34. 浅き夢見し(4)
引きずられて歩くこと、暫し。
千住の街道を行き交う人に声をかけ、訊ねても、
むしろ『
「何があったか、ご存じですか?」
何人目だろう、大橋の上で小柄な老女から返事をもらった時、
「さあねえ、喧嘩かねえ? あそこは血気盛んなのも多いって聞くからね。死人が出たって不思議じゃないよ」
去っていくその背中から視線を外して、結衣は唇を噛んだ。
ぼろっと零れた涙をそのままに、結衣は橋の欄杵に顔を伏せた。
「なんで。どうして」
沙也は殺されてしまったのだろうか。
「どうして死ななきゃいけないの」
死にたくないのに、と川の下を覗く。そこから、沈んだ男たちの腕がにょっきり生えてくるような気分がして、ひっと息を呑んだ。
「お結衣ちゃん」
声をかけられて、びくっと肩を揺する。
相手は
「どうしたの?」
ほっと肩の力を抜いてから、結衣は眉をひそめた。
奈津は、痩けた頬を朱に染めて、唇にはほんのりと笑みまで佩いている。
「いい話を聞いたわ。川岸のお社でね、その日の宿からあぶれた人が一晩を過ごしていることがあって。ここ二、三日も誰かがいる様子があるんですって。その中に賢太郎様がいらっしゃるかもしれないわ」
「そ…… そう」
頷いて、結衣は首を傾げた。
「でも今日は一回、帰らない?」
今度、奈津は眉を寄せた。ぎゅっと両手を握りしめて。
結衣は、頬を引き攣らせて言葉を継ぐ。
「榮屋に帰らない? もう日も沈んで暗くなるから。それに、皆さん無事だったら、兄様を捜すのを手伝ってくれるかもしれないし」
「厭よ。あんな、悪人たちとは付き合えない」
ぷいっと奈津は横を向いた。
「博打だけじゃないのよ。盗みに脅し――もっと他にもやっているのよ、きっと」
「だけど」
「全員咎人なんでしょ?」
――兄様は?
あんぐりと口を開ける。奈津はそのまま歩き出した。
「お結衣ちゃんがそういうなら、わたし一人で捜すから」
「ま、待ってよ! お奈津ちゃん!?」
――そんな、いかにも危ない場所に行くのは止めようよ!
心の中で叫ぶ。
奈津の歩みは止まらない。結衣も小走りで続くしかない。
荒川の南岸、橋より少し上流に行った場所。大橋を架ける際に皆がその無事を祈った社、なのだという。
夜の闇と雑木林に囲まれたそこは、
「オバケが出そう」
「……オバケより人の方が怖いよ、今は」
木の鳥居と石燈籠の向こう。小さな社から灯りが漏れてきている。
「止めようよ、お奈津ちゃん」
袖を引く。するり抜けられる。
真っ直ぐに進んでいく彼女を、追えなかった。
とん、とん、とん、と静かに彼女は階を昇っていく。がらっと大きな音を立てて、中から戸が引き開けられる。
灯りを背にして立つのは、横にも縦にも大きな男だ。
「なんでえ、女! 何の用だ!?」
対して奈津は、甲高い悲鳴を上げた。そして、男の横をすり抜けて中に飛び込んでいく。
ひっと結衣も小さく叫ぶ。
「おい、その女も捕まえろ!」
「逃がすなよ!」
わあっという声が響いてくる。かくん、と膝から力が抜けて、へたり込む。
口をぱくぱくと動かしていると、社に立つ男と目が合った。
「二人か。なんかの取締りってことはなさそうだな」
ふん、と顎を擦りながら男は寄ってくる。
結衣の前で屈みこんで、ぐふふふふと笑われた。
「お嬢ちゃん。こんなところに何の用かな?」
息を呑む。唇を噛む。
後ずさろうとして、手首を掴まれた。
「わざわざ来てくれたんだ、歓迎するぜ」
ひょいと立ち上がらされて、引きずられる。
「は、離して!」
高い笑い声で抗議を呆気なく消して、どすどすと大男は進んで行く。
「おい、もう一人だ」
社の中から向けられた笑い声に目を瞑る。
収まってからそろりと目を開けて、見回した。
そう広くもない建屋の中。床には酒瓶が何本も、乾いた杯がいくつも転がっている。そろいもそろって、
「兄様!?」
髷が曲がり、頬は赤く膨れ、口の端から血を流していても見間違うはずもない。着物は引き剥がされて、
その横で、奈津が両手で顔を覆って咽んでいる。
「良かった。生きてる」
結衣が呟くと、隣の大男が首を傾げた。
「なんでえ、こっちは妹かよ」
奥で酒瓶を煽っていた一人が笑って、賢太郎の脇腹を小突いた。
「良かったなぁ。助けが来たぞ」
うう、と賢太郎が呻く。腫れた目蓋は持ち上がらないらしい。その顔を奈津が指先で撫でる。
「奈津…… か」
「いったいどうなさったのです?」
「知りたいか、お嬢ちゃんがたよ」
脇の一人が嗤う。
「このお莫迦さん、俺らの縄張りに辞儀もなく入り込んできたのよ。だからちょいっとお仕置きしてやったのさ」
奈津が首を振って、賢太郎の首を腕を回す。それから、きっと男たちを睨む。
「なんだよ、お嬢ちゃん。文句あるのか」
「あるわ。御公儀はでもないのに仕置きなんて! これだから
「言うじゃねえか」
くいっと杯を空けた別の男が息を吐く。
「破落戸には破落戸の掟があんのよ。世話になりたいなら、きちんと仁義を発してくれねえと困るなぁ」
笑い声が響くのに耳を塞ぐ。そこを、とん、と押された。
床に転がる。
顎を掴まれて、顔だけ上げさせられる。
「なあ、妹さんはどう思う」
ひひっと笑いかけられて、顔を歪めた。
「俺らには俺が仲良くするための、居場所を分け合うための掟があるのよ。突然転がり込んで、我が物顔でのさばられちゃあ困っちまうんだ、なあ。困らされた詫びはどうしてくれるんだ」
視線を、真正面の男から、奥へずらす。
「兄様」
相変わらず俯いた顔。こちらへ向けられることもない。
奈津がその腕の中にぎゅっと抱き込んでしまって、もう見えない。
じわっと視界が揺れる。
どっと笑いが起こる。
「困った兄様だなぁ」
不意に両腕を取られた。左右、違う男がいる。
ぞくっと背筋が揺れた。
「厭だ」
呟く。
「自分が痛い目に遭ってもごめんなさいを言わねえ兄様だが、妹が傷ついたらどうするのかなぁ」
正面の男はにたっと笑う。同時に引き倒された。
背中に硬い床が当たって息が詰まるが、構う暇はない。声を上げ、裾がはだけるのも構わず、足をばたつかせる。勢いで下駄が飛んで、一人の胸に当たったらしい。
「本当に活きの良いお嬢ちゃんだぜ」
ぐっと襟元を広げられて、笑われて、かっと頬が熱くなった。
「見ないで!」
じわり、両目から涙が滲む。
――ああ、まただ。
この千住に辿り着いた最初の晩もそうだった。
向けられたのは下卑た笑い声と遊ぼうという視線。
――どうして、どうして、こんな目にばかり!
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