33. 浅き夢見し(3)
音につられて振り向いて、
柵を乗り越えて、井戸の脇まで歩み寄って来ていたのは
髭がうっすらと伸びて、袖と裾には皺が寄っている。そしてこちらもまた、目の下が真っ黒だ。
その上からギロリと睨まれて、両腕で自分の体を抱く。
「お
ガラガラの声で辰之助が呟いた。
「
ぶるりと体を揺すって、結衣は必死に考えた。
――あの晩、あの時、
辰之助にも罪がある、と。藩主の問いにすらすらと応じていた、あれは何の話だったか、と。
奈津の瞳が僅かに煌めく。
「辰之助も博打を打っていたのでしょ?」
ぴく、と彼の頰が引き攣る。
「博打を打っていたのでしょ?」
重なる問いに、拳がわなわなと震えている。
奈津はうっすらと笑みを浮かべて言った。
「博打は罪。それを叱責されるのは当然ではないですか」
――ああ、そうだ。
博打に人の身を賭けたのだ、そういう話だ。賭けさせられたのは、奈津とその母。
「博打を打つだけなら、捕まらないのだと」
そう聞いた。イカサマは赦されないのだとも。ならば、金品以外を賭けることも同じだろう。
「だからもし、本当に、お奈津ちゃんのお父様に、ご家族を賭けることを唆したのが辰之助様なのだったら、責められても――」
仕方ないと言いさしたところで、辰之助は溜め息を返してきた。
「全くだ。打つだけなら捕まらないのに。お奈津のことだって、
思わず、奈津と顔を見合わせた。
「もし、辰之助様が払われていたら、わたしもお母ちゃんも売られずに済んだの?」
「そうだよ!」
辰之助が頭を掻き毟る。
「そうでなくても、売られる先さえ分かっていれば、僕が買い受けたのに! こんな、下町の口入屋なんかに手を出させなかったのに!」
はあ、と彼は足元を蹴った。
「茂兵衛が悪い。僕がお奈津を貰うというのを断るから、こんな遠回しにやる羽目に……」
ああ、と結衣は眉を寄せた。
――横恋慕が過ぎて、真正面からでは口説けませんでした故に。
「辰之助様は」
と、結衣が言いさした時に、奈津も立ち上がった。
「わたしをどうするつもりなんです」
「お奈津」
辰之助は真っ直ぐに見遣ってくる。
「愚かな賢太郎なぞ忘れろ。僕と――」
「あなたが、愚か、と人を言うの?」
奈津の肩が震えている。
「売りに出されて、散々な目に遭ったのに。それを忘れて寄り添え、と? 冗談じゃないわ!」
最後は涙交じりの声。
「わたしは賢太郎様のものです」
「主人を裏切り、軽々しく火を付ける愚か者だぞ!?」
「それでも賢太郎様がいいんです!」
奈津は、ぐいっと袖で顔を拭う。だが、辰之助は僅かに笑んだ。
「現実が厳しいものでも、それを言える? 殿は賢太郎を見限ったんだ。この間の越後屋での火付けの件を町奉行に通していて、捕まり次第火刑に処す構えだよ。もちろん、水野御老中もご存じの上でだ。もう賢太郎に未来はない」
ねえ、と視線を送られて。結衣はまた一歩下がった。真っ黒な隈の上で燃える瞳。それに体の熱が奪われていく。
辰之助は鼻で笑い、柵の外へと顔を向けた。
「おい、入って来い!」
すぐに、大小を差した男たちが五人ほど入ってきた。
「みんな、博打仲間なんだよね」
辰之助が嗤う。
「殿に叱責を受けた身。お許しを得るために、賢太郎を捕まえて差し出したいんだよ」
ひっと声を上げて、奈津も一歩下がる。
「またここで匿っているんだろう? 賢太郎を!」
「いません!」
「また嘘を吐くか、この痴れ者!」
ぶん、と彼の手が唸る。また頬でそれを受けてしまった。
今度は踏ん張って、睨み返す。
「いませんってば!」
叫んでも、辰之助の表情は変わらない。
「信じない。今、ここの番頭は我が殿にお呼びを受けて留守だったよね。だから、遠慮なく、上がらせてもらうよ――」
「何をしてるんだい!?」
大声が建屋から響いてきた。
両手を腰に当てて、胸を張って。縁側に立っている。
「榮屋に用があるなら、表から来ておくれ」
だが、辰之助も退かず、ぎらり刀を抜いた。
「町人風情が煩い!」
ぶん、と振り上げられる。あっという間に詰められて、斬り下ろされる。
沙也の体から赤い雫が舞う。
「お沙也さん!」
結衣が呼ぶのと同時に、柱の向こうからも叫びがあがった。
「母ちゃん!」
建屋の向こうが、なんだなんだとどよめいた。
そちらへ駆け寄ろうとした前に、ぬっと大きな体が出てきた。
「おめえも連れて行くんだよ、殿の前にな」
瞬く。
「
ひゅっと息を呑む。大男が刀を抜く前に、結衣は体を反転させた。
「お奈津ちゃん!」
立ち尽くす彼女の手首を握って、結衣は庭の端へと走った。背中でまた刃が風を切る音。
振り返らない。止まらない。
二人で草を踏み、小石を蹴って、小道を抜ける。
青から赤へと少しずつ色を変える空と、それを移す荒川の水面。
それを見て、ようやく息を吐く。
手を繋いだままの奈津を見て、結衣は笑った。
「どうしよう、お奈津ちゃん。兄様の縁者ってだけで、あたしたち恨まれているみたい」
「そう、ね」
笑い返される。
痩けた頬が、さっきよりもっとやつれている。
「でも、構いやしないわ。わたしは賢太郎様をお慕いしているから」
すっと目を伏せて、奈津は零した。
「わたしが賢太郎様を信じないで、どうするの」
結衣は空いた手を胸に当てた。
――あたしは?
「賢太郎様は千住にいらっしゃるのかしら」
ぽつん、と奈津が言ったのに目を丸くする。
「まだ千住にいらっしゃるなら、探して、逃げるようにお伝えしなくちゃ」
「……辰之助様、じゃない、藩主様から?」
「そうよ。命に関わるわ」
ぎゅっと眉を寄せる。
――あたしは? 兄様を見つけたら、どうするの?
脳裏を、一度見た火刑の光景が過ぎる。
ぶるっと体を揺する。
「行こう、お結衣ちゃん」
呼ばれ、はっと顔を上げる。
「賢太郎様を助けなきゃ」
今度は奈津が前に立つ。
煌めく水面を右手に、上流へと向かって歩き出した。
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