26. 今日越えて(1)

 帳場から怒鳴り合う声が聞こえる。

「朝からずっとじゃないか」

 前掛けで手を拭きながら、沙也さやは肩を竦めた。

 奈津なつは、布巾を放り出して、そちらへと走っていく。

「止めときなさい。あんたが行ったところで止まる相模じゃないよ…… って、聴くわけないか」

 襷を取りながら、結衣ゆいは苦笑いを浮かべてみせた。

「どうするの? 朝飯の片付けも終わったことだし、お結衣も向こうを止めに行く?」

「厭です。兄様はもう、あたしが何を言っても聞いてくれないから、たまには違う人に怒られてみればいいんです」

「手厳しいわねえ」

 とは言え、あの賢太郎けんたろうのことだ。相手が相模さがみでは、かたくななままかもしれないが。


 炊事場の上がり口には、伊織いおりが腰をかけている。膝の上には手習い本が広がっているが、全く読んでいない。

「さっさと寺子屋行っておいで」

 口を尖らせた伊織の肩を叩いて、沙也は奥へ引っ込んでいく。

 結衣は、その隣に腰を下ろした。

「寺子屋、嫌い?」

「嫌いじゃないけど…… 面倒」

「そう」

「字が読めなきゃ、相模みたいな仕事ができないってのは知ってるんだけどさー」

 伸ばされた声に吹き出して、ふと、思い出した。

「ねえ、伊織」

「なに、結衣姐ちゃん」

「相模さんの背中って何が彫ってあるの?」

 すると、彼は真ん丸な目をきょとんとさせた。

「え? 相模の背中?」

「そうそう。一緒にお風呂に行く伊織なら知ってるかなって」

「知ってるけどさぁ。別に、姐ちゃんが頼んで見せてもらえばいいじゃん」

「厭よ、そんな破廉恥な」

「えー?」

 へへっと笑う伊織の頬をつつく。

「教えて、お願い」

 すると彼は、仕方ねえなぁと言って、がりがりと頭を掻いた。

「でっかくて、真っ赤な彫り物」

「色は分かったわ。どんな形?」

「ええっとねえ…… 真っ赤な炎の中に、天女様がいるの」

「天女様?」

 首を傾げる。彼も同じ仕草をする。

「本当は天女様じゃなくって、ちゃんと呼び方があるんだけど、忘れちゃった。ちいちゃな赤ちゃんを抱いてて、優しそうな顔をした女の人なんだよ。羽衣つけてるから天女様だと思ったんだけどさぁ」

