08. 散りぬるを(3)
土間に突っ立った
「そ、そこに、人……!」
開け放たれたままの
「おやおや……」
「榮屋の御宅はこちらでござりまするか」
軒先に居た方が大きな声を上げた。
「手前です。お入りなされ」
相模が低く受ける。
「御敷居内、御免下されまし」
外の彼は肩にかけていた荷物を下ろしてから敷居を跨いできた。そのまま土間に両手をつき、頭を下げ腰をかがめる。
「親分様でござりまするか」
その正面に相模も腰を落として手をついた。両掌を天に向けている相手と違い、右手だけ。左手は煙管を握ったまま、背中に回している。
「自分より発します。御控えください」
と、相模が続けたのに、結衣は息を呑んだ。
「どういたしまして、御控えください。私は旅のしがないものでござんす。御控えください」
「手前も当家のしがない者でござんす。御控えください」
「さよう仰せられ。御言葉の重るばかりでござんす。御控えくだされまし」
言葉が流れていく。その間に、框の上、戸口の外に数人の男たち――すっかり顔馴染みの入墨を背負った彼らが立っていた。
それをすっと見遣ってから、相模が目を伏せる。
「再三の御言葉に従いまして控えます」
相手の肩にはぐっと力が入った。
「早速、お控え下すって有難う御座います。手前、粗忽者ゆえ、前後間違いましたる節は、まっぴらご容赦願います。向かいましたるお
すらすらと相手は、自分が水戸の方から来たこと、このまま京へ向かい商いをしたいのだということを述べていく。
――仁義を発してるの、初めて見た。
生家の本陣ではこんなことはなかったけれど。旅人たちが宿場町を通るのに、顔役に挨拶に行くのだとは聞いたことはあった。旅から旅への無宿人たちを助けるための習わしだ、と。
結衣はごくりと唾を呑み込んだ。
「後日に御見知り置かれ行末万端御熟懇に願います」
入ってきた大男が黙ると、そのまま場が静かになる。目を開けた相模が息を継いだ。
「有難う御座います、御丁寧なるお言葉」
そしてまた二言三言交わして、双方が同時に手を上げる。
ふっと糸が切れた。
「小便行きたい」
わっと叫んで伊織が駆け出していく。
「なんでえ、伊織。まだ肝っ玉小せえのか」
「知らない者にビビるのは粋じゃねえぞ」
戸口の傍の男が荷物を抱えて入ってくる。上に居た方が旅人を引っ張り上げて、奥へと入っていった。
瞬いた瞼の隙間からぽたぽたと落ちた雫が土間に染みを作る。
「お結衣」
相模に呼ばれ振り返れば、また何か放り投げられた。
「手拭?」
「今の奴からの預かり物だ。明日返してやらなきゃな」
「……洗っておけばいいの?」
問うと、彼は薄い唇をにやりと上げた。
「任せた」
翌朝、その旅人は日本橋の方へ行く手売り達と一緒に出て行った。
仁義を発した時とは裏腹の弱腰で、彼はそれを押し抱いて頭を下げ、静かに去っていった。
「本当に、いろんな人が来るのね」
榮屋は旅籠で口入屋。相模は手配師で、千住の顔役。今日も人が出払った後の帳場で、彼は難しい顔をしている。
煙草盆の灰落としを洗ってやると、彼は奇妙な表情で結衣を見遣ってきた。
「……あたし、なにか可笑しなことをした?」
「いいや…… 気にするな」
笑われる。笑い返す。ちくり、胸が痛む。
そして、雨の止まない昼下がり。
「お邪魔するよ」
入ってきた顔を見て、結衣は口を引き結んだ。
「もう、あんたには手を出さないよ」
丸顔と鋭い視線が不釣り合いな、羽織を着た相手はあからさまに嫌そうな顔をした。
「相模が引き取った者に手を出すなんて、命知らずだけさ」
「だったら怖がらせないでやってくれ」
入ってきた相手――
「今度は何だ?」
「もう一人、面倒な娘を引き取ってくれないかね?」
越後屋はちらりと戸口の外に視線を送った。
