10. 散りぬるを(5)
しばし迷って、首を横に振った。
「だけど、相模さんに助けてもらったのは一緒」
「……一緒?」
「あたしも一歩違ったら、女郎屋に売られてたのかも」
苦笑いする。すると、奈津が手を伸ばしてきた。
「き、聞いてほしいことがあるの」
その小さな手が結衣の袖を掴む。ぎゅっと皺が寄る。
こくんと頷いて、その場に正座した。ほっと、奈津が息を吐く。
それなのに、しばらくは黙ったまま。結衣がそわそわと膝を動かし始めてからようやく。
「女郎屋には売られたくなかったの。だって――だって、わたし、好きな人がいるのだもの」
奈津が言った。
「そ、そうなの」
もう一度、首を振る。
「うちの料理屋によく食べに見えていた、お侍さん」
ぽつん、ぽつん、と声が続く。
「背はそんなに高くないんだけど、お優しい顔立ちの、お優しい人。いつも笑顔の人。たまにご友人と二人で見えてね、美味しそうに召し上がってくださってた」
「うん」
「美味しい美味しいって言ってくださるのが嬉しくてね。ちょっと多めによそっちゃったり、はしたないけど話しかけたりしてたら、その人もわたしを、その…… 好いてくださって」
相槌をうつと、奈津は一瞬だけ微笑んだ。
「夫婦になりましょうって約束を交わしたの」
「それをお父様はご存じだったの」
「もちろん、お父ちゃんにもお母ちゃんにも伝えたわ。その方も御挨拶にきてくださったのよ」
「そこまでしてたのに、お父様に売られたの?」
唖然となる。
「その方とわたしが会うよりずっと早くから、お父ちゃん借金まみれだったんだもん。博打のし過ぎで」
奈津の声が潤む。
「何度も何回も、お母ちゃんとわたしで博打は止めてって言ったんだよ。でもダメで。ついに先月の賭場で、賭けるものがないからってわたしとお母ちゃんを……」
ううっと彼女は両手で顔を覆った。落とされた湯呑が床を転がる。
「お母ちゃんは品川で売られていったわ。でも、わたしの操はあの人のものだから女郎にはなれないって言ったら……」
それで越後屋は榮屋にこの娘を連れてきたのか、と結衣は瞬いた。
「言ったら、すごい殴られた。水を沢山かけられて、死ぬかと思った」
咽び続ける結衣は奈津の肩を掴んだ。自分の目も潤んでいる気がする。
「げ、元気出してよ……」
「うん……」
「そうまでしても操を守って、好きな人に会いたいんでしょ?」
「うん、うん、そうなの」
奈津は掌をずらして、顔を覗かせた。
「だから、うちに戻りたい。何も伝えられずに連れてこられちゃったから、あの方は私が今ここに居ることを知らないと思うの。あそこで待つってお約束したのにいなくなってたら、なんて思われるか…… 考えたくもない」
ううっともう一度嗚咽を零し始めた彼女の背をとんとんと叩く。
「もう、二月からお会いできていないの。最後にお会いした時、お役目でしばらく会いに来られないとおっしゃって。だから、家でお待ちしていますってお約束したのに」
「そう、よね」
また頷く。奈津が息を吐く。長く長く吐き出した後、彼女はふわり顔を上げた。
「頑張らなきゃ」
ぐいぐいと目を擦っている。それから、微笑んで。
「生きて、賢太郎様にお会いしたい」
奈津が呟くのに、結衣は頰を引きつらせた。
「けん……?」
「
彼女はすん、と鼻を鳴らす。
「
忍び足だったはずなのに、井戸の側の縁側にどっかと腰を下ろしている人はすぐに振り向いた。
「
「なに夜更かししてるんだ?」
耳に心地よい、低い声に。
「さっさと寝ろ、小娘が」
ちくん、と胸の奥が痛む。
「だって、寝れなくなっちゃったんだもの」
「困ったもんだ」
とんとん、とすぐ隣の床を指先で叩かれたので、結衣は無理やり笑んで、腰を下ろした。
煙草の香りが漂う。
「この時間に起き上がっているのは普段は俺だけなんだがね」
ゆるり綻んだ薄い唇に、背中がぞくりと震える。
――
その逞しい胸に温もりは抱かないのか、と問いかけて、唇を噛む。
相模は長く煙を吐き出した。
「さっきまでお奈津と仲良くお喋りしてたみたいじゃないか」
聞こえていたのか、と頷く。
「お奈津ちゃんの好きな人の話をしてたの」
ぴんと背筋を伸ばして、言葉を継ぐ。
「兄様だった」
相模が口の端をゆっくりと持ち上げた。
「その、好きな人の名前を教えてもらったの」
「兄貴の名前だったか」
「同姓同名の知らない人とかじゃないよね?」
「その可能性もあるかもしれんがな」
とんとん、と煙草盆の上に灰を落として、相模は次の煙草を詰めて、彼は笑った。
「良かったじゃねえか。やっと一つ、手掛かりだ」
「そう…… かなぁ」
「お奈津の家の辺りを張り込んでやる。また現れるかもしれねえだろ」
「そうか」
手を叩く。そのまま何度も深呼吸した。
「兄様もお奈津ちゃんに会いたいはずだから」
ドクンドクンと耳の奥が鳴る。そのまま掌を口元に当てた。
「知らなかった」
と呟くと、視界が揺れた。
「兄様に、互いに好き合う人がいるなんて」
「そりゃあ、妹にわざわざ知らせたりしないだろうよ」
「でも、夫婦になる約束までしてたのよ」
湿った頬を拭う。
「下総まで連れて帰ってくるつもりだったのかなぁ」
「どうだろうな」
ふう、と相模は煙を吐き出す。
「気になること全部、とっ捕まえてから喋らせるんだな」
それしかない、と結衣は頷く。
「早く聞きたいな。兄様は江戸で何をして過ごしてたんだろう?」
「さてな……」
煙管を咥えたままの顔に、ふと浮かんだ言葉をぶつける。
「相模さんは兄様と会ったことない?」
まさかそんなことが、と笑うと、彼も盛大に吹き出した。
「あるわけねえだろうな」
くっくっと喉の奥を鳴らし続けながら。
「いいところのお坊ちゃんが、この裏通りに来る用事なんかないだろうよ」
そういうものか、と首を振る。
「ごめんなさい」
「何を謝る」
「なんか、いろいろ」
そろりと見遣ると、彼は目を細めて見返してきた。
一重の瞳は月明かりより柔らかい。
体の芯が震える。
「いいんだよ」
声はどこまでも柔らかく響いた。
「分かったらさっさと寝ろ、小娘が」
空を見上げても星が零れてくるばかり。
衣擦れ一つ響かない夜だ。
ふと、相模は音も無く、煙草盆から灰入れを持ち上げた。鉄でできたそれを軽く振って、ひやり笑みを浮かべて――
ぶん投げた。
「ほげっ!」
庭の端の木の蔭で、叫びが上がる。
ひょいと立ち上がってそこに向かったが、相手は草を踏み倒して走り去っていってしまった。
微かに見えた影から判じるに、二本差の侍だ。
「いい度胸じゃねえか」
煙管をくるくる回しながら、相模は土の上に転がっていた灰入れを取る。
「どこの回し者かねえ……」
くつくつ笑った。
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