 成程、と頷く。伊織はへへっと笑う。

「まえに、オレと母ちゃんみたいって言ったら、相模にも母ちゃんにも殴られた」

「そ、そう」

「確かに、オレの母ちゃん、あんな優しいお顔じゃないけどさ」

 そう、と結衣は笑う。目を閉じて、瞼の裏に聴いた絵を描く。

 真っ赤な炎に、小さな赤子を抱いた天女のような存在。


――焔に包まれた鬼子母神。


 結衣は微笑んだ。昨夜指の先で感じ取った温もりの正体は確かに『知ってる奴が見たら騒ぎだす代物』だ。

「だから?」

 両手の爪を見つめて、もっと笑う。

「それが何だと云うの」

「どうしたの、姐ちゃん?」

 伊織が見上げてくるのに、首を振った。

「ごめんね。なんでもないの。ありがとう」

「うん、どういたしまして」

 首を捻る伊織と、また膝の上の手習い本に目を落とす。

 一つ一つ、二人で一緒に平仮名をなぞる。

 それは、荒立った足音が近寄ってくるまで続いた。

 いつの間にか、帳場からの声は全く聞こえなくなっている。

「相模、どうしたの?」

 伊織が声を上げる。彼は、おう、と受けただけで、炊事場に素足で降りていった。

 ぽいっと左手で何かを放る。力なく足元に転がってきたそれを見て、声を上げた。

「相模さん! これ、煙管!?」

 火皿と吸い口は変わりないが、真ん中の竹で出来た筒がひしゃげている。

「うっかり、折っちまった」

「……うっかりで折れるものなの、これ」

「相模の力が強過ぎなんだよ」

「伊織、余計なことをいうんじゃねえぞ」

 ばしゃばしゃと手を洗って、彼は自分の左手を見ている。

「怪我はない?」

「面の皮だけじゃなくて、手の皮も丈夫なもんだ」

 ははっと笑って、彼は伸びをした。

「しかし、お結衣の兄貴には呆れたもんだなぁ」

 ぎくっと肩を揺らす。振り向いてきた彼はニヤニヤしている。

 視線が絡む。

 落ち着かない。

「ねえ、相模」

 変わらない伊織の声で、やっと息を吐く。

「新しい煙管、買いに行く?」

 相模は片手で顎を擦った。

「どうしようかね」

「行くなら浅草だよね?」

「無いと吸えないし、行ってくるか」

「行く行く! 一緒に行く!」

 勢いよく伊織は立ち上がったが、いつの間にか戻ってきていた沙也がその腕を引いた。

「あんたは留守番だよ」

「ええ!? なんで!?」

「いいから」

「やだー! 飴買ってもらうー!」

 叫ぶ伊織に拳骨を軽く落として、沙也はにっこりと唇を綻ばせた。

「行っておいで」

「お沙也、てめえ」

「そこは、ありがとう、でしょ?」

 ふふっと笑みを深くする沙也に対して、相模は大きな溜め息を吐いた。

「また変なのがちょろちょろしているみたいだから、それだけは用心してくれよ」

「はいはい。喧嘩が強い奴を置いていってくれてれば大丈夫よ」

 もう一度、溜め息。それから、相模は見向いてきた。

「お結衣。行くぞ」



 南に一里。

 千住と日本橋の真ん中あたりだろうか。

 とにかく、人、人、人。人が流れていく。

「迷子になるなよ」

「気を付けます」

 言ったものの、押し合いへし合いを繰り返す人混みの中、一人だけ高い相模の頭はどんどん遠くなる。

――もっと、背が高かったら良かったのに!

 結衣とて決して低い方ではないはずなのだが、と必死に人を掻き分ける。

 ようやく追いついた、と思ったら手首を握られた。

「逸れるな、と言うべきだったな」

「頑張ってるのよ!」

 つい、涙が滲む。彼は、ははっと笑って。左手で結衣の右手を握り込んできた。

 温かい。


 門前の通りを進んで、あの赤い屋根の門が風神雷神だ、と教えられた。

 その先、川に向けて伸びる細い通りに行きつけの店があるのだ、とも。


 暖簾を潜って、ようやく一息ついた。

「いらっしゃい―― ああ、あんたかい、相模」

 初老の、店主と思しき男は相模の顔を見て、次いで結衣を見て、吹き出した。

「噂は届いているよ」

「おう、それは何よりだ」

 相模は半眼になって、そのまま棚に並んだ煙管たちを眺め始める。

 何の話だ、と結衣だけが体を小さくする。

 店主は相模と喋るのに忙しいようで、もう見て来ない。

 所在なく、通りへと視線を移す。門前の通りとは違って、人はゆったりと歩いている。

 話を続ける二人をちらりと見てから、通りに出た。見渡す限り、暖簾をかけた店が並ぶ。その煙管の店の隣も商店だ。

 戸板を取り払った店先、台の上に品物たち。漆黒の中に浮く、花や鳥の文様に溜め息を吐いて、屈みこむ。

「お嬢ちゃん、お買い物かい?」

「見てるだけです」

 そこの店主は、それ以上話しかけてはこなかった。それをいいことに、頬を緩めて、眺め続ける。これが髪に飾られていたらどんな感じだろうと思いを巡らせて。

 不意に、コツンと叩かれた。

「逸れるなと言っただろう」

 見上げれば、一瞬だけ口元を歪めた相模がいた。

 そう、機嫌が悪いのかと思ったのはその一瞬だけだ。

「分かりやすいおねだりだなぁ」

「違う! 違うから!」

 両手で彼の肩を押す。店主が何か言うのが聞こえたが、振り返らずに、どんどん押して進む。

 相模が声を立てて笑う。

 頬が熱い。


 そのまま通りを進んだら、川岸に立つ小料理屋に着いた。

 そこも相模の顔見知りらしい。女将は結衣を見て、相模を見て、横を向いて肩を震わせた。

 居た堪れない。頬は熱くなる一方だ。

 立ち直るのは女将の方がずっと早くて、二人を二階へ上げてくれた。

 舟が行き交う川が見える。

「大橋がかかるのと同じ川、よね」

「当たり前だろう」

 窓から身を乗り出すと、袖を引かれる。

「落っこちるなよ」

「平気だもん」

 と返しつつ、窓の枠の外に出すのは手だけにしてから、結衣は舟を見遣った。

 ここを行き交う船は、荷物を運ぶためではなく、人を楽しませるための舟らしい。

 着飾った人々が乗って、弾んだ音を響かせる。舳先に立った船頭も、その皮膚の上に色を纏っている。

「見てて飽きないのか」

「楽しいよ?」

「じゃあ、そのまま見て、少し待ってろ」

 問い返す間もなく、彼は下に降りていってしまった。

「……煙草が吸いたいんじゃなかったの?」

 煙草盆は床に置かれたまま。さらに言えば、先ほど買ったばかりだろう煙管もそのままだ。

 首を捻り、もう一度川を見る。

 ざあっと風が吹いて、緑の葉を揺らしていく。三味線と長唄が聞こえる。

 こんな感じか、と幻の三味線を抱えて、手を動かしてみる。

「楽しいよ」

 つい調子に乗っていたら、戻ってきた相模に大笑いされた。

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