03. 色は匂へど(3)
吐くだけ吐いて、顔を上げる。霞んだ目で、見下ろしてくる人の顔を見た。
「情けないなぁ」
天高いところからの陽の光を背に受けた叔父は、笑っているようだ。
「他人に――それも、
ぐっと指先に力を込めて立ち上がる。ぶんぶんと頭を振ってから、行きましょう、と小さく言った。
真っ黒な煙は、しつこくしつこく昇って、漂う。
軽やかな足取りの叔父を、
街道を行く人の数は、心なしか減っている。
先ほどの町屋の並びの最後が、越後屋だったらしい。その名は、木の看板に大きく墨書きされていた。
「へい、らっしゃい!」
暖簾を先に潜った叔父に、中から飛んできた男が笑いかけた。
「後ろの方と逢引ですかな?」
「いやいや違いますよ…… さすがに手は出してないなぁ」
曖昧な笑みを浮かべた政五郎は、旦那様は、と問い返した。
「ああ、あんたが旦那の客――
「ええ、ええ。私が
相手の男はまず政五郎を、そして結衣をじっと見てきた。
それこそ、頭のてっぺんから、爪先まで。舐めるように。堪らず、一歩下がる。腕を掴まれた。
「これ。失礼のないようにするんだよ」
裏返りかけた叔父の声に、唇を噛んで踏みとどまる。
「じゃあ、どうぞ。奥へ」
結衣の手首を掴んだままの政五郎の手を見て笑って、店の男はひょいと框を上がった。
奥へと伸びる廊下を進む。
両側の閉じられた襖の向こうからは、得も言われぬ声が漏れ聞こえてくる。こちらの頬も熱くなってくる。
「逢引きにも使われてるんでね」
事も無げに男は呟いた。
「なんだったら、買ってもいい」
そうして通されたのは、一番奥まった座敷。縁側からは、幾つもの鉢が並べられた庭が見える。
出されたお茶を飲んでようやく、深く息を吐く。
「落ち着いたか」
「はい」
そっと見遣ると、叔父はひっひっと肩を震わせた。
「あんなのにいちいち同情していては、自分のやりたいことができなくなるぞ。叔父からの忠告じゃ」
「……ありがとうございます」
はあっと俯く。
――そうだ。あたしにはやりたいことが。
成さねばならぬことがあるのだ、と唇を噛む。
ぴい、と鉢の蔭で鳥が鳴く。
からりと音を立てて障子が引かれ、羽織を着た壮年の男が入ってきた。
「おお、おお、貴方が越後屋さんですか」
叔父はがばっと畳に伏せる。
「まあまあ。楠見さん、顔を上げてくださいよ」
相手は、中肉中背の丸い顔。着物は
そのまま、結衣と叔父が座る正面に――開けたままの障子を背に腰を下ろした。
外の縁側ももう一人居る。先ほどここまで案内してきた男とは違う、背の高い男だ。こちらは継ぎの目立つ着物を尻っぱしょりにしていて、目線も肩も鋭い。
ごくり、と唾を呑み込む。
「それでは早速お話を進めましょうか」
越後屋は傍の煙草盆で火を熾して、煙管に口を付けた。のんびりと煙が上がる。
「そちらのお嬢さんを頂いていいんですね?」
え、と瞬く。腰を浮かす。
「なんの話……」
叔父を見るが、彼は引き攣った笑いを浮かべて横を向いてしまった。
正面に向き直る。
「おや、おかしい。聞いていないので?」
越後屋は、煙管から口を離して、息を吐いた。
「あんたを売っていただくことになっていたんですが」
向けられた視線は冷たい。
「売る……? あたしを?」
――叔父様が?
何故、と問おうとして舌が空回る。ぺたん、と床に滑り落ちる。
政五郎が湯呑を引っ繰り返し、澄んだ緑色のお茶が畳に広がった。
とんとん、と煙草盆に煙管が打ち付けられる。
「本当に厭だね。ちゃんと話を済ませておいてもらわなきゃ困りますよ、楠見さん」
越後屋は首を振って、手を振った。
「私だって鬼じゃないんでね。嫌がる娘を無理矢理攫って行くような真似はしたくないんですよ」
「は、はあ…… ですが」
と、政五郎が両手を揉む。
「わざわざ江戸に連れてきたんですよ。買ってもらわなきゃ困ります」
「それほど大事な品物なのに、納得させていないのはこっちも困りますよ。説得は私の役目じゃないんでね」
煙草の煙が揺れる。結衣は、ごくり、と唾を呑み込んだ。
「じゃあ、今ここで納得させれば、すぐにでも買っていただけますね」
政五郎は身を乗り出す。越後屋はそっぽを向いたまま頷いた。
だから。叔父は、ぎょろりと血走った眼を向けてきた。
ひっと息を呑む。
――売られるために江戸に来たんじゃない!
結衣は勢いよく立ち上がった。そのまま縁側に飛び出して、駆け抜ける。土間に飛び降りて、通りの真ん中へと進み出る。
足の裏にできていたマメがじくりと痛んだ。
早足で通り抜けていく、忙しない人たちは裸足の結衣を見向きもしない。
ぎゅっと目を瞑って、開いて。振り返れば、越後屋の暖簾をくって出てくる影があった。
走り出す。
藍、鼠、茶色の着物の波の中を駆けて、振り返って、また走って。
――どうしたらいいんだろう。
ぎゅうと胸の下を締め上げられる感覚に、つい、立ち止まる。
脛がじんじんと痺れる。は、は、といくら息を吸っても苦しいままだ。そんな状態なのに、きょろきょろと通りを見回す男が目に付くたびに、ずくっと胸の奥が跳ねる。
じわり、涙が滲んできた。拳で拭っても、どんどん溢れてくる。
「ど、うし、よ、う」
と呟いて、そうだ、と唾を呑み込んだ。
――これも何かの縁かねえ。
一本裏の通り。榮屋という名前。
これしか手掛かりはない。人買いから逃げきれる保証もないけれど。
――でも、何もしないわけにも。
ひっく、としゃくり上げて、のろのろ進み出す。
人の多い街道から折れて、路地へ入る。雨水と日光をたっぷり吸いこんだ木の壁が並び、猫が日向ぼっこをしている中をどんどん歩く。
『榮屋』と墨書きされた看板はすぐに見つかった。
裏通りで一際大きい戸口と、そこから聞こえるざわめきが、教えてくれた。
前に立って、大きく息を吸う。吐き出す。
もう一度強く、顔をこすってから。その木戸を開けた。
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