その壱拾、 わたしが守るっ!
院の御所には、横手の東門から入った。
藤の宮がいることを考えれば、正規の
下働きたちが使う勝手口から中に入り、手近な者に笠を預けて汚れた足を洗っていると、声を掛けてきたのは
「あら、誰かと思ったら紀乃じゃない」
そして、その隣の藤の宮に気付くと、慌てて気取り声を作る。
「宮姫さままで……どうしたの?」
その問いには答えず、紀乃は親友を下から睨む。
「あんた、隠し事があるでしょう。わたしのことを、よく責められたわね!」
親友は目をシロクロさせていたが、すぐに思い至ったらしい。バツが悪そうに、目を伏せた。
「わたしが宮に文の一つも来ないって悩んでたら、きっと大皇の宮さまがなんとかしてくれるからって
―――あんたもグルだったんじゃない!」
紀乃はため息と一緒に吐き出す。
「これも宮と紀乃のためだとか言われて、説得されたんでしょ」
彼女が驚きに目を見開く。
「よくわかったわね……」
そりゃ、わかるに決まっている。自分のことよりも、
「―――だからって、怒ってるのに変わりないからね」
「ごめん……」
頭を下げる親友の横で、紀乃は藤の宮の手を取って上がり込む。
「それで、大皇の宮さまと絵式部は?」
「朝から人払いして、北の対の屋にこもってるけど……」
スタスタと歩き出す紀乃の背に、慌てたように付け足す。
「ちょっと! 二人とも虫の居所が悪いわよ」
「それはよかった……」紀乃は振り向きもせずに、言い残す。「わたしも虫の居所が悪いの」
勝手知ったる院の御所だ。案内がなくても迷うことなどない。
高欄が巡らされた簀の子縁を、紀乃は藤の宮を従え、怒りに任せて足音も殺さずに歩みを進めた。
打ち橋を渡れば、そこが北の対の屋だ。
建物の横手から簀の子縁を回り込み、妻戸へ続く回廊に出る。すると、足音を聞きつけたのだろう。
「―――誰です?」
紀乃はかまわず開け放たれた妻戸の端まで進み、その場で膝を着いた。
「紀乃にございます。大皇の宮さまにお伺いしたい儀があり、参りました」
しばしの間は、突然にあらわれた紀乃に驚いたもの。そして、それに続く小声の話し声は、紀乃に不穏なもの感じて止めに掛かっているのだろう。しかし、大皇の宮の物言いはきっぱりとしている。
「いつまでも隠しておけるわけでもなし、通しなさい」
それでも、二言、三言と説得を続けていたが、やがて響いた絵式部の声はため息混じりだ。
「入りなさい……」
紀乃は躊躇うことなく、対の屋に足を踏み入れた。
すべての
奥の一段高くなった上座の中央に
紀乃は真っすぐに歩み寄ると、大皇の宮のまえに座を取った。そして、藤の宮の座を作ろうと腰を浮かしかけた絵式部を手で制止、隣に座らせる。
二人で大皇の宮に、向かい合う位置だ。
何をしに来たのか知っているのなら、大皇の宮に前置きは不要。
紀乃はいつもなら身が
「本日、宮姫さまの添い寝役の大任、耳に致しました。誠のことなのでしょうか?」
大皇の宮の眼光に揺るぎはない。
「わたくしは、そうなればと思うとります」
この含みのある言い方は、まだ決定ではないということだ。
宮中では
虫の居所が悪いのも、きっとそのせいだ
「宮を……」
どうせ機嫌が悪いのなら、構いやしない。
「宮姫さまをお引取りになられたのも、初めから添い寝役にされるためだったのですか?」
大皇の宮の目がすぅーと細くなり、扇を持つ手が白くなるほど握り締められた。そのまま投げつけられても、おかしくないほどの怒り方だ。しかし、唇から漏れた声は、感情を押し殺した低い声。
「―――そう思いたければ、思うがよろしい」
大皇の宮の視線に、紀乃はふと考えさせられる。
公平に見ても、大皇の宮はただ優しいだけではなく、至らぬところは意見して改めさせる厳しい一面もあった。自分の思い通りにしたいのなら、ただ甘やかして
「愚かなことをお聞きしました。御許しください」
紀乃は素直に頭を下げた。しかし、疑念は残る。大皇の宮ほどの人が思い及ばずはずがないのだ。
紀乃は大きく息を吐くと、再び大皇の宮の目を見詰める。
「後見役は右大臣さまと御見受けいたしますが?」
「―――いかにも」
大皇の宮が深く頷く。
