09. 散りぬるを(4)
「
「やーっと、
「そこを何とかしてくれよ」
煙管を回しながら、相模は炊事場から出て行く。
「言い放つだけなら簡単よね」
もう一度肩を竦めて、彼女は振り返ってきた。
土間には体を縮こまらせる結衣。そして、まだ袖の端から水を滴らせる
「あんた、名前は?」
下駄を突っかけて降りてきた沙也の問いに、奈津はすぐに答えた――やはり小さい声だったが。
「お奈津、ね。何ができる? 基本の煮炊きはいけるよね」
首を縦に振る彼女の髪から、ぽた、ぽた、滴が落ちる。
あ、と結衣は呟いて、視線を巡らせた。
「お沙也さん。手拭ってここには仕舞ってなかったんでしたっけ」
「拭き取るなんて、時間がかかって仕方ないよ。だから、今日の仕事に取り掛かる前に、お風呂入ろうか」
結衣はぱんっと手を打った
「お風呂! 銭湯!」
「一緒に行くよ」
下駄を放り出して、沙也が部屋に上がる。
「着物、また借りていいですか?」
「箪笥に入ってる分から好きなの着なさいって。着替えと糠袋、二組持ってね。あんたの分とお奈津の分」
「……湯巻の替えはどうしよう」
「ああ…… まだ下ろしてないのなんかあったかね?」
喋りながら部屋に行くと、
「オレも! オレも銭湯!」
「
「ええ!?」
「股の間で元気にぶら下げておきながら、 いつまで女湯に入ってくるんだい」
「ケチぃ!」
「はいはい」
明るい声を立てて、沙也も風呂敷包みを抱えて戻っていく。結衣もまた風呂敷を二つ抱いてきて、一つを奈津に渡そうとした。
彼女はまだ下を向いたままだ。
結衣も唇を噛む。
「ほらほら、さっさと入ってこないと、飯の支度が間に合わなくなるよ!」
沙也が奈津の腕を掴み、引っ張っていくので、結衣は風呂敷を三つ抱えて走ることになった。
雨は止んで、ぬかるんだ裏通りには幾つもの足跡が残っている。
紫陽花の青と夕焼けの赤に目を細め、ふと、振り返る。大きな椎の木の下に居た男と目が合った。
彼はぎょっと目を剥いた。
――誰だろう。
まだ若い男だ。髷をきちんと結い上げて、ぱりっとした小袖と袴を身に付けている。
暫し見つめあった後、彼はばたばたと川のほうへ走り去っていった。袖を翻して走る背中に首を傾げる。
――知ってる人、だったかな?
久しぶりの湯船を堪能して戻ってきたら、飯はまだかの大合唱。
小督も巻き込んでばたばたと走り回っているうちに、同じ大きさに切られた人参がまな板の上に並んでいた。
「あんた、上手ねえ!」
沙也が目を丸くする。
「……うち、料理屋なんです」
包丁を置いて、奈津がはにかむ。
――やっと笑った。
そんな奈津の手元を伊織が覗き込んだ。
「おねえちゃんは何のごはんが上手?」
びくっと体全体を揺らした彼女は、また押し黙る。沙也が苦笑する。
「煮物は?」
「できます」
「魚は捌ける?」
「はい」
強張ったままの彼女の肩を、沙也は豪快に叩いた。
「やったぁ! これで料理が楽になるわー!」
そして、竈の前に奈津を引っ張っていく。
そんな二人を横目で見ながら、結衣は溜め息を吐いた。
目の前に転がるのは、長さが合わない人参の葉。炒めてしまえば分からないとはいえ、あの人参と一緒にお膳に乗るのかと思うと。
――なんか、惨め。
再び溜め息。
反対側を見ると、小督の手元でも、胡瓜がごろりんごろごろと刻まれていっていた。
「今日の煮物は味がいいなぁ!」
舌鼓を打つ男たちは喧しい。
「お奈津ちゃんが作ったんだってよ」
「女の子が増えて、榮屋が居心地よくなっていくなぁ」
ほくほくとした顔の男たちに、奈津は顔を真っ赤にして俯いた。
うっかり触ったら折れてしまいそうな細さだ。顔も小さくて、色が白くて、どこまでも儚い風情。
「おい、お奈津ちゃん。自分も食えよ。着物ぶかぶかじゃねえか」
「おおい、相模! 新しい着物買ってやれよ!」
「そんな余裕はねえよ」
大部屋の向こう、帳場から声だけ返ってくる。
「お奈津ちゃんだけじゃねえぞ! お結衣ちゃんにもだぞ!」
「余裕ねえって言ってんだろ!」
笑い声が起こる。
それでも相模はこちらに背中を向けたまま。その隣へ小督が寄り添っていく。
「相模はダメだ、相模は」
「あいつは小督にだって何も贈んねえだよ」
結衣はぶんぶんと首を振った。それから飯櫃からよそった白米を渡すと、相手の男はがははと声を立てた。
大工に棒手売、飛脚といった逞しい体つきの男たちは、大きな声で笑いあっている。
「新しい着物、いいよなあ。皆で一斉に買い換えたら、ぱあっと明るくなるぜ、この中が」
「我慢我慢ばっかりじゃつまらねえしなぁ」
「全くだな」
そのうちの一人がすいっと奈津の横に寄る。
「俺なら新しい着物をぱっとすぐに買ってやるって」
肩を抱き寄せられて、彼女は顔を伏せたまま、ぶるぶる震えている。
「なんだなんだ、もう俺に惚れちまったかい?」
「戯れんのも程々にしておけよ」
いつの間にか帳場からやってきていた相模が、その腕を除ける。
解放された奈津は、だっと裏口のほうへ走っていってしまった。溜め息の後に、相模が大股で追いかける。
待って、と叫びかけた背中にご馳走様と声がかかる。
振り返って笑って。
「片付けはあたしが頑張るから」
言うと、沙也は苦笑いを浮かべていた。
満天の星空に照らされた背中は、やはり小さい。
それにわざと大きな足音を立てて近寄って行って。
「はい、お茶」
湯呑を盆に載せたまま突き出した。振り向いた奈津は唇を
「……いらない?」
「いる」
細かく揺れる手が、結衣の手から湯呑を持って行く。
ず、ず、と啜る音。かたかたと膝が床を打つ音。
本当はすぐに炊事場に戻ろうと思っていたのに、彼女が顔を上げずにいるのを見下ろして、そのまま立ち尽くしてしまった。
やがて、音が止む。
湯呑から口を離して、奈津はひたと見上げてきた。
「な、なに……?」
結衣は僅かに身を退いた。
二度三度唇を空回してから。
「どうして
そう、奈津は言った。
「あなたも売られてきたの?」
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