23. 有為の奥山(3)
怒鳴り声で目が覚めた。
「何があったの?」
跳ね起きて、
「おう、おはようさん」
戸口に立った
そのうちの一人が、地面に伸びた別の男を突っついていた。
「榮屋を覗き込もうとはいい根性だぜ、まったく」
月代を、頬を、果てには足の裏をくすぐっても、倒れた男は動く気配がない。
「表通りに転がしておいてやりな。起きたら自分で帰っていくだろうよ」
相模が笑うのに、彼らは首を傾げた。
「いいのかい? どこの回し者か訊かなくても?」
「検討ついてる。まったく、お互い様だって言ったのに」
はっと息を吐いて、彼は帳場に戻っていく。その柱の影から
「ねえ、ご飯まだ?」
「まだ」
「えー。早く早く! 向こうでおじちゃんたちも待ってる!」
「お
相模が笑う。
いつもと変わらない朝だ。
そう思っていないと、つい、下を向いてしまう。
飯の支度をしていても、洗濯をしていても。
外の井戸で洗い物をしていると、また焼いている匂いが漂ってきた。きょろきょろ見回していると、相模が庭先に下りてきた。
「今日は仕置き場じゃねえな。寺のほうだ」
「寺?」
彼は街の西を指す。
「江戸で亡くなった人を、土に還りやすくなるよう焼いてやる火屋があるんだよ」
そう言って、彼は目を細めた。
「裕造も灰になっちまった頃かな」
結衣は顔を伏せた。ぽたん、と雫が足元へ。
ぽん、と肩を叩かれた。
そのまま建屋の中に入る。ここのほうがまだ、蒸し暑いが、鼻には優しい。
ぐいぐい顔を擦ってから、結衣は相模を見上げた。
「仕置き場の処刑、一回だけ見たよ」
「そうか」
彼は変わらず笑っている。
「ねえ、相模さん」
呼ぶと首を傾げられて。
「
問うと、目を剥かれた。
「何処で聞いた」
応じた声が低い。肩を小さくする。
「このあいだ、賭場に連れて行ってもらった時に」
短く息を吐いて、相模は首を振った。
「ああ、そうか。あんたも
瞬いて、手を握る。唇を噛む。彼は小さく笑った。
「知り合いには会わなかったか?」
「ええっと…… 越後屋さんの処で働いている
すると、笑みに苦みが混じる。
「あいつに逢ったのか」
「その言い方だと、辰之助様が賭場に居ることを知ってたみたいだよ?」
「まあね」
くくっと喉が動く。
「相模さんは賭場に居なかったじゃない」
「俺は出禁なんだよ。それに、行かなくたって、話はわんさか入ってくるんだよ」
「そうなんだ、じゃあ――」
――お奈津ちゃんの父様がいたことも?
知っているの、と言おうとして俯く。ぽん、とまた撫でられた。
「昔々は博打を打ったってだけで、しょっ引かれたんだよ」
部屋の真ん中にどかりと座った彼は、左手で煙管を回し始める。
「この十何年はそうじゃない。イカサマしたり脅して勝ちをせしめたりした場合だけだ。もしそれで捕まったら、お江戸処払いになるか、人足寄場に送り込まれるかのどっちか」
正面に煙草盆を押しやってから、座る。相模は煙草をぎゅうぎゅうと火皿に押し込んだ。
「人足寄場ってのも結局、悪人を反省させようって場所だからな。集められて、働かされるだけ。めんどくさい仕事をしたくないなら真っ当になれっていうんだよ」
「そう」
「これも昔はそうじゃなかったって聞くけどな。俺は知らん」
長く吐き出された煙。相模はすっと目を細めて、それから見つめてきた。
「寄場も、仕置き場も、お結衣には縁の無いところだから、いいんだよ」
一際大きく風が吹いて、辺りが少しの間昏くなる。
外を覗くと、虹が出ていた。もうすぐ秋が来ることを匂わせた風が吹く。
からん、と下駄が鳴らして、通りを進む。右手で、小さな花の束が揺れる。
辿り着いた大橋では、欄干から隅田川を見下ろす人たちが他にもいた。
水面に、行き交う舟が輪を描く。
「庭に咲いていたから持ってきました。早咲きの撫子みたい」
結衣は笑い、薄紅色の花の束を川下に向けて投げた。
手を合わせる。
ぱしゃん、という音は魚が跳ねたからだろうか。
目を開けると、隣にもう一人女性がいた。
「舟が引っ繰り返ったって話じゃないか」
と、皺だらけの顔の相手は言った。
「たくさん死んだみたいだねえ。あたしの甥っ子も巻き込まれたんだよ。まだ若いっていうのに」
ぐしゃぐしゃと顔を歪めて、欄杵に突っ伏して、その人は肩を震わせ始めた。
「こんな老いぼれを遺して、ねえ」
同じように口元を曲げていた結衣に、相手は静かに笑いかけてきた。
「あんたも誰か亡くしたのかい?」
黙って、頷く。
最後、儘ならないよ、と呟いて去っていた背中を見送って、結衣はもう一度川面を見た。
跳ねた魚を、鳥がぱくんと咥え、飛び去っていく。地面に落ちた影が揺れる。
「死んじゃったら、もう何もできないよ」
はあ、と結衣は欄杵に背を預け、鳥を見送った。
江戸に着いた最初の晩。
死ねないと、縊り殺されて堪るかと、あの感情は何処から湧いてきたのだろう。
ただ、それがあるだけでは如何しようもないらしい。
「あたし、運が良かったんだ」
ずる、と座り込んで鼻を啜った。
生きてて良かった、と思う。川の下に沈んだ人生を可哀想と思えど、代わってやるとは言えない。
生きていなければ、兄が戻ってくるのを待っていたことにはならない。
それに、着物の下に標があるのかないのか、知ることも叶わない。
「知ったって、何も変わらないじゃない」
顔を両手で擦って、前を向いた。
「悪い人だって信じたくないもの」
相模だけではない。
最初は恐ろしかった越後屋も。
見た目は恐ろしげな大工たちも、気のいい三人組も、沙也や小督のことも。
「悪い人だったら、助けてくれるわけないじゃない」
――ったく、心配させやがって。
ふと、抱きとめられた時のことを思い出した。
「ごめんなさい」
ぐずっともう一度泣いた。
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