22. 有為の奥山(2)

 夕陽が照らす、太い木の柱が支える大橋。江戸の北の際の橋。

 その上を人が行き来する。

「人波が途切れないねえ」

 真ん中辺りの欄杵に凭れていた知り合いを見つけて、相模さがみは足を止めた。

「あんたは何をしに来てるんだ」

「野次馬」

 相手――越後屋えちごやはにやりと笑った。

「何隻引っ繰り返ったんだい?」

 そう言って指差された川面は、赤く煌めいている。目を細める。

「五つと聞いてる」

「随分派手にやったねえ」

「全くだぜ」

 相模は湿った首の後ろを掻いた。

「最初に引っ繰り返った一隻は、材木を山積みしてたんだと」

「ああ、積み過ぎかい。それは駄目だ」

「巧く舵を切れなかったらしい。他のはそこに突っ込んだんだそうだ」

 勿論この目で見たわけではないが、聞いた話を繋ぎ合わせるとそういうことだろう。

「……多いな」

「何がだい」

「積み過ぎたり、逆に足りなかったり…… そういう無駄が多過ぎる。最近、特に」

「仕方ないでしょ」

 越後屋は表情を消した。

「あっちに何がない、こっちで何が欲しい、そういう話をやりとりする場所がなくなっちまったんだから。大きな声で言えないが、御公儀が株仲間を禁止しちまったからいけないんだよ」

「全くだな」

 知らず手元で回し始めていた煙管が、かん、と欄杵にぶつかった。

 溜め息を吐いて、もう一度川を見る。行き交う舟はないが、人が何人も泳いでいる。

「あれは沈んじまったものがないか探してるのかい?」

「沈んだのは物だけなんだろうな」

「そうじゃないでしょ」

 ふうっと越後屋は宙を仰いだ。

「だから大騒ぎなんじゃないか」

「……今朝、榮屋さかえやから向かった奴が一人、帰ってきていない」

 水面を睨みつける。

「それは御愁傷様」

 越後屋は無表情のままだ。

 ばしゃんと一際大きな水音がした。声が上がる。何人もがそこに向かって泳ぐ。やがて、人の腕が水面から生えてきた。

 北側の、橋から一番近い水辺にも人が集まっている。

 走る。

「すまん、通してくれ!」

 人垣を掻き分けて押しのけて、川辺へ飛び出す。

 小石が刺さるそこには幾つもの茣蓙が敷いてあった。

 その一つの傍に、全身を水で濡らした顔見知りがいる。

「相模よぅ」

 彼の声は震えている。背中と肩を這う入墨の蛇も、涙を流している。

「裕造が死んじまった」

 足元に、茣蓙をかけられた何かがある。

 唇を噛んでから捲れば、ぎょろりと開かれた目と目があった。

 水を含んで膨らんだ頰、額。ブヨブヨに波打つ指。動かない胸。

「……裕造」

「今日はこっちに来てたんだな…… なんで、よりによって今日なんだ」

 チクショウ、チクショウと蛇男は啜り泣く。

「可哀想に。嫁さんを貰ったばかりじゃないか」

「……ああ、そうだったな」

 右手で、瞼を下ろしてやる。今朝笑っていた顔とは全然違うと思いながら。

 噛みしめた唇から血の味がする。

 亡骸に茣蓙をかけなおし、相模は立ち上がった。

「榮屋に運んでやれ。俺は嫁さんのところに行ってくる」

「おう、任せた」

 応えた蛇男に向う傷が駆け寄って来て、二人がかりで戸板に載せている。

「なんだよ、なんでだよ。こんなに簡単に死んじまうものなのかよ」

 嗚咽を背に、もう一度人垣を抜ける。煙管は帯に挟み込んで、土手を駆けあがって、通りへ。

 まだ人が多い。

 黙って走り抜けようとしたところで、声がかけられた。

「なんだよ……」

 見向いた先には、纏う雰囲気が他とあからさまに異なる一行。皆が皆、腰に大小を下げていて、こざっぱりとした袴姿だ。

 御武家様が何の御用で、と言いかけて納得する。

 一人だけ見知った顔がいる。

「あんたか」

 呟きは届いたようで、相手は顔を歪めた。その一瞬後には元に戻る。

――さすがだねえ。近野こんの辰之助たつのすけさんよ。

 相模は口元にだけ笑みを浮かべた。

「殿、この者です」

 辰之助が言うのに真ん中にいる男が、うむ、と頷いた。

 初老の男だ。目が小さくて笑っているように見えるのに、弛んだ口元はぎゅっと結ばれている。

「控えよ。本丸老中、土井大炊頭おおいのかみ様である」

 取り巻きの一人の言葉に、目を細める。

「藩主様でいらっしゃいますか」

 下を向いて膝をつこうとすると、良い、と留められた。

「お主が榮屋とやらの主か」

 僅かに顎を引くと、肯定と取られたらしい。土井はまた、うむ、と唸った。

「辰之助に聞いておる。楠見くすみの家の娘が世話になっているそうだな」

「は、はぁ」

「賢太郎については、もういないものと諦めているが、妹に罪はない故」

 瞬くと、口元にまで笑みを浮かべられた。

「よしなに頼む」

 では、とそれだけ言って、一行は去っていった――辰之助を残して。

 残った彼は、一つ大きく咳払いをして睨んできた。

「おい」

 低い声だ。相模はわざとらしく肩を竦めた。

「下町の口入屋風情に何の御用で?」

「なにが、口入屋風情、だ」

 辰之助の眉が跳ねる。

「聞いたぞ――とんでもない悪党ではないか」

「何の話でしょう?」

 ははっと嗤うと。

「空っとぼけるな」

 僅かに背の高い相模を辰之助がぐっと睨みあげてくる。

「この千住で悪名高い――」

「おっと」

 と、相模は口元に指を当てて見せた。

「それ以上は言っちゃなんねえでしょう?」

 辰之助が黙る。

 鴉が鳴く。

 日はゆっくりと西へ。相模はまた煙管を左手で回し始めた。

「普通に街中を歩いてたって、その話は聞けないはずなんでね。あんたがに居たっていう証になっちまう」

「それが何だというのだ」

「おや、脅されたいんで?」

 くるん、と一度煙管を回す。辰之助の右手は刀の柄へ。

「抜いちゃなんねえ。お互い様だ」

 相模は目を細めた。

「向島の気のいい板前に、女房娘を賭けるように唆したのはいかんなぁ」

 ぴくっと辰之助の眉が跳ねる。なあ、と唇だけで笑った。

「お互い傷物同士。黙っていましょうや」

「抜け抜けと」

 はあっと辰之助が溜息を吐く。

「確かに賭場に出入りしていることがバレるのは、私としても好ましくはないがね」

 振り向いた彼の視線の先は、藩主の一行。

「藩主様自ら、事故を見に来られたので」

「気にかけてらっしゃる。物の流れが好ましくないとおっしゃってな」

 ほう、と相模は息を吐く。

「話の分かる方だ。首席老中殿とは違う」

「そうだろうとも」

 それはそれ、と言って、辰之助はもう一度相模を睨みつけてきた。

「お奈津に手を出したら許さん」

「そんな、何でもかんでも噛みつくほど若くねえよ」

 くっと喉を鳴らして、相模は背を向けた。

「急いでるんでね。これで失礼するよ」

 舌打ちが聞こえる。がらん、と下駄を鳴らして走り出す。

「釘を刺すのは、お奈津についてだけかい?」

 嗤って、駆け続ける。

 夕闇が濃さを増していく。まだ川岸からさざめきが聞こえる。

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