38. 酔ひもせず(2)

 牢屋から出されて、江戸の街を馬に乗せて巡らされる。周りを与力や同心に囲まれて、一番前には罪咎を記した札が掲げられる。誰が見ても、馬に乗せられた男は咎人だと判じるのだ。

 そうやって衆目に晒された最後、思川にかかった仕置き場へ向かう橋を渡る。

 極刑が決まっている咎人と縁者が今生の別れを告げる泪橋なみだばしだ。


 松の根元に腰を下ろして待っていた。

 近づくざわめきを聞いて、人と馬の影を見て、結衣ゆいは立ち上がる。

 人垣を掻き分けて、橋のたもとへ飛び出す。

「お待ちください」

 大声を上げると、腰に大小を差した男が振り向いた。

「その方はこの咎人の縁者か」

「そうです。妹でございます」

 腰を折って、頭を下げる。

 頷かれ、手招かれるままに進み出る。馬から男が引きずり降ろされた。こざっぱりとした羽織袴を着せてもらえているのに、縄打たれ、真っ直ぐに立てずにいる。

「これが最後じゃ」

 はっきり言い切ってから、与力は少し下がってくれた。それにも頭を下げて、結衣は、道に座りこんだ男の前に膝をついた。

 しかめ面が向けられる。

「なんで君が来たんだい?」

「だって、あたしは楠見くすみ賢太郎けんたろうの妹ですから。そうでしょう、兄様」

 言うと、この間まで近野こんの辰之助たつのすけを名乗っていた男は、ぎゅうっと唇を曲げた。

「どうして」

 何故名を偽ったのか、と視線で問う。彼は肩を竦めた。

「腹が立つよ。どうしてあの男なんだ」

 それに、と言葉を続ける。

「僕の惚れた奈津なつは、菩薩でもなんでもなかった」

 え、と瞬く。

 彼はさらに唇を曲げて、眉を寄せた。

「あの二人を見ていたくなかったんだよ」

 曲がった鼻がすんと鳴る。相模が顔面を床に叩きつけた時に曲がり、そのままなのだろう。折れたのは骨だけではなかったのか。

「醜い。醜いよ。色恋に狂えば、道理も何もかも、曲げていいのかい?」

 一気に吐き出して、彼は肩を竦めようとした。

「僕が言うなと思っているかもしれないけどね」

「……そうですね」

 結衣も眉の間に皺を刻み、両手をきつく握りしめた。


 嘆く奈津の気持ちを思えば、向こうの男が生きている方が良いのだろう。

 だが。偽物を奉行所に突き出し、仕置き場に送り出そうとしていることだって、道理を曲げていると充分に言えるではないか。

 これを知っている者たちは皆、嘘を通さなければいけないのだ。結衣はもちろん、藩主も僚友たちも、相模も、他の榮屋に集う人たちも。どんなに後ろめたくても、皆がそろって嘘を貫くしかないのだ。

 苦しみを残していくことを辰之助は分かっているのだろうか。


 向こうの男は、何を感じているのだろう、と思った時に。

「奈津は満足かな?」

 相手は言った。

「あの男が侍でなくなったことは、不満に感じているかもしれないね。二人はどうやって生きていくつもりなんだろう?」

「江戸を出て行くことになりました。何処に向かうかは存じません」

「そうか。でも、あの調子で嘆き続けていたら、明日にでも食べていけなくなりそうだね」

「お気になさるということは、まだ未練が……」

「ないってば」

 はは、と乾いた笑い声を立てて、彼は顔を上げた。

「例え飢え死にする羽目になっても、仕方ない。僕には何もできない」

 どれだけきつく睨もうと、目の前にいるのは辰之助だった男。腫れのひいていない顔に浮かんでいるのは楽しげな笑み。

「咎無くして死す。見捨てて、見捨てられた男に相応しい最期と思わないかい?」

 首を振る。

「見送りに感謝するよ」

 彼はゆっくりと立ち上がって、離れていた与力たちに頷いて見せた。

「気が向いたら思い出しておくれ」

 また縄を引かれ、馬上に上がらされる。見上げると、静かな顔が見えた。出立を告げる声に、後ろに下がる。人と馬が緩やかな音を立てて、橋を渡る。

 馬上の人の背中はぴんと伸ばされていた。ああもあっさり旅立てるのか、と瞬く。

 此方は死にたくないと足掻くばかりなのに。


 思い出すのも、生きていなければいけない。

 食べるのも、笑うのも、恋をするのも、命あっての物種だ。


 行列が遠ざかっていく。人の波も退いて、陽の光と鳥の鳴く声だけが残される。

 ぴい、と高い声の中に下駄の音が混ざったので振り向けば、すぐ傍にまで歩み寄ってきていた人がいた。

 着古した鼠色の着物。左手で、煙管をくるりくるり回している。背が高くて、顔を見るには、思いっきり見上げなければいけない。そうしたら、視界が僅かに揺らいだ。

「泣いてない」

「そうだな」

「泣いてないってば」

 むっと唇を尖らせる。彼は笑っている。

「いってしまった」

 呟くと、ぽん、と頭を撫でられた。

「もう忘れろ」

「無理。できない」

 俯く。

――嘘を忘れることなんてできない。

 きっと、ずっと、己を咎人だと責めていくのだろう。

 だが、その嘘を暴くわけにはいかない。皆を護るためだ。横に立つこの人が生きていくために必要なことだ。

相模さがみさん」

 呼ぶと首を傾げられた。

「生きていてくれて、有難う」

 言うと、彼はぴたっと動きを止めた。左手からするり煙管が落ちる。土の上に音もなく。

 じわじわと頬が、鼻が、耳が赤くなっていく。

 まだ夕方にはなっていないのに。

 あれ、と瞬くと両腕が伸びてきた。

「勘弁してくれよ」

 逞しい腕の中に囲われて、ぎゅうと締め付けられる。

 結衣は、動いた両手を相手の背に回して、ぽかぽかと叩いた。

「急になに!? 恥ずかしいよ!」

「それは俺が言うことだろう!?」

 熱い吐息が耳にかかって、結衣の顔も赤くなっていく。

「本当に、勘弁してくれよ……」

 一度息を吸って。彼はさらに腕に力を込めてきた。

「死ねぬと思うから生きてるんだよ」

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