32. 浅き夢見し(2)
――大見得切ったのは良いけどな。
生まれの違い、格の差を見せつけられれば、やはり逃げ出したくなる。
勿論、今回は一歩も退いてはいけないのだが。
土井
埃一つ落ちていない縁側、切り揃えられた松の木、ピンと張った障子。どこもかしこもお行儀がよくて、むず痒くなってくる。
慣れない一張羅、羽織の襟をもう一度直してから、
「そう畏るな」
座敷に座るその人は、扇子をひらり揺らした。
「近う寄れ」
頭を下げて、一歩中へ。真正面に膝を揃えて座る。口の中はカラカラだ。
「呼びたてて悪かったな」
屋敷の主は笑っている。目元の皺は、最初に見かけた時よりずっと多い。
「十日経った、少しは落ち着いたか」
「お蔭様で」
「越後屋の建屋はどうした?」
「今、焼けた部分を取り壊したところです。同じ間取りで建て直すか、新しい形にするかを、あそこの主は今悩んでいるところでして」
「見舞いは足りたかな?」
「充分すぎる程でございます」
「……楠見の娘は元気かな?」
「こちらも、お蔭様で」
一つ息を吸って、相模はゆっくりと頭を下げた。はっはっはっ、と藩主は笑う。
「ならば良し」
体とふくよかな頬を一頻り揺すってから、彼はすっと瞳の温度を下げた。
「それでだな、
声は済んでのところで呑み込んだが、目は思い切り丸くしてしまった。
土井大炊頭は口元だけ緩めている。
「おぬしたちが筒井の手の裡なのは知っておる。そこにもう一つ仕事を増やさぬかと云うておるのだ」
瞬く。
「我々はその日を生きていくので精いっぱいでございますが、それで何のお役に立ちます事やら――」
「まあ、待て」
ふふふふふ、と艶やかな頬が揺れた。
「水野越前守の失敗の一つは、下の声を踏みつけることが多かったことでな。勿論意見する者が居なかったわけではないぞ。だが、今の様子はどうだ。もとから反りの合わなかった筒井だけでなく、懐刀であったはずの遠山も閑職に追いやり、矢部は流された先で憤死する有様じゃ」
「……矢部様はお亡くなりになったので」
思わず、呟く。
――筒井の旦那の後釜として町奉行に入ったってのに。短い命だったな。
「驚くだろう?」
藩主も溜め息を零したが、その次の瞬間にはまた笑っていた。
「このままではわしも危ういのでな。引っ繰り返して見せようか、と」
朗らかな笑みには不釣り合いな言葉だ。知らず、頬が引き攣る。
「それでな――」
と藩主は声を低くした。
「邪魔がいるのだよ」
「はあ」
「裏切り者と、不埒者じゃ」
相模はぐっと口許を引き結んだ。
「おぬしも知っておろう、言うてみよ」
「
「左様」
ぱんっと扇子が小気味よい音を立てる。
「先日、辰之助とその子分を問い詰めたところ、賭場には頻繁に通っているというではないか。しかも、相手を高利貸の下に追い立てる程に負けさせる――そこまでするにはイカサマが必要かと考えるが、それも片手では足りぬほど成しているというではないか。実に腹立たしい」
そういうわけでな、と扇子が揺れた。
「政敵の子飼いとなった賢太郎に、下の者から恨みを買うことしか成していない辰之助。この二人に足を引っ張られるのは困る」
黙った相模に対し、藩主はさらに笑う。
「この二人が目障りなのは、おぬしにとってもだろう?」
――見抜かれてるよ、流石だ。
相模はもう一度瞬いて、口の端を上げた。
「手を貸せい。多くの無宿者を拾い、再び街中へと戻してきた
藩主の静かな、それでいて満足げな笑みが相模に向けられる。相模は手をついて、ゆっくり頭を下げた。
「先も申し上げた通り、榮屋は口を糊するので精いっぱいでございます。ですが、そのための働きでしたらば、
喉の渇きはいつの間にか治っていた。
夏の終わりの風が吹く。
久しぶりに髷を結い直した。
鏡の前で何度も首を傾げてから、よし、と頷く。
最後、飾り櫛をゆっくりと挿した。
「いつまでも泣いてばかりいられないものね」
帳場の前の土間では、入墨を背負った大工たちが手と口を動かしていた。
「お結衣ちゃん、具合はいいのかい?」
振り向いた一人が笑う。
「風邪をひいていた、とかではないもの。全然平気よ」
「そういう意味じゃねえよ!」
叫んだ一人を、別の一人が小突く。
「慰めるのはおまえさんの役目じゃねえ、諦めろ」
「そうそう。相模に喧嘩を売るのは莫迦だ、莫迦」
なあ、と別の男にも笑いかけられて、頬が熱くなる。
「良かったよ、お結衣ちゃんが此処にいることになって」
「なあ。楽しいよなぁ」
明るい声が響く。両手で顔を押さえて、はにかむ。
「ところで、お結衣ちゃん。その相模はどうしたんだ?」
「お出かけしてます」
「へえ…… 珍しいなぁ」
結衣も、まだ戻っていないのかと肩を落とした。
――兄様のことを相談したかったのに。
また二言三言交わしてから、炊事場へ。
奥へ向かう。夕暮れの近い空の下、井戸の傍では、
「お奈津ちゃん」
呼ぶ。
ゆるり振り向かれた頬はげっそりと痩けていた。
青い隈がべっとりと張り付いた顔に、息を呑む。
「お結衣ちゃん」
彼女は、ぴくり、と口元を歪めた。
「賢太郎様が、戻ってこないの」
震えた瞼から、ぽつん、と雫が零れる。
「燭台を倒して、お部屋に火がついた時に、お見かけしたのが最後」
「……そうだね」
「もう、十日もお会いしてない。ご飯は食べていらっしゃるのかしら。きちんと眠れているのかしら……」
うん、と頷いて、結衣は眉を寄せた。
「軽々しく出て来られても腹が立つでしょうけどね」
「どうして」
奈津も眉を寄せる。
「だって、火を付けたのよ? わざとだったのか、うっかりだったのかは分からないけど、火を付けて、越後屋さんを火事にしたのは兄様よ」
「それが?」
「火付けは重罪よ、笑って済まされることじゃないわ」
一息で言い切って、肩で息をする。その結衣を見上げたまま、奈津はぼんやりと笑った。
「それがなんだっていうの」
結衣は瞬いた。
「お奈津ちゃん?」
「罪を犯したことがなんだっていうの? お結衣ちゃんだって分かっているじゃない。
笑みを浮かべたままの奈津から、一歩退く。
「聴いてたでしょ? 盗みに脅し、イカサマ、何でもしてたって。そんな人が偉そうに生きているんだから、火付けなんて大したことないじゃない」
――違うよ、違うよ、お奈津ちゃん。
だが、何がどう違う、とはっきり言葉にはならない。
結衣は唇を噛んだ。
二人黙って見つめ合った。
かさり、と傍の枯草が踏まれる音が響くまで、そのまま。
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