27. 今日越えて(2)
「料理も美味しかったし、川の舟を見ているのも楽しかったけど、
頬を膨らませて、千住へ向かう道を歩く。
「はいはい、悪かったよ」
西から差す陽の光を背に受けて、相模はまだ笑っている。のみならず、
「そんなに面白かったか」
「だって、あんなの下総で見たことなかったんだもの」
何度となく触れてくる指先を握りしめて、結衣はそっぽを向いた。
すると、強く握ったはずの掌が呆気なく開かされて、温もりは離れていく。
空の高いところでは、鴉たちが鳴いていた。その影が足元を横切っていく。遠くへと飛んでいく。
「帰るのか」
問いかけにぎゅっと目を瞑って、足を止めた。
瞼の裏に広がるのは、懐かしい景色。茜色に染まった、稲の波と、人の流れ――千住よりもずっと少ない旅人達。粛々と進む大名行列と、それを吸い込む瓦屋根の門。行列が来る度に、あそこの御家は馬が痩せている、向こうは衣が貧弱だ、などと揚げ足取りばかりしていたのが、幼い自分と兄だ。嗜める声も聴いていた。
「母様が待っている」
呟いて、見上げる。
「そうだな」
静かに、相模は口元を緩めた。向けられた視線は柔らかくて、逆に胸を締め付けてくる。
何度も瞬く。
どんどん、どんどん、笑みは深く。見つめ合う。
「これ」
彼は、懐から油紙の包みを取り出した。
「持って行け」
ぽん、とそれは飛んできた。
両手で受けて、瞬く。そっと指を這わせて、息を呑む。
「これ……」
感じ取った形、そこから思い描いた中身に、背筋が震えた。
「一応、店主にあんたが一番見ていたのがどれかは確認したけどな」
飾り櫛だ。
「だって」
「貰っていいの?」
声が裏返った。
「あたしが、貰っていいの?」
「あんたにしか渡さねえよ」
「でも」
と言って、唾を呑む。口を開いて、閉じて、もう一度空回して。
大きく頭を振ってから、真っ直ぐに見上げた。
「なんで、あたしなの」
すると、彼はぐっと唇を曲げた。
「あのなぁ……」
視線も逸れていく。 左手が、買ったばかりの煙管を回し始めて、歪んだ円を描く。
舌を打って、ちらり見向いて。
「目の前をちょろちょろされて、気にするなって方が無理なんだよ」
彼は早口で言い切った。
頬が熱い。夕陽が赤い。相模の顔も、真っ赤だ。
「いいから、受け取れ。持って帰れ」
ぎゅっと両手で包みを握りしめる。顔を寄せる。
「持って帰る」
喉が窄まって、声が出ない。だけど、無理やり、絞り出した。
「全部、持って帰る」
思い出も、恋しいという想いも、寄せられた気持ちも全て。一生抱えていくのだ。
ぼろっと目の端から粒が落ちる。
「だから、泣くんじゃねえよ」
「泣いてない」
「俺まで恥ずかしくなるだろう」
「泣いてないってば!」
叫ぶ。
相模が吹き出した。そのまま、大きな声で笑い出す。下駄も大きな音を立てる。
そうやって歩き出してしまった彼を、走って追いかけて、背中に思いっきり飛び掛かった。
揺らがない。しっかりと受け止めてくれる。
それどころか、手が伸びてきて、指が絡み合う。
結衣も笑った。
千住に辿り着いた頃には、日はさらに西へと傾いていた。
建物の影が伸びた道、戸口の前では、沙也が立っている。目が合うなり、彼女は走ってきた。
「遅い。何処をほっつき歩いてたの」
「おまえなぁ」
相模が頬を掻く。その袖を掴んで、沙也は首を振った。
「なんかあったか?」
すっと細められる一重の瞳。
「大有りだよ」
そう言って、沙也は相模を見上げ、結衣に静かに向いてきた。
「まず、越後屋が来た。相模に急ぎの用事だって」
それと、と顔を伏せる。
「お結衣のお母さんが来た」
奥の一室。東向きの、風が良く通る部屋。
そこに敷かれた布団の脇に、
「病人がいるんだ、静かにおし」
沙也の咎めるような視線を、さらにきつい視線で押し返し、彼は裏庭に降りて、離れていく。
入れ替わるように、結衣は布団の側へそろりと寄った。
横たわる人がいる。
解れの目立つ髷。 紙のように白い頬に滲む汗。広い額には皺が寄っている。
「母様?」
呼ぶと、うっすらと目を開けた。
「ああ…… 本当に、結衣だ」
その隙間からぽろっと雫が零れた。
「何故、何故、手紙をくれなくなったのです? おまえからも音沙汰が無くなってしまったから、もう、居ても立ってもいられなくて」
伸ばされた手を両手で包み込む。
「良かった。無事で」
乾いていて、細くて。簡単に折れてしまいそうだ。
「賢太郎も結衣も生きていて、本当に良かった」
淡い笑みを浮かべて、母はまた目を閉じた。細い息が続く。時折、つっかえる。
「医者は?」
相模の声。
「診せたよ」
受けたのは沙也だ。
「よほど無理をして歩いてきたんだね。だから――」
ぼんやりと、炊事場の上り口に腰を下ろしていたら、目の前に湯呑みが突き出された。
はっと顔を上げる。
「
彼女はいつもどおり、しんとした顔だ。結衣が湯呑みを受け取ると、そのまま出て行ってしまう。
「ありがとうございます」
ぐいっと煽ると、白湯は喉を一気に滑り落ちていった。姿勢を戻して、大きな溜め息を吐きだす。
竈の前の沙也も振り向いてきた。
「お結衣! ご飯は!?」
思わず笑う。
「……ごめんなさい」
沙也も笑う。いつもより、情けない顔。
「お沙也さん」
その彼女を呼ぶと、首を傾げられた。
「あたしの母様は」
「気持ちは分かるよ」
ふっと笑われる。
「わたしも、伊織が居なくなったら、地獄の先にだって捜しに行くよ」
瞬く。湯呑みが揺れて、転がっていく。
「お沙也さん」
呼ぶと、彼女は静かに頷いて、寄ってきた。
ほら、と両手を広げられる。わっと叫んでそこに飛び込んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「母様は、あんたが無事で嬉しいんだよ」
「でも、だけど」
うえええ、と喘ぐ。
「あんなになっちゃうなんて」
「それだけ頑張って歩いたのよ、褒めて頂戴」
「すごい、苦しそうなの」
「ホッとしたら疲れが出たのさ」
「だけど、それで、母様が死んじゃったらどうしよう」
ぎゅっと背中に回された腕が、強く抱きしめてきた。
「あたしのせいだ。あたしがちゃんと、元気だよって書いて送らなかったから」
「そうだよ、あんたが心配だったんだよ」
「あたしが」
「無事で、本当に良かった」
とんとん、と背中を叩かれる。結衣はさらに声を上げた。
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