02. 色は匂へど(2)

 壁の向こうの色の声が収まって、うつらうつらとなった頃。今度は建物の外に騒めきと足音を聞き取った。

 すわ火事か泥棒か、と起き上がったが他に誰も動く気配がない。よく耳を澄ませば、音が立っているのは表の通りだけだ。気にしているのは自分だけなのか、ともう一度布団に潜ってみたが、目は冴えたままで、明け六つを迎えてしまった。


 明らかに寝足りていない顔。井戸水に映った自分を見て、結衣ゆいは溜め息を吐いた。

 冷たい水で顔を洗っても、肌が締まらない。島田髷は昨日のどさくさから曲がったままで、着物も長旅で草臥れている。

 地が良ければまだマシなのにと溜め息が出るが、残念ながら、額が広過ぎる間抜けな顔。充分に食べているはずなのに、イマイチ膨らみの足りない胸。角ばった肩と掌。蒼白い頬。

 また涙が浮いてきたので、もう一度顔を洗い直す。部屋からは叔父の政五郎まさごろうが呼んでくる声が聞こえた。

「朝餉じゃ、朝餉じゃ」

 膳の前に座った叔父は、満面の笑みで膳の上の皿を突いている。

「旨い魚だのう。ほれ、結衣もさっさと食べろ」

 黙って座ると、結衣の前にも膳が突き出されて来た。

 目を丸くして見向く。斜め前に座っていた女は、歯を見せて笑った。

「はい、食べて食べて。炊き立ての、あったかいうちにね」

 椀に高く盛られた白米にもう一度目を丸くして、結衣はおずおずと箸を持った。

 江戸では白米が普通なのだと話には聞いていたが、本当だったらしい。焼き魚も食べ慣れた鮎ではない。味噌汁の具も、藁色で指の先ほどの平たい、結衣の知らない何かだ。噛むと妙に柔らかい。むぅ、と口を尖らせて飲み下す。

