36. 浅き夢見し(6)
戻った社の中は惨憺たる有様だった。
襤褸を纏った男たちはまとめて壁際に投げ飛ばされ、大小を差した方も既に三人、床に沈められている。
「なんだ、つまらんなぁ」
一際大きく指を鳴らすのは蛇男だ。
壁際に並んだ男たちが悲鳴を上げる。
「俺たちは巻き込まれたんだよ、見逃してくれ!」
「だってよ、
ニヤニヤ顔で振り向いてきたのは狐面。
「どうする?」
「そうさなぁ…… おまえならどうする、
同じく笑いながら、
「兄貴はタチが悪い」
そのまま、呆れたような、ほっとしたような視線が、
「とっくに腹積もりがあるくせに」
「分かってるなら、さっさと取り掛かるとしようじゃないか」
すっと足を進めて、相模が低く言った。
「この子に手を出したのは誰だ?」
男たちは顔を見合わせる。
顔色は夜の中でも分かるほど、悪い。
「答えてくれないのか。悲しいなぁ」
言葉とは裏腹な朗らかさで、相模は真ん中に立った。
「仕方ないから、代表して殴られてくれ」
視線は壁を背に刀を構える
「こ、これでも俺をやろうってのか!?」
男は足を引いて、刀の先を奥に向けた。
「動くな、よ? 二人がどうなってもいいのか!?」
一瞬、榮屋の男衆の手が止まる。わあっと叫んだのは、壁際の男たち。一斉に立ち上がり、戸口に殺到する。近くに立っていた結衣は、
「逃げた。追うかい?」
問う声は狐面だ。背中合わせになっていた相模は、振り向くことなく笑っている。
「追いかけて、二度と千住に入らないって一筆書かせておけ。ああ、字が書ければだけどな」
「承った」
はっはぁ、と笑って、三人組が走り出て行く。
残ったのは相模ともう四人、結衣と伊織。
四人はああでもないこうでもない言いながら、床に転がっている男たちを縛り上げていく。立っているのは相模だけだ。
「なん、だよ。一人で相手しようってのか?」
刀をがたがた鳴らす男が、甲高い声を上げる。相模はゆっくり首を傾げて、一気に踏み込んだ。
拳で、相手の顎を下から打つ。
今度上げられたのはおかしな声。ついでに血も吹きながら、男は後ろの壁で頭を打って、ずるずると崩れ落ちる。
「弱いねえ、お侍さん」
ぽつんと呟いて、踵を返して、辰之助の正面へ。辰之助がぎっと睨み上げるのにも構わず、彼は手を出した。
刃が動くより早く、相手の髷を掴む。
「この間の分も返してないな」
そう言って、相模は腕を引いた。ぶん、と辰之助の体が回る。そして、鼻から壁に突っ込まされた。
辰之助の悲鳴が響く。板の壁がひび割れる。
相模が彼の体を引いた時、全面から血を垂らし、真ん中と上が曲がった顔が見えた。
「男前じゃないか」
くくく、と相模が低く笑う。
そのまま、その顔を床に叩きつけられて。辰之助はぴくりともしなくなった。
「お結衣が殴られたのは三回だったかな」
「いい! やらなくていい!」
叫ぶ。腕の中からするり伊織が飛び出て、えい、と動かない辰之助の月代を拳で叩いた。
「これは母ちゃんの分だい!」
そして、体の向きを変えて駆け戻ってくる。
「伊織、やるなら徹底的にやれよ」
皆の笑い声。胸が痛い。
一方で彼等は口も手もキビキビと動かし続ける。
「なあ、相模。これ全員運ぶのか」
「土井様がお待ちだ、諦めろ」
「うっわ、めんどくせ。引きずるか」
「相模も手伝えよ」
「厭だよ。ついでにあれも運んでくれ」
彼はすっと奥を指差した。
賢太郎だ。素っ裸で、ぐるぐる巻きで、青息吐息の。
彼を抱きしめ直して、奈津が悲鳴を上げる。
「うるせえな。あんたは自分の足で歩け」
相模がひょいっと二人を引き剥がし、別の大工の男が賢太郎を肩に担ぐ。
兄の口がふがふがと動く。どうやら歯もやられているらしい。
まだ胸が痛い。
彼が担がれていくのと入れ替わり、結衣は中に入った。
「お奈津ちゃん」
正面まで寄って、息を呑む。彼女の頬は腫れていた。うっすら、彼女のものではない掌の跡。口の端に滲んだ血。
――叩かれたの?
