11. 我が世誰ぞ常ならむ(1)

 昼の榮屋さかえやは静かだ。

 炊事場の隣の畳の上では、沙也さや伊織いおりの母子が昼寝をしている。奈津なつは井戸端に腰を掛けて背中を丸めて何か本を読んでいる。その奥の通りからは三味線の音――小督こごうが稽古中らしい。

 開け放った戸口からの日差しで明るい表の帳場では、相模さがみが煙管を咥えて帳面と睨めっこしていた。

 その傍を抜けて、結衣ゆいは土間に立って箒を手にした。

「まだ掃除してんのか」

「うん…… なんかじっとしてられなくて」

「お奈津とお喋りでもしてろ」

 口の端を上げた相模に、結衣は真っ赤な顔を向けた。

「い、いやだよ。だって、お奈津ちゃんってば……」

「春画を見てるんだろ?」

「いやーーーーーー!!」

 結衣は大声を上げた。相模が体をくの字に曲げて笑い出す。

「御禁制の春画だぜ? いったい何処から手に入れたんだろうなぁ?」

「あ、あれは! いつものおいさんたちが布団の上に忘っていって! って、なんで相模さん内容知ってるの?」

「それはさっき、後ろからのぞき見したからだよ。派手な色の着物を着た男と女が脚と脚を絡ませて……」

「説明しないで!」

 叫んでも、彼は大笑いし続けている。じわっと潤んだ目を擦ってから、箒をがさがさ動かし始める。

「まったく――初心うぶなのをからかって悪かったよ」

 肩を竦められたのに背を向けて、塵を掃き出して、一緒に表に出た。

 火照った頬を、蒸し暑い風が打つ。

――打ち水も必要かな?

 そろそろ梅雨明けだろう。眩しさに目を細めながら、箒を動かす。

 ちゅん、と雀が跳ねていく先に視線をやると、角を曲がってくる影が見えた。

 人だ。髷を結った、大小二本差しの男。

――お侍さん?

 彼は暫し通りを見渡した後、こちらへと真っ直ぐ歩いてきた。

 結衣の立つ軒先の、大きく墨書きされた木の看板を見上げて、二呼吸。それから、柔和な笑みを浮かべた顔を向けてきた。

「榮屋ってのは、此処かな?」

「そうです」

 問われ、踏み止まって、頷く。

「何か御用ですか?」

「此処に逗留しているお結衣さんに会いに来たんだ」

「……え?」

「取り次いでもらえるかな?」

 瞬いて。口を開こうとして。

「御用なら先に名乗っていただけませんかねえ?」

 ぐいっと後ろに引かれた。

 前に踏み込んできたのは相模だ。くるんくるん左手で煙管を回して、右手で結衣の肩を掴んで、嗤う。

「手前はこの榮屋の番頭ですが、あなたはどちらさんで?」

 彼はひくりこめかみを動かした。

「名乗りが必要かい?」

「ええ、江戸っ子の礼儀でござんしょう?」

 相模の声の調子は変わらない。相手は大きな溜め息を零した。

近野こんの辰之助たつのすけだ」

 知っている名前に思わず声を上げる。


 兄の失踪を知らせてくれた当人ではないか。


「すぐに来られなくて、すまなかったね」

 上り框に腰を下ろして、辰之助はにっこり笑った。

 背は高くもなく低くもない。だが、引き締まった体ですらっと見える。湯呑を持つ手も皸一つ無い端正なかたち。青く反り上げられた月代に皺ひとつない小袖と袴、磨き上げられた鞘の大小と、身嗜みも隙が無い。

――真面目な兄様と一緒だ。

「手紙はすぐに読んだんだよ。わざわざ江戸に出向いてきたと知って驚いた。いや、僕が賢太郎けんたろう行方不明ゆくえしれずになったと知らせたせいなのだが」

「お知らせくださってありがとうございました」

 結衣は両手をついて、頭を下げた。

「そして、ご迷惑をおかけしています」

「残念なことにそのとおりだ。役目に穴を空けられて、非常に迷惑している」

 辰之助は肩を竦める。

 結衣は俯いた。

「どのような状況でいなくなったんですか……?」

「手紙にも書いたけど、朝起きたら布団がもぬけの空でね…… あいつの性格なら、きっちり畳んでいきそうなものだけど、広げっぱなしでさ。最初は便所にでも行っているだけかと思ったけど、どれだけ経っても戻って来なくて、それから屋敷中を大捜索だ。誰も何も聞いていないし、置手紙の一つも無い。翌日は江戸の市中にも出張ったけど、全く手掛かりなし」

