06. 散りぬるを(1)

 あっという間に二十日経った。暦は六月、気持ち早く始まった梅雨が街を濡らす。

 屋根のついた井戸の傍で、腰を下ろした結衣ゆいは懐から文を取り出した。今朝届いた一通。差出人は、下総しもうさ継田宿に残った母だ。


――親切な方とお会いできて幸いでした。


相模さがみさんはい人だよ」

 えへへと笑う。



「ただ飯食いは許さねえ」

 転がり込んだその日、大工たちに取り囲まれたまま相模さがみは言い切った。

榮屋さかえやの奉公人として置いてやる」

 それに、大工たちは万歳をした。

「今夜からお結衣ちゃんが飯を作ってくれるってよー!」

「楽しみが増えるぞ!」

 ガヤガヤと彼らは飛び出していった。

「やあねえ、若い子が来たからってはしゃいじゃって」

 湯呑を片付けながらぼやいた女に、相模も重々しく頷く。

「夕方までに街中へ広まるな、これは」

 予測どおり、この晩泊りに来た男たちのほとんどが結衣の名前と事情をしっかりと把握していた。

 そんな賑やかな男たちに囲まれてたじろいでいても、静かに救いに来てくれた。泣きべそをかいても、塩水なんだろと笑い飛ばされた。翌日も、水茶屋に置いてきてしまった荷物を取りに行ってくれたり。他に入り用な物は、と尋ねてきたり。

 胸は熱くなるばかりだ。



――貴女が無事だったことを母は心底喜んでいます。


 手紙の母の字は震えている。結衣は眉尻を下げた。

 続く文で、叔父の政五郎まさごろうが一人で継田まで帰ったらしいことが書いてあった。結衣とは「はぐれた」と説明していた、とも。


――早く帰ってきて、安心させてください。その親切なお方に送っていただくことはできないのですか?


「頼めば…… 送ってくれるかもだけど」

 だが、やはり兄を見つけないうちには帰れない、とも思う。

「一人で帰って、また叔父様に何かされるのは避けたいだし……」

 今度は最悪殺されるかもしれないと考えて、呻く。身の守りのためにも兄と一緒がいい、と首を振る。

「とはいえ、本当に見つからないなぁ……」

 榮屋に出入りしているのは男たちが、八百八町の隅々で楠見くすみ賢太郎けんたろうを見かけなかったか尋ねて回ってくれている。万が一と言うことで、担ぎ込まれた無縁仏にまで当たってくれているが、今のところ、兄らしき人の話は全くない。

 自分でもなんとかしようと、藩屋敷にいるだろう近野こんの辰之助たつのすけ――賢太郎の失踪を知らせてきた当人にも手紙を出したのだが、こちらは返事がない。

「それに…… うん、何でもない」

 ふう、と宙に息を吐き出す。滲んだ涙を拳で拭う。

 街道から引っ込んだ通りの此処へ、人はなかなか来ない。騒めきは届かない。代わりに、三味線の音と緩やかな歌声。

 そして、ぽたん、ぽたん、と雨粒が紫陽花を打つ音に混じって。

「ねーちゃぁあああん!」

 子どもの呼ぶ声。

 振り向けば、榮屋の裏口で男の子が手を振っている。

「姐ちゃん! 早く早く!」

 大きな声に、小走りで戻る。

「どうしたの?」

「見て見て! 相模に飴もらった!」

 頬を赤く染めて、彼はほらっと両手を広げる。琥珀色の粒が二つ。

「一個は結衣姐ちゃんに」

 それっと口に押し込まれ、笑う。

「ありがとう、伊織いおり

「うへへへへ」

 彼もまた笑う。

 年はまだ八つ。背丈は結衣の胸ほどで、短い髪が動きに合わせてちょこんちょこんと揺れる。つんつるてんの縞柄の着物は出入りする男のお下がりだそうだ。そんな、相模と会うきっかけになった子供は、自分も飴を頬ばりながら続けた。