結衣が飛び出してから皆が戻ってくるまでの間で、しかない。
瞬く。睨まれる。
「お結衣ちゃんのせいだ」
鋭い声に身を退く。
「あんたが、わたしたちを置いていくから! 置いて、逃げたから!」
唇を噛む。
「自分が助かればいいの!? この、ろくでなし!」
般若の形相から目を逸らすことはできなかった。奈津はそう感じたのだ、と。すとんと納得した。
その横で伊織が舌を出す。
「なんだよ。二人が榮屋から走って逃げたのは、結衣姐ちゃんが奈津姐ちゃんを助けるためだったんじゃないっけ?」
「助けてなんて言ってない!」
「……変なの」
首を傾げた伊織を尻目に、奈津は血走った目を結衣に向けっぱなしだ。
「実のお兄さんも見捨てる、卑怯者!」
その場にへたり込む。
「そのお兄さんを捜しに江戸に来たんじゃなかったの? それなのに、どんどん男とばっかり仲良くなって、この尻軽女!」
首を振る。
「朱に交わればなんとやら、咎人と交わって、あんたも真っ赤になっちゃったんだね! ひとでなし!」
両手で耳を塞ぐ。
「くたばれ!」
奈津の声は何もかもを切り裂いていくようだったけれど。
「喧嘩してねえで、さっさと歩けよ」
くいっと手首を取られ、引っ張られた。
――相模さん。
張りつめている背中が見える。
足が動いてよかった、と思った。
夜風は季節外れの冷たさだ。
榮屋の戸口から灯りが漏れている。
上り框には、腰を下ろしてのんびりと笑う人がいる。
「早かったのう。何より何より」
土井
結衣と伊織は奥に追いやって――結衣は泣きはらした目を向けてきていたが見なかったことにして、この場に残っているのは相模といつもの三人組だけだ。
「雑魚どもはどうした?」
「一筆は書けなかったんで、血判を取っておいたが」
「上出来だ」
土間には、付き人の侍が三人立っていて、簀巻きにされた男たちが転がされている。榮屋に押し込んできた男たちと、辰之助と、賢太郎だ。
「
頷き、後ろを向く。
「奉行所へは?」
「通報済み。火付けの賢太郎をとっ捕まえていますんで、さっさと引取りに来てくだせえってね」
蛇男が受けると、きんと声が響いた。
「賢太郎様をどうしようっていうの」
奈津だ。
「火付けの咎人だ。突き出して仕置してもらうに決まってる」
向う傷が淡々と告げると、賢太郎のすぐ横に膝をついた彼女はさらに甲高い声を上げた。
「咎人だなんて、酷い」
「あんたも無茶苦茶言うな。越後屋で燭台を振り回したのは見てたんじゃないのか」
「あれは仕方なくなのよ!」
「仕方なかったら何してもいいのかよ」
相模たちが相手にしないと分かったらしい。彼女は侍たち、それから一段高いところにいる大炊頭を見た。
「賢太郎様をお救いくださいませ。実の妹にも見殺しにされた憐れな人なんです」
奈津の言葉に、大炊頭は首を傾げた。
「さて? この男に妹などおったかな? なあ、嘉助よ」
視線が移ってきて、頬が引き攣った。
「何の事でしたか……」
「もう妹はおらんよな。違ったか?」
――無宿者を街中に戻しているのと同じ手を使えって言ってるよ、この御仁。
じわじわと、それもありか、と笑みが浮かぶ。
――大見得切っちまったからな。
「そうですね」
答えると笑みが深くなる。
「ここにいるのは家族を失った男ですよ」
奈津はわっと声を上げた。
「賢太郎様、本当においたわしい。主と仰ぐ人には見放され、家族も友も無く、お一人だなんて。わたしはずっと味方ですからね」
細い腕の中で、賢太郎が呻く。こいつまで騒いでないのが幸いだ、と相模は横を向いて息を吐いた。
瞬間、辰之助と目が合う。
曲がった鼻のまま転がされている彼は、一度唇を動かして、首を振った。
――なんだ?
「麗しい恋じゃな」
声だけは優し気に、大炊頭が呟く。
「それに掛ける情けがここにあるかどうか」
彼は一度その手を己の胸にとんと当ててから、ぐるりと見回した。
「申し開きは聞かぬ。刀を持たぬ相手に武を振るうのは勇とは言わぬ。いたずらに世間を掻きまわすのは智と言わぬ」
強い声。
「賢太郎。おぬしはただ目の前の事だけに励んでいれば良かったのだな。日の本の未来などを教えたのが間違いだった」
呻き声さえあげなくなった賢太郎に笑いかけて、そのまま視線は辰之助へ。
「こちらは、目の前のことだけに拘ったか。何が人の為かを見通せなかったか」
静まり返り、冷え切る土間。
かたんかたんと戸が叩かれて、溜め息が零れた。
外には御用提灯。
「お迎えだぜ」
賢太郎が微かに呻く。奈津は頭を振って、その体を抱きしめる。
「お勤めご苦労様です。こいつが――」
相模が指差したのを、か細い声が遮った。
「待て。誰を連れて行こうっていうんだ」
辰之助だ。
全員が見下ろす。
簀の中でくねって彼は顔を上げ、視線を受け止める。
「おまえたちが連れて行きたいのは、越後屋に火を点けた男だろう?」
相模は瞬いて、大炊頭に振り向いた。
彼は眉を跳ねさせて、それからゆっくり微笑んだ。
――まずい。
また頬が引き攣る。笑みの向かう先は己だ。きりきりと鳩尾の下が悲鳴を上げる。
そんなことは知らず、鼻から赤い筋を垂らしたまま、それでも顔を伏せずに辰之助ははっきりと告げた。
「僕が
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