37. 酔ひもせず(1)

「後日に御見知り、お、置かれ、ゆくすっ……」

 また舌を噛んだ。

「行末万端御熟懇に願います、だ」

「ゆくすえ、ばんたん、ごじっこん……」

「もうちょっと滑らかに喋れないのかよ」

 歯が無いからか。それとも、元から不器用なのか。どれだけ練習を重ねても上手くいかない口上に、相模さがみは溜め息を吐いた。

 帳場で、向かいに座っているのは賢太郎だった男だ。

 何本もの創跡が残っているものの、瞼や頬の腫れはひいて、優男の風貌が戻ってきている。広い額は、誰にと言わぬがそっくりだ。

 小袖と袴ではなく、麻の単調な織の着物。腰から刀は消えている。

「もう一度、最初から、だ。相手の御宅の名を確かめるところから」

「え、ええっと…… 柏屋、の、御宅は、こちらで」

 つっかえながら言葉を繋ぐ男に、そっと溜め息を吐く。

 口上だけでない、頭の下げ方、指の付き方、一つ一つ憶えてしっかりとこなしてもらわなければ。この先どうやって旅を続けていくつもりなのだろう。

 彼の横からは、奈津なつが睨んでくる。

「あんたも、相手を睨みつけないように気を付けろ」

「何故」

「世話になろうっていう相手を睨みつける莫迦がいるか!」

 相模は舌を打つ。

「金もなく旅をしようっていうんだ。その土地の人に助けてもらうしかない」

「お金があれば、まともな旅籠に泊まれるわ」

「その金をあんたたちは持ってねえだろ」

 ぶつぶつと口上を口の中でだけで言っている賢太郎から視線を外し、奈津を真っすぐに見遣る。

「一応言っておくが、あんたの借金は残っているからな」

 案の定、きつい視線が返ってきた。

「当たり前だろ。親父殿は賭けで負けた分の金を、あんたを売ることで得た。その金を回収するために、越後屋は俺に売った。俺があんたを手放すには、買うために使った金を返してもらわにゃならない」

 軽く首の後ろを掻いて、半目で見遣る。

「あんたが借金を返さぬまま此処を出て行こうっていうなら、親父さんとおふくろさんに返してもらうしかないんだな」

 奈津はするりと顔を伏せた。

「全部お父ちゃんが…… 悪いんだ」

「そうかい」

 溜め息を吐く。そして、縦縞の着物をまとった彼女をじっくりと見遣った。裾は短めにたくし上げ、脚絆を巻いている。腕にも手甲を巻いてある。脇には風呂敷にまとめた荷物と笠、杖、懐剣。こちらの準備は万端だ。

 別に、引回し合羽と菅笠、振分荷物も用意してある。そう。あとは男が口上を覚えるだけなのだ。

 だが。

「兄貴。夜が明ける」

 戸口で外を見つめていた狐面が静かに言う。相模はもう一度溜め息を吐いて、立ち上がった。

「時間切れだ」

 もう、旅立つしかない。此処に残せない。

「さっさと行け。人目に着く前に」

 奈津がさっさと風呂敷を担いで、笠を被る。男はよろめきながら立ち上がり、着物を尻っぱしょりにして、合羽を羽織った。

「あの……」

 男が振り返ったので、つい眉を寄せた。

結衣ゆいは。母上は――」

「知らねえな」

 とん、と二人の背中を押す。

「いいな。品川じゃないぞ、川崎だからな。東海道の二つ目だ。絶対に日本橋で止まるなよ!」

 日本橋から四里と半の宿場町。千住から、この二人の足で、一日で着くだろうか。

 朝ぼらけの中、二つの影は振り向くことなく進んで行った。

 靄に影が隠れるまで、戸口に立っている。さて、と踵を返しかけたところで、別の影が近づいてくるのに気が付いた。

 彼は、相模の前に立つと、ゆっくりと腰を折った。

「朝っぱらからどうしたんだ?」

 笑いかけると、苦笑いを返された。

「お知らせありがとうございました。お蔭様で、娘を見送れました」

 頷くと、相手――奈津の父親はまた頭を下げた。

「これが娘とその想い人の幸せの形か、あっしには判じられませんが。二人揃って命を拾えたことだけは良しと思うことにします」

 結った髷の中に白いものを混じらせた彼の顔の皺は、この間より増えた気がする。

茂兵衛もへえ

 呼ぶと、彼は顔を上げ、懐から重たげな巾着を取り出した。

「親分。こちらはお返しします」

 受け取って、目を瞠る。振ると、重たげな音が鳴る。

「折角のお金――女房を買い戻せとお貸しいただいた分なのですが。一昨日、品川に行きましたらね、楽し気なあれを見まして」

 彼の目の端にじわりと雫が滲む。

「あっしの愚痴を言っておりました。大して腕も良くないくせに威張る板前だと。運もないくせに博打を打つ男だと。思いがけぬ形だったが別れてせいせいしたと、申しておりまして……」