それを見て、それまで黙っていた絵式部が苛ただしげに声を上げた。
「それがどうしたって言うのです。宮姫さまにとっては、このうえない御話。何も問題は無いでしょ」
「大有りですっ!」
紀乃は声を張り上げて言い返す。
そもそも帝とは、絶対的な権力者ではない。利益を等しくする、政治集団の象徴的存在と言ったほうがいいだろう。
その集団をまとめる絆こそが、婚姻による縁戚関係なのだ。
だから、権力が一人の者に集中する時代の帝の女御は、著しく少数になる。多く居ても後継者争いを生むだけで、何の利益も生まないからだ。
しかし、右大臣家が以前の勢力を失った今となっては、東宮に求められるのは多くの女御を持つこと。
宮が添い寝役として入内するからには、次に求められるのは最大の敵対勢力を誇る左大臣家の姫だろう。そして、その次は勢力の拮抗を保つためにも、右大臣家そのものからの姫―――。
「
紀乃はキッと視線を絵式部に向けて黙らせる。
「右大臣さまが二人の女御の後見役となったとき、どちらをより重視するかは火を見るよりも明らか。
宮中で後見者を失くすことの意味なら、わかり過ぎるほどわかっています。
宮姫さまは始終、右大臣さまの顔色を伺い、その意に背かぬように小さくなって暮らさなければならない。
それではまるで、右大臣家の
最悪な事態は、宮が望まれるがままに、誰よりも早く
その子は右大臣家の後押しで、次期の東宮か、あるいはもう東宮の地位に就いているかもしれない。しかし、後から入内した朱鷺姫が男の子を産んだとき、その地位を譲れと命じられたら、宮は
可愛いはずの我が子さえ、宮は守れないのだ。
こんな簡単なこと、大皇の宮ほどの人がわからないはずがない。それなのに、なぜ宮を添い寝役にしようとするのだ。
「あなたの言いたいことは、それだけですか?」
それ以上、何がある。
紀乃は顔をまえに戻し、頷いた。
「―――藤の宮」大皇の宮が微かに顔を傾け、視線を移す。「あなたはどう思っているのですか?」
「わたくしは―――」
それまで思い詰めた顔を下に向け、黙していた藤の宮がはっとして顔を上げた。しかし、その顔は力なく、徐々に膝のうえの扇に落ちる。
「わたくしでは、東宮のお力にはなれません……」
「――そうですか」
大皇の宮が静かに目を閉じた。しかし、次に開かれたとき、その瞳は元の力を宿していた。
「あなたが何を言おうと、わたくしの意に変わりはありません。
右大臣には、わたくしからよく話しておきましょう。しかれど、朱鷺姫のことは何ら約束などできません。それが政治というものです」
紀乃は込み上げる怒りに、
話したくらいで、どうにかなる問題じゃない。そんな口約束なんて、信用できるもんか!
不満そうな紀乃に、大皇の宮が言葉を継ぐ。「それほどまでに心配なら、あなたが付いて行けばいい」
紀乃の頭に、幼きときの嫌な思い出が次々と蘇る。
宮中の片隅から、ただ黙って通り過ぎる人々を見上げていた、毎日。
もしもぶつかることがあっても、身体を縮こませて謝罪する言葉も終わらぬうちに、誰もが顔を歪めて歩み去った。
向こうにとっては、忘れ去られてゆく宮家に仕える小娘など、構うほどの価値もない。道端の小石に
所詮、宮中で物を言うのは、権力と財力。
そのことを、幼い目にまざまざと見せ付けられた。
今から思えば、書物の世界に逃げ込むようになったのも、あの頃からだ。
永遠普遍に変わらぬ美しい世界だけに目を向け、冷たく醜い現実から目を背けるために。
「わたしはあんな魔物の巣窟、まっぴら御免です。二度と参りません」
「それでは仕方ありませんね」
大皇の宮は素っ気無く話しを締め括ると、絵式部に顔を向けた。
「
「
絵式部が
それだけで、終わりっ!
怒りにまかせて来たものの、結局は何も変わらない。それで、いいのか……。
宮の未来は、宮の幸せはどうなる。
前に目を向ければ、大皇の宮は中庭に目を向け、一心に何事かに思いを馳せているようす。絵式部にいたっては、傍らの文を集め、帰り支度の真最中だ。
絵式部は怖い、大皇の宮はもっと怖い。
これまでは怒られることのないよう、目に留まることのないよう、うまく立ち回ってきたつもりだ。それでも!