「本当に黙っていなくなったのですか?」

「そうだよ?」

 辰之助は目を細めた。

「なんで?」

「いいえ……」

 結衣は首を振った。

――お奈津ちゃんはしばらく会えなくなると言われたようだったから。

「でも、いなくなったままでも困るんです」

 そろり顔を上げると、辰之助が見下ろしてきていた。

「そんな言って、まさか君、このまま江戸で賢太郎を捜すつもりかい?」

 問いに、首を縦に振る。

「家で母も心配しております」

――叔父様が怖いせいもあるんだけど。

「そうか」

 と、そこで辰之助も溜め息を吐いた。

「僕も協力すると言いたいところだけど…… ああ、苛々するな」

 彼は己の懐に手を突っ込んだ。そして取り出したのは煙管だ。おい、と後ろを向く

「煙草盆を貸してくれ」

「ええ、いいですよ」

 帳場に座っていた相模が、ずいっと手提げのついた煙草盆を押し出してきた。

 綺麗に磨かれた灰落としと火入れ、煙草入れがお行儀よく並んでいるそこから掴み上げた葉を、辰之助はすっと煙管に押し込んだ。

 彼の物は六寸の延べ煙管だ。吸い口から火皿まで全て真鍮で出来ているらしい。

「熱くないですかねえ?」

 すうっと煙を上げる辰之助に相模が笑いかける。

「平気だよ。続けて吸っていたら持てなくなるくらい熱くなるだろうけど、そこまでは、ね」

 その口ぶりからすると、彼が吸うのはちょうど三服だろう。その間に、と結衣は立ち上がった。

「お茶、入れてきますね」


 炊事場に行くと、奈津も戻ってきていた。

「喉乾いちゃった」

 えへへ、と笑う彼女に、結衣も吹き出す。

「つい見ちゃうの……」

「そ、そう」

 面白いか、とは問えず、結衣はお湯を沸かすとそれを急須に移す。

「わたしも貰える?」

「先にお客様に出してからね」

「どなたか見えてるの?」

「うん…… 近野辰之助様っておっしゃるお侍さんで」

「辰之助様!?」

 奈津は大きな声を上げた。結衣は思わず顔を上げた。

 真っ赤な顔が見える。二度、三度と深呼吸をして、奈津は表へと走り出した。

 けたたましい足音を立てた彼女が帳場に転がり込むと、相模と辰之助が同時に振り向いた。

 怪訝そうな相模を押しのけて、奈津は框ぎりぎりに立つ。それを見上げて、辰之助がゆっくりと、ゆっくりと笑んだ。

「やあ、お奈津じゃないか」

「本当に、辰之助様?」

「僕以外の誰に見えるんだい?」

 奈津はその場にすとんと座り込んだ。そして、両手で顔を覆って泣き出す。

「うえ、うええええ」

「よしよし、泣くんじゃないよ、お奈津」

「だって、だってぇ……」

 部屋の境に突っ立って、結衣は大きな声で泣きじゃくる奈津をぽかんと見つめた。

「お知り合いで?」

「ああ…… 賢太郎と通っていた小料理屋のお嬢ちゃんだ」

 辰之助は頷いた。

「君も急に居なくなるから吃驚してたんだよ。店の主人は何も言わないし」

 延べ煙管をもう懐にしまったらしい辰之助が、ぽんぽんと奈津の肩を叩く。彼女は鼻をすすった。

「お父ちゃんがわたしたちを売ったんです」

「わたしたちって、女将さんはどうしたんだい?」

 目を丸くした辰之助が言うと。

「お母ちゃんは品川で……」

 と、また奈津がおいおいと泣く。

 辰之助の右手が宙に浮いて、静かに奈津の背中に下ろされた。

 その二人の後ろに、湯呑を乗せたままのお盆を置くと、結衣はそのままずるずると下がる。

「おまえも座れ」

 そう言った相模は二歩も退いたところで、また煙管に火を点けていた。

 彼のそれは変哲のない石州煙管だ。吸い口と火皿が鉄で、管(羅宇)が竹のもの。その筒の部分を持って。また帳面を繰り出す。

 黙ってしまった彼の傍に一つ湯呑を置いて、自分も飲み始める。


 煎茶は、すごく苦い。

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