第三章 かつ見れど うとましくなり 朧月 見えざる里を つくらばと思う

 三、かつ見れど

     うとましくなり

           朧月

          見えざる里を

            つくらばと思う



 何も知らない三条邸は、平和そのものだ。

 紀乃は帰り着くなり、文机に向った。

 短く一文だけ、ご相談があります、としたためて下働きの小僧に小銭を握らせ、使いに出す。

 頭のいい頭中将とうのちゅうじょうのことだから、これだけでもさっするだろう。政治の中枢に携わる頭中将が、宮の添い寝役を知らなかったはずがないのだから。

 対の屋に戻り、沈み込んで静かな藤の宮を着替えさせていると、使いの小僧は思いのほか、早く帰ってきた。

 その手には、えだに破いた薄紙が結ばれた文が握られている。

 開いてみれば、薄墨でただ一言。ただちに、とある。

 こんなときでも、思慮深い心使いだ。

 紀乃は唇の端に、微かな笑みを零した。

 頭中将の家が、新しい枝や紙を用意できないわけがない。枯れ枝も薄紙も、あなたのために手近にあるもので、取り急ぎ返信をしたためましたという意味だ。

 ふと視線をやれば、物思いに沈み込んでいる藤の宮は、御簾みすのなかでおとなしい。このぶんなら、二人組みだけでも大丈夫だろう。

 紀乃はそっと対の屋を出た。



 頭中将とはじかに対面したい。

 今さら頭中将を責める気などさらさらない。仕事上で知り得た秘密をぺらぺら話すようでは、責任ある役職など務まらないだろうから。

 ただことは、宮中の中だ。一介の女房ではあまりにも遠く、手の出しようがない。しかし、頭中将ならば宮中にも詳しく、上層部にも顔の繋がりがある。

 何としても協力を得たい。そのためならば……。

 紀乃は長い簀の子縁を足早に進み、自分の局へと急いだ。すると、ちょうど局から出てくる常磐ときわと行き逢った。

 常磐は紀乃の額を見て、ニヤリと笑う。

 絵式部と一緒に帰ってきたことは、すでに知っているということだ。

 流石に、耳が早い。しかし、それ以上ではないらしい。

 紀乃は照れ隠しに額をさすりながら、あえて黙っていると、常磐がその手を取って額を覗き込む。

「もう大丈夫みたいよ」そして、開いた手で額をパチリと叩く。「自業自得ってとこね」

 ほんとうは朱鷺姫ときひめと親しかったことも、バレてしまえばすっかり遠慮なしだ。

 紀乃は額を押さえて、距離を取る。

「もう勘弁してよ。さんざん怒られたのだから……」

「当たり前でしょ」常磐が腹を抱えるように笑う。「でも、安心しなさいよ。対の屋は静かなものだったから」

 常磐は目の端に浮いた涙を、袖で拭きながら。

「あまりにも静かだったから対の屋を覗いてみたら、小夜さよったら座ったままで居眠りしているのだから。

 御簾の中までは見なかったけど、あの分だと鈴鹿すずかは大の字でお昼寝中だったのでしょ。しーんと静まり返っていたもの」

「そう願うわよ」

 紀乃は唇を尖らせ、渋い顔を作る。

「これ以上、何かあったら絵式部に殺されちゃうわ」

「だから、やめなさいって言ったでしょ」

 常磐が再び爆笑に包まれた。

 装束しょうぞくを用意してもらったときのことを言っているのだが、それならもっと強く止めてくれればいいのに……。

 紀乃は唇を尖らせる。だけど、お願い事をするなら常磐の機嫌がいいうちだ。

 ポツリ、ポツリと、紀乃は本題を始める。

「実はさ、少しの間だけでも局を使いたいの」

上目使いに、常磐を見る。

「ちょっと会いたい人がいるのだけれど……」

 常磐が目を細め、唇の端に笑みを浮かべた。

「へぇ~、紀乃さんに―――」

 完全に誤解だが、説明するのも面倒だ。紀乃は赤くなった顔を殊勝気にうつむかせた。

「いいわよ。何だったら、一晩中でも使っていい。寝るだけなら、泊めてくれる友達もいるから」あっさり了解すると、紀乃の顔に指を突きつける。「そのかわり、一つ貸しだからね」

 何を請求されるのだか後が怖いが、ひとまずは安心だ。

 紀乃は胸をホッと撫で下ろし、常磐の背中を見送った。

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