30. 今日越えて(5)

 燃え盛る障子戸がぐらりと部屋内に傾いてきて、悲鳴が上がる。

 真っ先に外に飛び出したのは、腰に大小を差した男。続いて、奈津なつが走り出る。

賢太郎けんたろう様!」

 庭に素足で降りた彼女が首を巡らせて叫ぶ。返事はない。

 辰之助たつのすけが舌を打ち、走り出す。

「逃げたか!」

 庭の向こうからは叫び声。表口の方からも怒鳴り声が聞こえてくる。火に気が付いてくれたのだろうか。

 蝋燭を揺らしていた炎は壁を焦がし、障子のそれは床に広がっていく。

 喉がからからに乾いて、声が出てこない。息もできない。

 一際大きく赤が揺れてようやく、結衣ゆいは肩を揺らした。

――逃げなきゃ。

「殿様……!」

 振り返ると、初老の男はまだ上座に座っている。

「おお、ようやく気にかけてもらえた」

 はははっと彼は笑う。

あるじより裏切り者の方が気になるようじゃ。皆、忠義者だのう」

 ゆっくり立ち上がって、彼は首を傾げた。

 見遣る先、庭側の桟を炎が舐め尽くし始めている。

「さて、如何様に外に出たものか」

「そちらの、襖からは……!」

 結衣も飛び上がって、部屋の反対を押し開けた。

 その先も畳敷きの部屋。わあ、という叫び声が上がる。

「向こうが、表口なんです」

 指さすと頷かれる。静かな足取りで進み始めた藩主の後ろを、結衣はそろりと追って。次の襖が見えた時に、走って追い抜いた。

 すぱん、と勢いよく開ける。横合いから別の人が転げ出て行く。

 振り返れば、まだ藩主はおっとりと歩いている。その後ろからは煙が追いかけてきているというのに。

「早く!」

 背中に回り込んで、押す。はっはっはっ、と笑い声を上げられた。

 ほんの数間先の出口までが遠い。

 遠い。

 肩で息をしながら辿り着くと、入れ替わりで飛び込んでいった男たちがいた。刺子袢纏の火消したちだ。

 通りに出るなり、へたり込む。肩で息をする。

 沢山の人の、様々な声が響く。疲れ切った耳はそれでも、混じり合う中から、聞き慣れた声を拾った。

「お結衣!」

 よろよろと振り向く。

相模さがみさん」

 やっと笑えた。

 背の高い彼は真っすぐに駆けてきて、結衣の顔を覗き込んできた。

「その顔、どうした」

「手の者が叩いたのだろう」

 答えたのは、傍に立ちっぱなしになっていた藩主だ。二人でぎょっとして見上げる。

「その者は何処に消えたかな? 賢太郎を追うていったか」

「そうだ! 兄様!」

 結衣はがばっと立ち上がった。

――捜さなきゃ。

 涙が滲んでくる。ごしごしと両手で拭って駆け出そうとすると、ぐいっと腕を引かれた。

「待て、お結衣」

「離して! 兄様を捜さなきゃ! 捕まえなきゃ!」

 火を点けた罪は重い。許されない。

 今も、越後屋の建屋からは黒い煙が流れてくる。

 煙草のそれとは違う、もっと胸を突く臭いのそれが。

「賢太郎はいたか!?」

「見失った!」

「早く行け! ほっかむり姿だ、目立つぞ!」

 怒鳴り声を交わしているのは同じ藩の僚友だった者たちだろう。

 ぼろっと涙が零れる。

 自分の腕を掴んでいる人の顔が歪む。

「殿、ご無事ですか!?」

 ようやく、誰かが藩主に気が付いて駆け寄ってきたらしい。

「おまえも無事なのか……!」

 呻き声に振り向けば、辰之助だ。後ろに奈津もいる。

 辰之助が手を振り上げるのに、身を竦める。そこをぐいっと引き寄せられた。

 結衣を、己の背中に庇うように踏み出たのは相模だ。

 かくん、と結衣の膝から力が抜ける。その斜め前で相模も膝をつく。

 彼はそのまま、藩主に向けて頭を下げた。

「お見逃しください」

 誰よりも高い背を屈めて地に額を擦りつける、その人の腕に縋りついて見上げれば、笑う藩主の顔が見えた。

 ふくよかな頬を揺らし、目元にいくつも皺を寄せていて。

 愉しそうだ、と瞬く。

「土井様」

 顔を伏せたまま、相模は言葉を継いだ。

「お見逃しください。殿を裏切った男の血縁ではございますが、もう二度と近寄らせませぬ故、どうぞ」

「ふざけるな!」

 藩主の横に立った辰之助が声を上げる。

「殿、信じてはなりませぬ。この男、今でこそ口入屋などを致しておりますが、相州嘉助かすけという名の、札付きの賭場荒らしですぞ!」

 ぴくりと相模の肩が揺れる。結衣はさらに腕に縋りつく。

「賭場、荒らし?」