紀乃は目をギュッと閉じると、息を深く吸って声を張り上げた。
「わたしは反対です!」
「それが、どうしたって言うのです?」
大皇の宮の冷静な声に、頭のどこかで誰かが叫ぶ。
右大臣家に、ましてや大皇の宮に逆らうなんて、バカなことだと……そんなこと、どうだっていい!
「必ずや、邪魔立て致してみせます」
しばし、時間が止まった。
「何てことを―――!」
絵式部がまっさきに呟き、青くなって絶句する。次いで、徐々に顔を赤くして怒鳴りつけた。
「いますぐに撤回して、謝罪しなさい!」
「―――謝りません!」紀乃が怒鳴り返す。「御内侍さま亡き今となっては、誰も宮を守ろうとはしないでしょう。されならば、わたしが宮を守ります」
さらに怒鳴ろうと腰を浮かしかけた絵式部を、大皇の宮が手で制した。そして、紀乃をじっと見詰め、静かに言い放つ。
「やってごらんなさい」
「宮さままで、何を―――」
大皇の宮が眉間にしわを寄せて、絵式部を睨む。
「一介の女房に邪魔立てされるような計画など、無理に押し進めても無駄なこと。あなたは、ただ黙って見ていればよろしい。手出しは無用です」
「ですが、この娘は―――」
「この娘は、藤の宮に無体な真似事などいたしません」
「それはそうでしょうが……」
絵式部を渋々と黙り込ませると、大皇の宮が紀乃に目を向けた。
「やりたいことを、やってごらんなさい。ただし、これだけは覚えておくように」
そして、紀乃の目を真っ直ぐに覗き込む。
「大空を優雅に舞うかのように見える大鷹も、その風の行方には逆らえぬ。
―――いいですね」
紀乃はその目をじっと見詰め返した。
ふんっ、わたしと宮は名も無き小鳥でいい。それで、充分だ。
* * * * * *
院の御所からの帰宅は、絵式部用に仕立てられていた院の
北の対の屋を出てからというもの、二人は言葉少なだ。
得に、藤の宮の落ち込みは激しい。
今にも泣きだしそうな顔を隠すようにうつむけ、息をすることさえ忘れているみたいだ。
紀乃は掛けるべき言葉を見つけられずにいた。
北の対の屋ではああは言ったものの、大皇の宮に比べれば、自分の力が微々たる物だということぐらい、自分が誰よりもよく知っている。そのことを思うと、安易な言葉など掛けられない。
紀乃がそっと手を握ると、藤の宮が僅かに身体を預けてくる。二人は言葉も無く、寄り添って絵式部を待った。
やがて牛車に乗り込んできた絵式部は、疲労感を漂わせた憂い顔だった。
紀乃が座を譲ろうとするとそれを手で制し、その場に座を取る。席次など、どうでもいいといった感じだ。
短くため息を吐くとそれが合図であるかのように、牛車が滑るように動き出した。
御門を抜けて六条大路から朱雀大通りへ。牛車は一路、三条邸を目指した。
絵式部がふと顔を上げ、二人を見て眉を
僅かに開きかけた口を、紀乃が気勢を制した。
「大皇の宮さまの御許可は頂いたはずです。自由にしていいと」
絵式部の眉間に深い
「宮さまの御言い付けですから、そのことに関しては今後一切、口出しは致しません。しかし―――」言葉を切り、視線を右に左に動かす。「二人とも、何やら珍妙ないでたち。その装束のわけを納得がいくよう、説明してくれるのでしょうね」
まずぅ……。
紀乃のこめかみを冷や汗が流れ落ちる。
余りのことに忘れていたが、外出は絵式部に内緒だった。
うまい言い訳を探しながら、紀乃が口を開きかける。その気勢を、今度は絵式部か遮った。
「そう言えば、今日は西の市が立つ日。まさかとは思いますが、鬼の居ぬ間に市見物に繰り出したりはしていませんね」
ギクリッと、紀乃の肩が上がる。
そこまで見透かされているとは!
それでも、うまく言い逃れようと口をパクパクさせていると、横手から藤の宮の声が。
「紀乃は悪くないの。わたくしが無理にお願いしたのよ」
宮らしい優しい心使いだが、これでは自白したのと同じこと……。
絵式部の眉のはしがピンッと逆立った。
「二人とも、その場に居ずまいを正しなさい!」
牛車はまだ道半ばも過ぎてはいない。
絵式部の御説教は延々と続いた。三条邸に帰り着くころには、藤の宮はベソを掻きながら「もう二度としない」と約束させられ、その横で謝り続けた紀乃の額には、クッキリと牛車の床板の跡が付いていた。
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