39. 酔ひもせず(3)

 榮屋さかえやの伝手は、どこにでもあるらしい。

 縁を切られ帳外の無宿者となった人を、もう一度として暮らせるように、人別改帳に新しく書き加えてもらうこともできるという。

 結衣ゆいもまた、新しく名を記してもらった。

 そこには父母の名はおろか、家の名すらない。ただ総州出身と記されたのみ。胸の奥にぽっかりと穴を開けられたようだ。



 天保十四年閏九月。水野御老中はその役目を免ぜられたという。



「そういうわけだから、水野越前守は老中の役宅を追い出されることになったわけなんだけど」

 榮屋に顔を出した越後屋が満面の笑みで喋る。

「興に乗ったのが、石を投げてね」

「何に」

「水野越前守がまだ暮らしている役宅にだって。かなり大きい物も、塀を飛び越えて屋根にぶつかったそうだよ」

 上がり框に腰かけて、ふふふと笑って煙草をふかす。その斜め後ろに胡坐をかいた相模さがみは、煙管を咥えながら半目になっている。

「それで? あんたはどうして、その話を知ってるんだ」

「見に行ったから」

「野次馬め」

 煙が二筋。一つは上に、今一つは下に吐き出される。後ろからそっと近寄った結衣は、お盆を傾けないよう静かに、膝をつく。

「見に行って何が愉しい」

「他人の不幸は蜜の味だよ」

「ああ、そうかい」

 まだ言葉を交わす二人の横に、湯気を立てる湯呑を置く。二人は煙管を置いて、一気に飲み干してしまった。

 緑の匂いに、二人は少し表情を変えた。

「この後は、土井大炊頭が引き継ぐらしいよ」

 越後屋がすうっと視線を尖らせる。

「何を仕出かしてくれるかね? とりあえず上知令は取り消されたみたいだけど、株仲間の禁止は解いてくれるかな?」

「さあな」

 相模は苦々しい顔で横を向いてしまった。

「これからどうなるか、見物だね?」

 それから、もう二言三言。越後屋が立ち上がる。

「忙しくなりそうだ」

 呟いて、振り向いて、ニヤッとした。

「そうそう。お見舞いをたんまり頂いたんだ。折角だから、建屋を全部建て直そうかな? ゆるりと遊べる場所が必要になってくるかもしれないからね」


 その彼を見送って、箒を手に取る。

――早く表の掃除を終わらせなくちゃ。皆さん帰ってくる。

 焦りとは裏腹に、男たちは続々と戻ってきた。

 その中で。

「でかい鯛があったんだよ」

 日本橋の魚河岸まで行ってきたのだ、と棒手売りのタカが言った。

「これ、お刺身にできるかい?」

 炊事場に届けると、茂兵衛もへえが笑った。

「任せてくだせえ」

 とんとんとん、と包丁が小気味良い音を立てる。その横、竈に火を熾していた小督こごうも、珍しい表情で振り返ってきた。

「今日はお赤飯にしようと思うの」

「手伝います」

「駄目よ」

「どうして」

 首を傾げると、小督に背を押された。

「戻って。ゆっくりしてなさい」

「でも!」

「弟子の事を祝わせてくれないの?」

 厳しい三味線の師匠は、まだ笑みを浮かべている。

 帳場まで戻ってきて、無理矢理座らされる。いつものように胡坐をかいて、膝の上に帳簿を広げて、煙管を咥えていた相模が目を丸くする。

 その彼にまで、小督は笑みを向けた。

「今日の御手当は遠慮しておくわ。お祝いよ」

 相模が何か呟く前に、小督は小走りで炊事場に行ってしまう。

「何かあったっけ?」

「今日か? いや、別に……」

 そう答えた相模の後ろに別の男がどさっと座った。

けるなよ、相模」

 狐面だ。煙草盆に手を伸ばしながら、喉を鳴らしている。

「寺に行ってきたんだろう? お結衣ちゃんを人別改帳に載せてもらうために」

 ふうっと煙が上がる。

 相模は帳面を広げたまま、振り向く。

「それが何だってんだよ」

「これで晴れて、千住に暮らすになったわけだ。誰かの家族として、連座しなきゃならねえってこともねえ」

「まあ、確かにな」

 頷いて、煙を吐き出す。狐面も煙を吹いた。

