24. 有為の奥山(4)

 その悪い人と信じたくない恩人たちに何かを返したいと思っても、これまた儘ならない。



 ビン、と弦が跳ねた。先端が頬を擦る。

「痛っ!」

 バチも取り落とす。三味線が、結衣ゆいの膝から転げ落ちた。

 げ、と呻いてそろりと正面に座る人を見遣る。

 師匠は珍しい溜め息を吐き出した。

「拾いなさい。すぐに」

 頷いて、結衣はそろりと三味線を抱えた。

 一番下、太い弦が胴から外れて、宙で揺れている。

「始める前にきちんと弦を張っていなかったからよ」

 え、と呟いても、小督こごうは淡々と続けた。

「あのやり方では外れて当然。次は気を付けなさい」

 どのように張っていたのか、などはもう思い出せない、と結衣は眉を下げた。

 もう一度、と小督の指の動きをなぞって、弦を張り直す。それからまた、撥を握り、叩く。

 お終いの声まで、今日も長かった。

 指をついて頭を下げて。撥と指擦りを袋に仕舞っていると。

「やる気がないのを教えていてもつまらないのよ」

 小督が言った。思わず呻く。

「いつまでも進歩がなくて」

 しゅん、と俯きかけたら、首を振られた。

「あんたじゃない。お奈津なつのほう」

「お奈津ちゃん?」

「……ここ数日、来ていない。そろそろ相模さがみに文句を言おうかしら」

 華奢な指先を顎に添えて、小督は息を吐く。

 それを重ねて問おうとするより早く。

「お結衣が下手なりに頑張っているのは分かっているつもりよ」

 真っ直ぐに見つめられた。

「わたしだって最初は下手だった。だから、下手でも精いっぱいやっているなら、こちらも教える甲斐がある」

 見つめ返す。

 この恐ろしい師匠にも下手な時分があったのかと想像して、ふにゃりと笑った。

「小督さんは深川にいたんだって聞きました」

「そうよ」

 頷いて。

「料亭について、その宴席で弾いて歌っていたわ。同僚に、上手なのが居たのよ」

 彼女は微笑んだ。

「楽しかったわ」

 頷くと、彼女の笑みが深くなる。

「お客が笑うのを見るのも楽しかったけれど、あいつと芸を競うのも、楽しかった」

 白い手が宙を動く。三味線を弾く動きだと見て取って、息を呑む。柔らかな唇に笑みを塗って、小督は小さく歌っている。

 花鳥風月の美しさを問うそれが終わった時。

「お店が無くなって、寂しかったです?」

 問うと、首肯された。

「勿論」

 視線が、その一瞬だけ昏くなる。

「わたしもあいつも、身請けしてくれる人がいて、助かった。そうじゃなかったら今頃、やりたくもない仕事をさせられてたんでしょうね。他の仲間はほとんどが吉原に無理矢理連れていかれた」

