それは――」

「そりゃあ駄目だぜ」

 相模もきつい声を挟む。

「てめえが赤の他人の世話にならねえって言ったんだからな。自分のことも母親のことも、自分で何とかしな」

 奈津は俯いた。ぽたぽた、と土間に雫を零し始める。ああ、と結衣は呟いた。

 辰之助の溜め息も響く。

「ここまで言われたら仕方ないのか」

「ええ、お引き取りください」

 と、相模は言い、賑やかさを増してきた道を見遣った。

「連中が戻ってきた。口入屋の開店です」

 開け放たれたままの戸口の向こうには、背や肩に極彩色を纏った男たち。

 こん、と下駄を鳴らして、辰之助様は立ち上がった。

「正直、こんな下人ばかりの裏通りに顔を頻繁には出せない。けれど、お奈津を酷い目に合わせたら承知しないからな」

 ふん、と鼻を鳴らして、辰之助は男たちの合間を縫って行く。

「辰之助様」

 結衣は慌てて追った。彼は振り返る。

「兄が見つかったら、教えていただけますか?」

 叫ぶと、頷き返される。

「勿論。君が見つけた場合も教えておくれよ」

 それだけ言って、彼は表街道の方へと歩いて行った。



 中に戻ると、奈津はまだ框に座り込んで、袖で顔を拭いていた。

「お奈津ちゃん」

 呼ぶと、険しい顔を向けられた。なに、と身を退く。奈津はやっぱり何度も口を空回ししてから、言った。

「お結衣ちゃんは賢太郎様の妹だったの?」

 声が固い。ぎゅっと身を竦める。

「どうして教えてくれなかったの?」

「それは」

「喋り損ねることってあるよなぁ」

 後ろから口を挟んだ相模を、奈津はぎっと睨んだ。

 そのまま勢いよく立ち上がり、また大きな足音を立てて奥へと走っていく。

「お奈津ちゃん!」

 追いかけようとして、背中の頑なさにずきり胸が痛んだ。

「ごめんね」

 隠していたことを怒られているのだ、と俯く。

「本当に言いそびれてたのか」

「うん…… なんか、そう」

 両手で顔を擦ってから振り向くと、ははっと笑って、相模は煙管を置いた。

 結衣はぶんっと腕を振ってお盆を持ち上げた。そのまま湯呑を四つ、ついでに煙管と灰落としを乗せて、炊事場へと向かいかける。

「その掃除くらい俺でもできるんだがねえ」

 相模の声に見向く。彼は目を細めていた。

「ついでだから、やるよ?」

 そう返事をしてから、あっと叫んだ。

「もしかして、吸えなくなるから困る?」

「いいや」

 彼はもっと目を細めて、立ち上がった。結衣がぱたぱた進むと、追いかけてくる。

「煩いわねえ」

 傍の部屋では、欠伸を噛み殺しながら、沙也が身を起こした。

「飯時にはまだ早いよ」

 相模の声に、沙也は、そう、とだけ言ってまた寝転んだ。伊織もまだ寝息を立てている。

 かちゃん、かちゃん、と盥の中で湯呑が躍る。逆さに振った灰落としの中身は囲炉裏に消えていく。

 顔を上げると、炊事場の上り口で相模はにやにや笑っていた。

「……なんで見てるの?」

 呆然と呟く。

 彼は薄い唇を綻ばせて。

「飽きねえからな」

 と言った。

 頬が熱くなる。決して、季節が夏だからではない。


――お奈津ちゃんと兄様のせいで、相模さんが気になって仕方ないんだよ。

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