 女は軽い声を立てて笑っている。

「おかわりは如何いかが?」

「いやあ、すみませんなぁ」

 政五郎は鼻の下が伸びている。

 家に戻れば、叔母という人がいるくせに、と結衣は眉を寄せた。

「偉い別嬪さんだ。昨夜はいらっしゃなかったかな?」

「ええ。わたしはこの旅籠の奉公人じゃないんでね」

「ほほう?」

「この裏の、榮屋って旅籠の者なんです」

 店の名前にビクッとなって、結衣は顔を上げた。女はにっこり笑って、喋り続けている。

「旅籠って言っても、旅の方を迎えるというより、隣の宿場や江戸の街中から来た荷運びの人を寝泊まりさせるようなところなんですよ。飯盛女はいらないんです」

「ほほう」

「こっちのお宿は、奥州街道を旅してきた方をお泊めするところですから、飯盛女も沢山います。それでも手が足りなくなると私なんかが呼ばれるんです」

「はー。なるほどなるほど」

 政五郎はやたら大きく、首を振ったり、手を打ったり、忙しない。

 結衣は黙って、やわい白米を掻き込んだ。横からその空の椀を引ったくって、女が、手を動かしながら首を傾げる。

「今日はどちらまで歩かれるんです?」

「いやいや、今日はこの街で待つのですよ」

 叔父がただニコニコと答えるのに、結衣は声を上げた。

「待つ…… のですか?」

「おお、言っていなかったかな? 千住まで迎えに来る故待っていろと、先方からは言われておるのだ」

「先方? 江戸でお世話になるお願いをしていた方ですか?」

「そうだそうだ」

「……そういえば、どんなお方か、聞いてません」

「うっ! そ、それは……」

 政五郎は袖の先で額の汗を拭いながら笑った。

「まあ、逢えば分かる。下総の田舎から出てきたわしらが江戸で頼るに充分な方だ」

 はあ、と曖昧に頷き、結衣は二杯目の白米を口に運ぶ。

「その方とはこの旅籠でお待ち合わせで?」

 飯櫃の蓋を閉じながら女が問うのに、叔父は首を横に振った。

「いいや。南端の、ええっと、何と言う店だったかな?」

 ごそごそと彼は荷物を漁り始めた。

「ええい…… 頂いた文をどこに閉まったかな……」

「南端の店と言えば、水茶屋がございましてよ」

「み、みず?」

 女が言うのに、結衣は目を白黒させた。

「この飯盛旅籠と同じように色を売る女がおりますからね。気を付けて」

 何に気を付けろというのだ。ぽかん、としているうちに彼女は部屋を出て行った。

「あった、あったぞ!」

 政五郎が満面の笑みで振り向く。

「ここだ。越後屋、だ。支度をしたらすぐ参るぞ」



 昨日までが嘘のように、政五郎は軽やかに歩いていく。足の裏が痛いだの、腿が上がらないだの、煩かったというのに。

 だが、元気でいてくれた方が、結衣としても有難い。

 気持ちは重いが、一人で為すわけでないのだと思えば少しは気楽になれる。

 五日歩いても、辿り着いただけ。旅に出て、成さなければならなくなったことの、本番は今日からだ。

――待っててね、兄様。

 は、と息を吐いて見回す。

 街道を埋めるのは、繊細な濃淡を着こなした人々の波。響き渡るのは笑い声と怒鳴り声。

 結衣が育った街も街道の宿場町とあって賑わっていたが、それ以上――いや、比べものにならない。


――此処が将軍のお膝元。


 その流れが急に一つの方へまとまって動き出す。

「なんだなんだ?」

 きょろきょろと見回して、叔父はその中の一人に話しかけていた。

「何があったんです」

「今から仕置場で刑が行われるんだよ!」

 襷がけのまま小走りしていた男は、そわそわと足を動かしながら言った。

「早く行かねえと見逃しちまうじゃねえか」

 彼を含めて、人は南へ南へとどんどん進む。

「おお。では行くぞ、結衣。土産話にな」

「ちょっと、叔父様――!」

 引っ張られ、歩いた。

 とある地点でぷつりと町屋の並びが途切れ、代わりに寺が建っている。その向こうは、柵と縄で区切られた一角。

 人が押し寄せすぎて、その境は押し切られそうになっていたが。

「仕置場って……」

 結衣が喘ぐ。政五郎は、はっはっと笑った。

「そりゃあ、御公儀に逆らったならず者を始末するところだろう?」

 叔父は人集りをするする抜けて、その真ん前まで出て行った。

 区切られた向こう側ではちょうど、札が立てられて、その前で羽織はかまに二本の刀を差した男性が朗々と声を張り上げているところだった。

「今日のは火付けだってよ」

「煙草の灰を道端に捨てたら、そのままそこの塀が焦げただけだっていうのになぁ」

「軽く言うなよ。塀が焦げただけで済んだって話だ。下手したらその家も、周りも燃えるんだぞ」

「だよなぁ」

「江戸八百八町焼け落ちは御免だからな」

 ずしっと大きな柱が立てられた。そこにはぐるぐると縄で括りつけられた男がいる。

 ぐったりと伏せられた顔以外を覆うように、藁屑が積み上げられていく。

「火を点けい!」

 先ほどの二本差しの侍が叫ぶと、横にいた男がその手に持っていた松明を投げつけた。

 真っ赤なほむらが轟と天へ伸びる。わっと声も上がった。

「おお」

 政五郎も笑って手を叩いている。

 肉の焦げる臭いが胸を圧してきた。

 焔の中で、その人はぴくりとも動かないまま、黒く変わり、ぐずぐずと崩れ落ちていく。

 結衣はその場にがくんと座り込んだ。両手を地に着くと、ぐうっと胃が鳴った。押し出されてきた中身を、そのまま吐き出す。両目からもまた涙が零れてきた。

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