「イカサマをしたり、脅して賭ける方を変えさせたり。負けた相手の身ぐるみを剥いだり、やりたい放題だったそうじゃないか」

 奈津が、ひっと息を吸って一歩後ずさる。辰之助は叫ぶ。

「咎人の戯言を信じるのですか、殿!」

 ほう、と呟いた藩主は相模から辰之助に視線を動かした。

「おまえが、博打の罪をあげつらうのか?」

「は……」

 辰之助が一歩退いて、藩主は口元だけで笑った。

「気付いておらぬと思っていたか。わしの口から言わせるか? それとも――そうだな、この口入屋も知っておろうよ」

 すいっと視線が辰之助から相模へ、そして奈津に動いた。

「わたし?」

 彼女はもう一歩下がる。

 ぎゅっと、結衣は相模の腕に爪を立てた。

「勝手ながら、申し上げますれば」

 と、僅かに体を起こし、彼は薄い唇の端を上げる。

「待て、黙れ!」

 辰之助が叫ぶと、彼は喉を鳴らした。

「お互い様だと言ったよなぁ?」

 ぽつんと呟いてから、彼は真っ直ぐに藩主に向き直る。

「近野様はこの春、向島の板前、茂兵衛もへえと賭けを致しました。その娘、奈津を手に入れんがために。横恋慕が過ぎて、真正面からでは口説けませんでした故に。ところがどこで目算が狂ったか、茂兵衛は娘を売りに出し、それを手前が引き取りました次第で」

 うん、と藩主は頷く。

「榮屋がどこぞから目を付けられているのは、気が付いておりました。手前どもの旦那の絡みかと最初は考えておりましたが、それが実は、近野様が奈津を手にする隙を狙っているものと思いつきまして」

 す、と息を吸って相模はまた頭を下げる。

「裏切り者を捜す土井様のお手とは知らず、大変失礼を致しました」

「それは良いのだ。いや、なかなか手強かったぞ。千住榮屋、どこかで聞いたようなと思っていたが、先頃ようやく知った。おぬしたちは筒井の手の裡か」

 結衣は瞬く。藩主は笑い続けている。

「町奉行が、捕らえた無宿者たちが再び江戸の街で暮らす手助けをするために口入屋を営んでいるという――それが榮屋か」

「恐れながら」

「咎人を蔑むのではなく、ともに生きる道を探そうという――生真面目な水野が知ったら、怒りで倒れるやもしれぬな」

 それはそれ、と彼は辰之助を、集まってきていた他の藩士たちを見回した。

「この楠見くすみの娘に手を出すな。これは今しがた焔からわしの身を庇ってくれた唯一の者ぞ?」

 う、と誰かが唸る。異論あるまい、と藩主は笑った。

「それと、辰之助よ。他にも博打に絡んでいる者はおろう? 今の件は屋敷に戻ってから、さらに話そうではないか」

 ぱん、と扇子を打ち付ける音。籠が出されてくる。

 その横に、視線を冴えさせた越後屋が立っていた。その前に立って、藩主は頷いた。

「越後屋よ。この見舞いは後日使わす。騒がせて済まなかった」

 よいしょ、と彼は籠に乗り込み。もう一度顔を覗かせた。

「嘉助よ。おぬしともまだ話がしたい。良いな」

 そうして、小さな行列は遠くに去っていく。火消したちの声も大分静かになってきた。

 相模はふらっと立ち上がり、ぱたぱた、と着物の膝を叩いた。

「大損だ」

 越後屋がぼやく。

「今日のお代は勘弁してやるよ」

 相模は笑ったが、越後屋は腹に肘を入れてきた。おっと、と相模は避ける。

「建屋をどうやって直そうね」

「人手は任せろ。そこのお代は貰うぞ」

「守銭奴め」

「おまえさんに言われたくないよ」

 ははは、と笑う彼を見上げて。

「相模さん」

 結衣はぎゅっと腕に縋りついた。その反対の腕も伸びてきて、抱きすくめられた。

「帰ったらいないから、肝が冷えたぜ。知らせに駆けてくる奴が居なかったら、町中駆け回るところだった。心配させやがって」

「ごめんなさい」

 それより、と彼はさらに腕に力を込めた。

「早く榮屋に戻れ」

 続けて、耳元で囁かれた言葉に、眼を見開く。

「嘘だ」

 堪らず言ってから。この人が自分に嘘を吐くわけがない、と首を振る。

「お結衣」

 もう一度だけ抱きしめて。相模は真っ直ぐに立った。

寛二かんじ! お結衣を連れていけ!」

「へいっ!」

 人混みを割って飛び出してきたのは蛇男だ。

 ひょいっと結衣を肩に担ぎ上げて、走り出した。

「舌噛むなよ、お結衣ちゃん! 急ぐからな!」

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