娘が一人立ち尽くしている。
その向こうには大柄な男――水茶屋でも見かけた男が傘を差して立っていたが、彼女はずぶ濡れだ。
髷のほつれから、袖から、雫を落として、唇を真っ蒼にして震えている。
「中、入れば?」
結衣が声をかけたが、首を横に振られた。
「いいから入れ。通りの邪魔になんじゃねえよ」
相模が大声で言うと、傘を差した男が娘を突き飛ばした。
きゃっと叫んで彼女は土間に転がった。ずかずかと男は追い抜いて行ったので、結衣は娘に手を差し出した。
びしょ濡れの彼女は、結衣と年は変わらなそうだ。大きな瞳を潤ませて、継ぎ接ぎだらけの着物に隠された体を蒼白くして、両手をついたまま震えている。
結衣は、首を傾げて、立ち上がった。炊事場に駆け込んでいくと、寝転がって本を広げていた伊織が変な顔をした。
「どうしたの、ねえちゃん」
「お茶入れるのよ」
囲炉裏の鉄瓶に残っていたお湯でお茶を入れ、盆に湯呑を四つ載せて、小脇に手拭を挟んで、戻る。
湯気を立てるそれらを越後屋に、そして傘を持ったまま立っている男に差し出すと、やはり変な顔をされた。
――あれ?
おっかなびっくり一つを相模の傍に下ろすと、彼は一息で飲み切ってしまった。
そろり、土間に突っ立っている娘の傍に行く。
「はい。あったかいの、飲んで」
無理矢理握らせて、手拭で顔をぬぐう。べっとり落ちた白粉にげっと呻きながら、水滴だけを吸っていく。
湯呑に触れている彼女の指先がほんのり赤くなっていくのに、ほっと息を吐いた。
「吉原で売れなかったのかい、あの娘は」
帳場では相模と越後屋が煙管をふかしている。
「私だって鬼じゃないんでね。嫌だって泣く娘を吉原に放り込んだりはしないんだよ」
「よく言うよ。飢饉の時は、陸奥から流れてきた幼子を何人連れて行ったんだい?」
「あれはいいんだよ。本人たちも綺麗なおべべが着られると喜んでいたんだからね。それに」
と、越後屋は煙を吐き出す。
「吉原は幼い子供を欲しがるんだよ。一から芸を仕込んで、売れる女を育てたいんだから。二十歳近いのが売れるのは品川か千住の女郎屋」
「ふうん」
相模も煙を吐きながら、頷く。
「で、品川はおろか、この千住でも売れなかったと」
「ご明察」
男たちの視線が土間の娘に集まる。結衣も知らず身を小さくした。
「見た目も半端だし。想い人がいるから色は売りたくない、でも借りた金は早く返したいなんて言うし。扱いづらい女郎を買う奴がいると思うかい?」
越後屋が呟いた。
「いないだろうとは思うが…… それよりも、貸した金を返したいのは、またしても叔父貴だとか云うんじゃないだろうな」
「今度はちゃんと実の父親だよ。人別改帳まで見に行ったからね」
「そんなまでして父親に売り払われた娘御の金返しに協力してやれってか」
相模は首の後ろを掻く。
「榮屋の人手は足りてるぞ」
「冗談おっしゃい。この千住で面倒な拾い物をできるのはあんただけでしょう?」
越後屋がにやりと笑う。今まで見てきた静かな顔が嘘のような、
相模の大きな溜め息が響く。
「そのとおりだよ、くそったれめ」
と、相模は土間に突っ立ったままの娘に顔を向けた。
「あんた、名前は?」
びくっと体を揺らした彼女と結衣がぶつかる。彼女はまたあっけなく転んだ。
「大丈夫?」
それに手を出そうとしたのを。
「お結衣。止めとけ」
と、相模が声をかける。
「でも」
がばっと振り返る。笑われた。
「名乗ることさえできないって言うんじゃ、さすがに引き受けられねえ。だから、自分でちゃんと話すまで待ってやるんだよ」
柔らかな視線。引き攣る鼓動。数瞬の沈黙。
雨の音が弱まった時にようやく、
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