28. 今日越えて(3)
赤から紫へと風の色が変わっていく。
越後屋の店の前ではもう、明りが煌々と灯っていた。
一つ大きく息を吸ってから、中に入る。
まもなく越後屋が出てくる。いつになく急ぎ足だ。
「俺に急ぎの用だって?」
「わざわざ出向いてもらっちゃって、悪いね。待てないから勝手をさせてもらったよ」
そう言う彼に合わせて見回せば、知った顔が店の中を動いている。その中の一人に眉が跳ねた。
「お
呼ぶと、彼女は小さな肩をさらに縮こまらせた。
「勝手に出かけるんじゃねえよ」
「わたしが借りてきたんだ、怒らないでやってくれよ」
越後屋は冷えた笑みを浮かべる。相模が横目で睨んでも、そのままだ。
「この分はちゃんと払うからさ」
「そういう問題じゃねえよ。おまえ、この娘の事情は知ってるだろう?」
「借金を返すのに協力してやったのに」
「だから」
一歩前に踏み出そうとした相模を手で押し留めて、越後屋は近くの座敷に座ってしまった。
別の店子が煙草盆を抱えてくる。
相模も溜め息を吐いて、隣にどさっと腰を下ろした。
すぅ、と煙が二筋。
「料理が得意なのが欲しかったんだ。男手も。さっと手配できるのは、さすが榮屋」
「お褒めに預かり、どうも」
「へそを曲げなさんな。ちゃんと払うよ」
「しつこいな。俺をそんなに守銭奴だと思ってるのか」
「違うのかい?」
「……まあ、金は大事だよ」
すっと視線を落とす。
「金が無ければ、飯が食えない。温かい寝床もない」
それから煙を吹いて、上を向いた。
「だけど、金を手に入れるためなら何でもやっていいってことにはならねえな」
「よく云うよ。博打に盗みに脅し、したい放題していたくせに」
にやにや笑う越後屋に、相模も苦笑いを返す。
「改心したんだよ」
煙管から灰を落とし、それで、と相模は笑いを呑み込んだ。
「何を始めようっていうんだ」
越後屋も、常以上の鋭さで見遣ってきた。
「この間の舟の事故」
と、視線が左右を窺う。顔を寄せる。声が低くなる。
「様子を見に、土井
頷く。他でもないその人と橋の傍で話をしたと、言い差して黙る。
「それがどうした」
頬が引き攣らぬようにゆっくりと問い返すと、越後屋はさらに声を低くした。
「わざわざ出向かれてくる御仁なら、話が通じるかもねと思ってね――案の定だ。わたしどもに近い感覚をお持ちだ」
「はあ」
生返事に、脇腹を小突かれた。
「御老中の一人だが、今、上知令に反対している。場合によっては、水野越前守の次を狙える人だからと思ってね。繋ぎを作っておくのが得かと」
ふふふ、と吹出して、彼は立ち上がった。
「株仲間をまた作れるかもしれないよ? それに向けて、ちょっとおもてなしだ。何処まで我々の話が通じるか」
相模は座ったまま。
「これだから商人は」
煙を吐き出す。
「羨ましいだろう?」
越後屋はすっと身を退くと、奥に引っ込んでいった。
所狭しと駆け回る人たち。その中で奈津を捜して、溜め息を吐く。
――よりによって、
呼ぶと、彼女には睨まれた。
「俺が雇い主だぞ、一応」
そう。一応、だ。近寄ってきただけマシと云うもの。奈津が向けてきたのは、親の仇を見るような視線だ。
「いいな。絶対、客人とは喋らずに帰ってこい。料理するだけなら、顔を合わせることはねえだろうけどな。絶対喋るなよ」
もう一度溜め息を吐いて、立ち上がる。
夜風が冷たい。
体に障るだろう、と縁側の障子を閉めた。庭には、賢太郎が微動だせずに立っている。悩むこと数瞬。
「母様とお話になった?」
声をかける。振り向かれることはなかったが。
「戻らぬと言ったら、泣かれた」
刺々しい声は戻ってきた。
「私はこのまま江戸に居るぞ。国の行く末に尽力するのだ」
「でも、あたしと母様はそのつもりじゃない。兄様は必ず帰ってくるって信じて、江戸に見送ったんだよ」
肩を落として、脇の縁側に座り込んだ。
「帰ってきてよ。あたしは下総に帰りたい」
「駄目だ」
「でも」
「本陣はもう、政五郎叔父が好きになさっているようだが、問題ない。私はそんな些事に関わっていられん」
「些事って…… 酷い」
俯く。ぽたん、と膝に小さな染みができた。
「お国のことも大事だけど、あたしは暮らしていくことも大事なんだよ?」
「おまえも母様も、食べていければ良いだろう?」
顔を上げればやっと、兄と目が合った。にっこり笑った顔と。
「江戸に家を探してやる。明日にでも見つけてきてやる。すぐに引っ越せ」
「嫌です」
むっと唇を突き出すと、兄が眉を下げる。
「では、どのように暮らすつもりだ?」
「下総に帰らないというなら、
すぐ出した答えに、彼は顔を歪んだ。
「此処は駄目だと言っただろう!」
だろうな、と首を振る。
「だとしても、明日すぐには無理よ。あんな母様に動いてくれって言うの?」
「そ、それは……」
「母様だけで寝てろとは言わないわよね?」
「う、うむ」
「だから、兄様と一緒に暮らすっていうのは?」
う、と唸った賢太郎の視線が宙を彷徨う。
「それは…… それは、うん、駄目だ。私は奈津と所帯を持つ」
知らず目を半分閉じ、舌を出した。
「兄様が結婚されるというなら、あたしもします」
「そんなこと許さん」
生真面目な顔で言い切られ、結衣はまた大きく息を吐いた。
「兄様ばっかり」
「当たり前だろう。父様が死んで後、家長は私だ」
「そうですけどね」
膝の上で拳を握る。
「あたしはお奈津ちゃんが好きだけど、兄様のお嫁に来てほしいなんて一言も言ってないじゃない。母様にだって相談はしてないでしょ?」
「うむ…… まあ、そうだが」
「それでも一緒になろうって言うんでしょ? だから、あたしが誰と夫婦になろうが、兄様の知ったことじゃない」
真っ直ぐに見つめる。夜の闇の中でもはっきり見えるほど、賢太郎の目線は定まらない。
「どうして」
さらにきつく、指の爪を掌に刺す。
「兄様は自分の道を貫けるのに、あたしは思うように生きちゃいけないの?」
「屁理屈をこねるな」
「兄様に言われたくないわ」
ふん、と横を向いた。
「御恩のある方に礼を尽くせないような方ですものね」
「ならば、辞儀をして来ればよいのか?」
向き直ると、彼は肩を鳴らし、腰に大小の刀を帯びた。
「今宵、土井大炊頭様はこの近くまで来ているようだぞ。確かに藩屋敷に真正面から入れぬ身だからな…… 絶好の機会と行こうじゃないか」
すたすたと塀へ歩き、ひょいと跨ぐ。
「兄様、何処へ行くの!?」
「ええっと…… 何と言っていたかな…… え、え…… 越中……はふんどしか」
「越後屋さん!?」
「おお、それだ」
手を叩いて、兄は笑った。ふらふらと闇に紛れていく背中。
――何をする気なの!?
結衣は慌てて追った。
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