「買い戻す気が失せたか」

 つい、吹き出した。

「そいつはご愁傷様だな」

「いいえ。身から出た錆ですよ」

 茂兵衛は呻いて、膝をついて。おいおいと泣き始めた。

「あっしが悪いんでさぁ…… 女房娘を見ずに遊び惚けていたあっしが……」

 拳で顔を拭い続ける男から目を逸らせない。

「恋は醒めるものですな」

 そう言って、茂兵衛は真っ赤な目のまま笑った。

「店は畳むことにしました。昨日のうちに全部引き払って、店はもぬけの殻ですよ。ですが、親分の御恩にはお応えしたい。娘が放り出した奉公、あっしにさせてくだせえ」

 歪な笑顔は、朝日のせいもあって、清々しい。

 そうかいと頷いて、彼は戸口の中に声をかけた。


 白米と味噌汁、香の物。いつもどおりの朝餉。

 茂兵衛の腕は決して悪くなかった。その証に、男衆はたらふく食べて出かけていった。

 静かになった榮屋、炊事場では彼が片付けに奮闘している。奥の縁側には、沙也さやが腰かけていた。

「料理が得意なのがいると助かるわ。さっさと終わるもの」

 彼女は艶やかに笑った。煙草盆を下ろして横に腰を下ろし、問いかける。

「寝てなくていいのか?」

「風邪じゃないのよ。相模までそれを言うの?」

 そう言って、彼女は井戸の方を指さした。

伊織いおりが煩くって」

 彼は柵越しに、近所の子ども達と喋っているらしい。大げさに手を振って、頭を振って、何かを伝えようとしている。

「わたしが心配だから、今日は遊びに行きたくないんですって」

「それ、ここのところずっとじゃないか」

「本当よね。そんなに心配かしら」

 声を立てて、沙也は袖を捲った。白い布が巻かれている。斬られた跡だ。

「相手は牢屋に放り込まれて、これから市中引き回しの上で火刑でしょ。ざまあみろ」

 からからと響く笑い声に、相模は頭を抱えた。

――胃が痛い。


 本来火刑になるべき男はついさっき、千住を旅立って行った。

 あの二人は、今いる街が何という名前なのか判断できるのだろうか。それ以前に、途中で見つかってしょっ引かれたら厄介だ。勿論、入替りを承知している土井大炊頭が手を回していると信じたいが。

 行く先で静かに暮らしていくことができるのだろうか。


「面倒なことをさせやがって」

 ちらりと、笑みを浮かべた大炊頭の顔が過ぎる。ぎゅうぎゅうと火皿にめいっぱい煙草を詰め込んだ。

「あんな妖怪爺に勝てるかよ」

「引き受けたのはそれが理由? てっきり、お結衣のおねだりかと思ったわ」

「あいつは曲がったことはしないよ」

「あら。知った口を利くんだから」

 沙也の笑い声は変わらず艶めいている。庭にいる伊織も振り向いて、きゃははっと笑って走ってくる。

 そこでぐるりと庭を見回して、あ、と相模は呟いた。

「お結衣は?」

 この時間、いつもなら残された洗濯物を捌いている最中だろうに、と首を捻る。沙也はあっさりと受けた。

「さっき出かけていったわよ――引き回しを見送るために」

「そうか」

 眉を寄せて俯く。煙を吐く。

 ばしっと背中を叩かれた。

「やあね。迷子にならないか心配してるの?」

「いや」

「大丈夫よ、千住中の何処からでも目は光ってるから。榮屋の男連中を舐めんじゃないわよ。あいつら、お結衣にはとことん甘いのよ」

「人の事言えるかよ」

「一番甘いのはあんたよ、相模」

 ばしばしと背中が音を立てる。がっくり項垂れる。

「良かったわねえ」

 沙也の声は明るい。ちらりと見向くと。

「旦那も喜ぶわ」

 微笑まれた。

 ちっと舌を打つ。

「どいつもこいつも」

「あんたたちは見ていて楽しいからいいのよ。どっかの二人みたいに苛々しないから」

「それは良かった」

「もう二度と見ないで済むと思うと、せいせいするわ。生きていると思うと腹が立つけど」

 ぶう、と頬を膨らませた彼女に、今度は相模が吹き出す。

「もしかしたら、この先あいつらも、死んでいたほうが良かったって思うことがあるかもしれないぞ?」

 もう一度煙管を咥えながら見遣ると、沙也が瞬いた。

「まさかとは思うけど、相模にはあったの?」

「さて?」

 目を閉じて。ゆっくり遠くに煙を吐き出した。

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