「舐め終わったら来いって、母ちゃんが言ってた」

「お沙也さやさんが? 分かった」

 急げということだろう、と頷いて、口の中でまだ転がしながら炊事場へ。

 そこではもう、沙也が前掛けを付けて待っていた。

「舐め終わってからでいいのに」

「舐めながらやります」

 ふん、と拳を握る。沙也は笑ってざるを投げてきた。

「今夜は忙しくなりそうだよ。久々に四十人越えの大所帯だ。床が抜けなきゃいいねえ」

 からからと笑う彼女は、表口の方へも振り向いた。

小督こごう、あんたもよろしくね」

 そちらから静かに入ってきた女も頷いて、ざると野菜を持ち上げた。

 そのまま結衣と二人で先ほどの井戸まで戻って、人参を洗い始める。

「ここでの仕事は慣れた?」

 ざぶざぶと手を動かしながらの、素っ気ない言葉。それでも結衣は笑って頷いた。



 榮屋は晩から朝が忙しい。

 千住宿で汗水流して働いた男たちが一宿一飯を求めてやってくるのだから。


 この街は、奥州街道と水戸街道の二つが通るだけでなく、川を行き交う船も集まるのだ。橋の傍には材木問屋が並び、青物を競る市場もある。飛脚たちも多く走り抜けていく。

 その日その日の普請や商いに合わせて、働き手を送り出す。それが相模の本来の仕事だと知ったのは、榮屋の『奉公人』となった翌日だった。

 お天道様の機嫌や流れてくる品物の数に振り回され、沢山の人が相模の元を訪れてくる。

 そして。

「ここで仕事を探しているのは、自分の家がある連中ばかりじゃないからな」

 その日の寝場所に困っている男たちを引き受けている。だから榮屋は『旅籠』でもあるのだ。


 榮屋にやってくる大食い達の食事の支度を引き受けているのが、沙也だった。

 三十路に入ってもなお艶っぽい笑みを纏う彼女は、息子の伊織と此処に住んでいる。

「基本の煮炊きはできるんでしょ」

 と、同居人となった結衣を初手から散々こき使ってくれた。彼女に「なんでできないの」と怒鳴られる回数も、ここ数日でどうにか減ってきている。


 だから。



「慣れたんです」

 そう小督に返すと。彼女は、ふうん、とだけ言って、また黙って手を動かし始めた。

 華奢な手を雅やかに動かす彼女は、とても炊事女とは見えない。そう聞けば、本職は長唄と三味線の師匠なのだと言われた。榮屋からさらに一本裏に入った長屋で、千住新宿の年頃の娘たちを相手にやっているのだという。

 だが、沙也一人で手が回らない晩にはこうして、呼ばれてやってくる。

「あんたが慣れたら、わたしは呼ばれなくなるかしらね」

 ぽつん、と零された言葉に、結衣は唇を噛んだ。

「そんなことないです。だって、小督さんは相模さんと仲が良いし……」

 そろり顔を上げると、小督の眉が跳ねる。

「そ、それに! あたしは、兄様が見つかったら下総に帰りますから」

 少し大きめの声で言うと、彼女はちらりと目を向けてきた。

 千歳茶の着物に映える白い肌。細い眉。ふっくら赤い下唇に、切れ長の瞳。ぞくり、背筋を震えが駆け抜ける。

「じゃあ、わたしはまだ三味線と飯炊きの二足のわらじを続けなきゃ駄目なんだね」

 ふう、と息を吐いて彼女は立ち上がる。

「ほら、戻るよ。お沙也さんが待ってる」

「はい」

 ざるに野菜を積み上げて、抱えて歩く。炊事場の向こう、栄屋の表口からはもう喧しい話し声が聞こえてきている。

「もう来ちゃったよ、あの連中!」

 竈に火を熾しながら、沙也は頬を膨らませた。

「最近早いんだよ、本当にもう」

「何か理由が」

「あんただよ、あんた!」

 びしっと結衣を指さして、沙也が怒鳴る。

 え、と瞬くと吹き出された。

「ああ、もう。後でゆっくり教えてあげるから。さっさとあさりを鍋に投げてちょうだい」

 手を振られる。

 とんとんとん、と小督が包丁を振るう音。上り口からは伊織が手習い歌を口ずさむ声。

 結衣はぎゅっと袖を捲り上げた。

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