その四 局で対峙

「――捜さなきゃ……」

 呆然と和歌を見詰めていた紀乃は、自分の呟きに我に返った。

「捜すって、何処を?」常磐が泣き言を叫ぶ。「釣り殿も他の対の屋も、もしやと思って蔵人所くろうどところ大盤所だいばんどころも見に行ったのよ!」

 それだけ捜してもいないとなると、御邸の外だ。だけど、あの宮が一人で外出できるとは思えない。

 誰か、手引きした者がいる。

 宮を怪しまれないように連れ出すには、牛車とそれに付随する従者が必要なはず。

 紀乃はキッと顔を上げて常磐のよこを擦り抜けると、足早に二つ横の局のまえに立ち、挨拶もなしに枢戸くるるどを引き開けた。



 室の中央に鈴鹿がこちらに向いて座り、膝のうえに紀乃が見たこともないような金、銀、紅の豪奢な絵巻物を開いている。源氏物語絵巻、『桐壺』の帖だ。

 しかし、見張りに付けておいた小夜の姿がない。

「小夜は何処どこに行ったの?」

 紀乃は堅い声で問いかけた。それでも、鈴鹿は顔を上げようともしない。

「宮姫さまを何処にやったの? 答えなさいっ!」

 紀乃の後ろに付いてきた常磐が、感情もあらわに声を張り上げる。しかし、鈴鹿はうるさそうに眉をしかめると、二人にくるりっと背を向けた。

「昨晩は、わたしの話を聞いてくれもしなかったくせに!」

 鈴鹿の不貞腐れた声。そして、からかうように笑い声を立てる。

「二人がどんなに怒っても、どうせわたしは実家に帰るだけだもん……」

 いきり立った常磐が足音も荒く局に踏み込もうとする。

 紀乃はそれを手で制した。

 ここで鈴鹿に意固地になられ、貝のように口を閉ざされたらそれまでだ。



 内心の焦りを隠して、逆に笑い返す。

「そのようすじゃ、宮からなにも聞いてないのね」

「縁談が進められているのでしょ。それがいや……」ちょっと小首をかしげ、「それではだめだったかな……とにかく結婚できないって」

「その御相手が、誰なのかは聞いたの?」

「それは…教えてくれなかったもの……」

 紀乃は鼻で笑って局に踏み込み、背後に立って鈴鹿を見下ろした。

「帰れる実家があればいいわね」

 鈴鹿が訝しげに顔を向けた。

「宮を東宮の添い寝役にしようと、大皇の宮さまが画策している。

 明日、その評定ひょうじょうが宮中で行われるの」

 紀乃は鈴鹿の目をグッと睨みつけた。

「今夜、宮の身に何かあってごらん。あんたの実家ぐらい吹き飛ぶわよ!」



 ゆっくりとその意味を飲み下すような間に、鈴鹿の身体に震えが湧きおこった。

「わ、わたしは関係ないっ!」

 戦慄わななく唇から、震えた声が漏れた。

「あんたも連れてってやるから、従者を貸せと言われて、貸しただけ。わたしは何もしてないわ」

 鈴鹿の膝から絵巻物が転がり落ち、床のうえに極彩色の錦絵にしきえをひろげるが、それも目に入ったようすもなく、紀乃の袿の裾にすがりついた。

「小夜が全部仕組んだこと。わたしは誘われただけなのに―――」

 零れ落ちる涙を拭おうともせず、紀乃を見上げる。

「昨日、話そうとしたのに、紀乃さんが聞いてくれないから……」

 もう少しだけ、冷静に話をきいていれば―――後悔の念が頭を掠めたが、紀乃は頭を強く振って打ち消した。

 反省なら、後でゆっくりすればいい。今は宮を捜し出すことだ。

「宮を何処にやったの?」

「小夜が尼寺に連れて行くって……」

「何処の尼寺?」

 鈴鹿が激しく頭を振った。「そんなこと、わからない――上京したばかりで、わたしたち尼寺が何処にあるかなんて知らないもの」

「それじゃあ、どうやって――」

「――宮姫さまが!」

 紀乃の言葉を打ち消すように、鈴鹿が言い募った。

「外歩きしたこともない宮が知るわけないでしょ!」

「だって、ほんとうだもん……」鈴鹿が泣きじゃくる。「紀乃さんに教えてもらったからって」

 わたしに……。

 紀乃は眉根を寄せて考える。そして、はたと顔を上げた。

 大皇の宮に朝っぱら早々に呼び出されたときだ!

 二人で尼寺に入門しようと言い出した宮を誤魔化すために、確かに言った。



「大照寺よ――――――!」

 常磐に告げるが早いか、紀乃は枢戸を抜けて脱兎のごとく走り出す。

 背後からつづく足音に、「常磐さんは、牛車の用意をっ」と指示を出し、そのまま透き渡を駆け抜けた。

 向かったさきは、東対の屋だ。

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