 それは以前相模から聞いた話のことだろう、と頷く。

「わたしは、三味線を続けられて良かった。幸運だった」

 そう言って、彼女は奥の壁にかけてあるうちの一つを下ろしてきた。

「これ」

 と差し出してくる。

「持って行って。暇があったら弾いて御覧なさい。弦を毎回ちゃんと張るのよ」


 千歳茶の布に包まれたそれを両腕で抱きしめて、急いで、でも慎重に、榮屋へ駆け戻る。

「三味線借りた」

 叫ぶと、戸口で出迎えてくれた相模が目を丸くする。

 その横を抜けて、どたどたと、奥まで駆け抜ける。

 井戸の見える縁側で、奈津が振り返ってきた。

「おかえり」

 そう言って、結衣が抱えたままの三味線を見つめてきた。

「どうしたの、それ?」

「小督さんが貸してくれた」

 はあ、と肩で大きく息をして、それから相手を見つめた。

 腰を下ろした彼女の膝の上には、閉じられた冊子。白い手で隠されて、表紙は見えない。紺の縞模様の着物はきちんと着込まれている。それで、円らな瞳を覗き込む。

「お奈津ちゃん、小督さんのところ行ってないの?」

 頬に朱を走らせて、彼女は横を向いた。

「ねえ。稽古の時間、あたしより前じゃなかったの?」

「別に…… いいじゃない」

 小さな声が返ってくる。

「三味線は、別に、弾けなくても問題ないから」

 それに、結衣が何かを言うより早く。

「本当だな?」

 相模が声をかけてきた。二人で振り向くと、硬い表情の彼が立っている。

 結衣はゆっくりと二人を見比べた。

 顔を伏せた奈津と。左手で、軋むほどに煙管を握りしめた相模と。

 ごくりと唾を呑み込む。

賢太郎けんたろう様がお帰りになったら、もう、怖いものなんかない」

 奈津は小さな声で言った。

「絶対出て行くんだから。この店を、千住を」

「そうかい」

 ゆっくりと床が蹴られる。結衣は慌てて相模の袖を掴んだ。

 背の高い彼の顔は、結衣の頭の上だ。そこから降ってくる視線。

「お結衣も、兄貴が戻ってきたら下総に帰るんだろ?」

 唇を噛んで、下を向く。



 本当に、儘ならない。



 今度は、表の掃き掃除をしている時だった。

「また来やがったか、べらぼうめい!」

 怒鳴り声に、身を竦める。竹箒に縋り付いて見れば、肩に色鮮やかな虎を飼っている男が、菅笠を目深にかぶった男に突進していくところだった。

 細い体が道に引き倒される。

 ぐええ、と呻いた菅笠はそれでも起き上がった。

「おお、いい根性だなぁ」

 ゴキゴキィと手の指を鳴らした男に。

「ま、待ってくれ! 話を聞いてくれ!」

 菅笠は叫ぶ。

 尻餅をついたままで、腰に差した二本の刀の鞘の先が土に後を付ける。

「用があるんだ。話を聞いてくれ」

 甲高い声に、あ、と結衣は呟いた。

「じゃあ笠は取りな」

 虎男はじっとりと見下ろしている。

「いや、そういうわけにはいかん。顔を見られるわけにはいかん」

「何を言ってるんだ!」

 ぐいっと力こぶを見せた男に、結衣は慌てて叫んだ。

「待って!」

「なんだよ、お結衣ちゃん」

「ごめんなさい、その人」

 つい、俯いた。

「あたしの兄様」


「賢太郎様!」

「奈津!」

 がばっと二人が抱き合う。

 外から部屋の中に吹いてくる風はもう秋の香りなのに、顔が熱い。

 目を逸らす。柱の影では伊織いおりも真っ赤な顔をしている。

「臭いね」

 その横で沙也が鼻を摘まんで、眉を寄せた。

「あんたの兄さん、すごい臭いよ。お奈津も良く平気だねえ」

 恋か、とぼやいて、沙也はさらに振り向いた。

「相模! あの色男を風呂に連れていってきて!」

「俺が行くのかよ!」

 帳場から怒鳴り返してくる。明らかに機嫌が悪い。

「行ってきなさいよ! こっちの鼻が曲がる!」

 沙也は負けてない。両手を腰に当てて、どすどすとその背中に歩み寄ると、片足ででんっと蹴とばした。

 ひえっと結衣は声を上げる。

 勿論、相模は転げない。

「ほら、早く! お奈津に行かせるつもり?」

「それはまずい。いろいろ、まずい」

 大きな溜め息とともに、彼は立ち上がった。

「伊織! おまえも行くぞ!」

 呼ばれた子どもはまだ、柱の反対側に居る。

「えええええ…… 臭いおっさんと行きたくないよ」

「おいさんって言えっつったろ」

「おっさんってのは相模みたいなのを言うのよ」

「お沙也」

 相模がじとっと睨む。沙也は胸を張った。

「なあに? むっつり助平のほうが良かった?」

 答えはない。

 べたべたにくっついた賢太郎と奈津を引き剥がして、賢太郎だけ首根っこを掴んで、相模は大股で表に向かっていく。

「ほら、伊織。手拭」

「うええええええ。風呂は嬉しいけど、あのおっさんは厭だ……」

「ごめんね、伊織」

 両手を合わせて顔を覗き込む。彼は鼻の上に皺を寄せて、頷いた。

「結衣ねえちゃんの頼みなら仕方ないや……」

 ぐっと唇を付き出して、彼も走っていく。ほっと息を吐くと、沙也が笑いだした。

「本当、お結衣のおかげよねえ」

 何が、と結衣も笑った。じくり、胸が膿んでいく。

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