「新しい縁を結ぼうって言うんだ。めでたいに決まってるだろう?」

 な、と彼が言うと同時に、戸口も大きな音を立てて開いた。蛇男と向う傷だ。二人はそれぞれ大きな樽を抱えている。

「おお、寛二かんじ参平さんぺい。物は手に入ったか?」

 狐面が笑うと。

「任せろ。高いやつを買ってきたぞ」

 と、蛇男が太い腕で担いだ樽を上げる。

「こっちは灘の酒。そして、参平のこれは京都伏見の酒だ」

「おー、良くやった」

 ぺちんぺちんと手を叩いて、立ち上がって。

「勿論、相模も呑むんだろ?」

 ニヤッと狐面が言い放つ。蛇男が指笛を鳴らす。向う傷は、声を立てて肩を震わせた。

 笑い声が響く。

 帳場の前の土間には、いつの間にか、他にも人がいた。一際大きな体の男だ。

松吉まつきちさん」

 呼ぶと、彼も笑っていた。

「お祝いに駆け付けました」

 こちらも、肩には大きな樽を担いでいる。

「どうしたんだ、それ」

「ちょっとずつ貯めていたのを使いました。は祝わねばならぬでしょう?」

 大らかに笑う彼と三人組は樽を炊事場へと運んでいく。

 その後ろ姿を見ていたら、じわ、と目の端が濡れた。

 手を伸ばして、相模の袖を掴む。

「あたしのために?」

「高い酒買ってきたんだなぁ……」

 相模は呻き声で応えてきた。だが、ぼろぼろと、涙が浮かぶ。

「だって…… 高いお酒まで買ってなんて…… そんな」

――皆さん、お優しい。

「迷惑だって、かけているのに」

「ああ、それはどうでもいいんだよ」

 煙管を煙草盆に叩きつけて、相模は奥に見向いた。

いちぃ! 寛二! 余計な話をしたのはおめえらか!」

 怒鳴り声が飛んでいっても、笑い声しか返ってこない。

「どいつもこいつも」

 相模ががっくりと項垂れた。

 声をかけようとして、止める。耳まで真っ赤だったから。

「ちくしょう。後に退けねえじゃないか」

 彼はぶつぶつと呟いている。

 ぱたぱたと自分の頬を叩いて、熱を追いやって、では話しかけようとした時には、先に相模の後ろに立った人が彼の肩を小突いていた。

「お沙也さやさん」

 結衣が呼ぶと、彼女は艶やかな笑みを寄越してから、相模を見下ろした。

「今更逃げる気なの?」

 相模は振り向かず、両膝に手をついて、わなわなと震えている。

「そんなつもりはない」

「じゃあさっさと話を済ませなさいよ。案外、肝っ玉の小さな男ね」

「なんとでも罵ってくれ」

 目を丸くして、二人を見比べる。腰に手を当てた沙也が一等華やかに笑って、くるりと踵を返した。

「酒の用意ができるまでに腹を決めなさいよ」

 足音が離れていく。奥からは賑やかな声が続いている。

 がっくりと俯いた彼の耳もまだ赤い。帳面はするりと膝から床に落ちる。

 それを拾おうとしたら、指先を掴まれた。

 大きな掌が、結衣の手を握り込む。見上げると、真っ赤な顔が見えた。

 何かを告げようというのか、唇は引きつり続けていたのだが。

「相模! お客だよお!」

 土間からの声に見向くと、伊織いおりが仁王立ちしていた。

 その正面――戸口の外には、編笠を脱いだ男。着物も脚絆も、泥だらけだ。

 結衣と相模は顔を見合わせた。

 それから彼は、するり表情を冷まし、静かに立ち上がって、真っ直ぐに降りていった。伊織をそっと下がらせて、戸口のすぐ前に立つ。それを見つめる。


 広い背中だ。ちょっとやそっとでは倒れたりしない。

 だから、まだ背負うというのだ。


「榮屋の御宅はこちらでござりまするか」

 外の男が声を発する。

「手前です。お入りなされ」

 受ける声は温かくて、全く揺らいでいなかった。




(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

撫子踏まずに焔を背負え 秋保千代子 @chiyoko_aki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