撫子踏まずに焔を背負え

秋保千代子

01. 色は匂へど(1)

 今宵は満月。

 その白い光を背に受けた男たちの顔はよく見えない。

 だが、聞こえてくる声が、さぞや下卑た笑いを浮かべているのだろうと知らせてくる。

 土の上に抑え込まれた両手。塞がれた口。

 それでも。


――此処ここで死んでたまるもんですか。


 くびり殺されるために江戸に来たのではないと、結衣ゆいは膝で圧し掛かってくる相手の股を蹴り上げた。

 ぎゃっと叫んで、一人引っ繰り返る。

 ふざけんな、と叫んだ別の男に頬を張られた。

 そのお陰で口を押えていた手がずれたので、迷わず噛みつく。そうしたら、腹を殴られた。力が抜けた瞬間にまた三人がかりで抑え込まれる。

「たっぷり可愛がってやるからな」

 耳障りな声が再び。その中に、土を下駄が叩く音が響いた。

「なんでえ!?」

 三人が三人とも同じ方を向いたので、結衣も必死に顔を動かした。

 生垣のこちら側に、また別の男が一人立っている。随分大きな男だ。

ってたかって、何をしてやがる」

 低いがよく通る声に。

「うっせえよ!」

 結衣の両手を掴んだままの不埒者が叫ぶ。

「てめえも男だろ、お楽しみを分かってくれねえのかな」

「悪いが理解できないね。女が欲しいなら、そこの女郎屋にでも行ってきな」

 右手は袂に突っ込んで、左手で煙管をくるくると回しながら、生垣の傍の男はくっくっと喉を鳴らした。

「言わせておけば!」

 足の側に居た男ががばっと立ち上がり、ぐいっと袖を捲り上げた。

「なんだ、やるのか?」

 煙管の動きを止めて、彼は首を傾げた。

榮屋さかえや相模さがみに喧嘩を売ろうとは、いい度胸じゃねえか」

 すると、頭側の一人がげっと呻いた。

「やべえよ」

 土の上に両手を押さえつけていた手が浮いていく。

「相模じゃ、やべえ」

 結衣の傍にいた二人がそろりと立ち上がった。

 意気込んでいた男も、ずりずりと後退っている。

「わ、悪かったな。暗くて、顔が、よく、見えなかったんだよ……」

 ず、ず、と結衣を挟んだ反対側に行くなり。彼らはわっと叫んで走り出した。

 遠くで桶が倒れる大きな音が響いた。それを咎める大声も。

 結衣はぽかんとそちらを見つめていたのだが。

「いつまで寝転がっているんだ?」

 そう声をかけられてようやく、体を起こした。

 裏通りからさらに一歩入ったくさむらだ。区切りは躑躅の生垣と葉を繁らせた桜の木。遠くで川がゆったり流れる音。夜空には無数の星とたった一つの大きな月。

 じわり、その光が歪んだ。

「おい」

 呆れたような、焦ったような声。

「泣くなよ」

「泣いてない!」

「莫迦言ってんじゃねえよ。その両目から溢れてんのは何だ」

「塩水」

「……ああ、そうかい」

 ぐず、と鼻をすする。その目の前に塵紙が出てきた。煙管を持ったのとは反対の手で、男が差し出してきてくれている。こくん、と首を振って頷いた。

 ずび、と音を響かせて鼻をかんで。 

「助けてくれたの?」

 ひっくと肩を揺らしながら問うと、彼はぽんぽんと頭を撫でてきた。

「先に助けてくれたのはあんただ」

「あたし?」

「さっき、ボウズを一人かばってくれただろ?」

 それに、ああ、と呟く。



 壁の向こう、襖の向こうから聞こえてくる色々な声に居た堪れなくなって、泊まっていた旅籠はたごを抜け出してきたのだ。

 そこで、同じように夜道を歩いていた子供を見かけた。

 その子が、通りの別の店から出てきた男たちにぶつかったのだ。そうしたら、殴られてしまった。だから。



「泣いていたから、放っておけなかったの」

 ずずっともう一回鼻を鳴らす。

「威勢のいいこった」

 彼はまた喉を鳴らした。

「そのボウズは、俺んところで働いている女の息子でね。背中と顔を痣だらけにして駆け込んでくるから何事がと聞きゃあ、代わりに女の子が連れ込まれたと言ってきた」

 そうか、と頷く。

「助けるはずだったのに、助けられちゃった」

「いいんだよ。ボウズもおまえさんも、何もなかったんだからな」

 すいっと煙管を握っていない方の手が差し出される。

 瞬く。

「立てよ」

 掴まれということかと頷き、結衣はその大きな掌に自分の手を重ねる。

 ひょいっと立ち上がらされて、やっぱり彼は背が高いのだと知った。肩も広い。胸も厚い。到って普通の女子である結衣が隠れてしまう程に。

 うっすら見える顔にじっと目を凝らす。

 年も大分上だ。数えで十五になった結衣よりも一回り、もしかしたらそれよりもっと、かもしれない。

「ありがとうございます」

 腰を折る。

「だから、礼は言いっこなしだ。先に助けられたのはウチなんでね」

 煙管を帯に挟み込んで、彼はまた喉を鳴らした。

「榮屋の者だ。相模って呼ばれてる」

「結衣です」

 そうか、と彼は小さな声で名を呼んできた。

「またあの手合いが出てこないとも限らないからな。送るぞ。――何処に帰る?」

「ええっと……」

「何処だ?」

「……泊まっていた旅籠に、なんですけど」

 と、結衣は宙を仰いだ。名前が思い出せない。ぐっと唇を曲げたら、また涙が滲んできそうだった。

 相模は首を傾げる。

「色を売ってくる女はいた店か? いない店か」

「いました」

 はあっと溜め息混じりに言えば、彼は頷いた。

飯売旅籠そういうところは、橋のこちら側なら一箇所に並んでるんでね。行けば分かるだろ」

 歩き出す。

「おまえさん、この辺の者じゃないのか」

「ええ」

 案外ゆっくりと歩く男と並んで行きながら、頷く。

「夕方ここに着きました」

「何処から来た?」

「下総から」

「一人ってわけじゃないよな?」

「叔父と」

「その叔父貴はどうしてるんだ」

「実は、旅籠で、あの」

 言い淀んで、口を噤む。とても、言葉にしたくなかった。

 四日歩いてようやく辿り着いた江戸の街。物見遊山で来たわけではないと、唇を噛む。

 だが、彼にはくくっと笑われた。

 察されたらしい。


 この辺だと告げられて、頷く。

 暗がりだが、建物の形に覚えがある。二階から灯りが漏れる一つを指さすと、彼はすたすたと近寄っていった。

 がらりと戸口を開けて、入っていく。

「なんでえ、相模か」

 目を擦りながら奥から浴衣姿の男が出てきた。

「悪いな、起こしちまって。お宅のお客さんを送ってきたぞ」

 ああと唸って、彼は結衣をじろじろと見遣ってきた。

「勝手に出ていかれたら困りますよ」

「ごめんなさい」

 かっと体中が熱くなる。俯く。横では相模が肩を震わせている。

 じわっとまた視界が歪みかけたので、頭を振った。それを止めるようにまた、撫でられる。

「じゃあな、お結衣」

「ありがとうございました」

 もう一度腰を折ると、彼は口の端を上げ。

「これも何かの縁だ」

 と、片手を動かした。

 きょとんとなって振り返る。相模が指さす先は、宿の突き当たり――否、その壁の向こうだ。

「榮屋は一本裏の通りにある。この千住宿に居る間は頼ってくれ」

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