その二 ふたりの密会

 ほどなくして訪れた頭中将を、紀乃は西四足門にしよんそくもんまで迎えに出る。

 牛車は門をいくらか通り過ぎた所に停められ、頭中将はすでに牛車から降りて四角い包みを小脇に立っていた。淡青の布衣ほうい二藍にあい指貫さしぬきは、さきほどの狩衣姿かりぎぬとは違う。

 おそそらく東宮を宮中に送るために直衣のうしに着替えたものを、帰宅後、また狩衣に着替えて出掛けて来てくれたのだ。

 たかが女房の願い事にそこまでして頂いたのに、つぼねに通さなければならないことが心苦しい。

 紀乃は視線をらし、恐縮して一礼した。事情を話し、目立たぬよう庭先から案内する。

 寝殿しんでんの正面を東西に延びた屋根のある簀の子縁が透渡殿すきわたどの。建物の裏側に、平行に延びる長い簀の子縁が透廊すきろう

 この北側に並ぶ個室が局だ。枢戸くるるとを引き開ければ、つぼと呼ばれる箱庭が見渡せて眺めはいいのだが、その狭さはいかんともしがたい。



 紀乃は頭中将を招き入れると、へんな誤解を受けぬよう枢戸を開け放ち、目線だけを遮るように几帳きちょうを置いた。

 頭中将は「局に入るのは、初めてです」と言いながら、ぐるりと局を見渡して並ぶように置かれた文机の片方を見て目を細めた。

 どちらが紀乃の文机かは、一目瞭然。

 大半の時間を対の屋で過ごす紀乃にとって、ただ寝るだけの局を女らしく装飾する趣味などない。この局で紀乃らしさを見せる唯一のものが、文机とその横に所狭しと並べられた書籍の数々だ。

 そのほとんどが自分で書写したり、譲ってもらったりした物だが、紙自体が高価なことを考えれば、それだけでもたいしたものなのだが……。

 紀乃は頬を染め、頭中将に局の中央に座を勧めると、その背に文机を隠すように座を取った。並べられた書籍の半分は、史記しき長恨歌ちょうこんかといった漢文体のものなのだ。あまりエバッて見せるようなものでもない。


 

 傍らに荷を置いて優雅に座を取った頭中将が、あえて書籍から目を逸らして紀乃に笑い掛けた。

「徒歩で院に向われたそうですね。あなたのことだから、大丈夫だとは思っていたのですが―――」含み笑いを漏らし、口の端をあげた。「難波参議なにわのさんぎの悔しがる顔が目に浮かびます」

「たまたまにございます……」紀乃は視線を避けるように、顔をうつむかせる。

「―――いいえ、そんなことはありません」そして、真顔に戻って紀乃を見詰めた。「わたしは従者たちに、事あるときには迷わず抜けと命じています。わたしが御守りする御方はいずれも、己の命に変えてでも守らねばならぬ方々。それを、あなたは大事に至ることなく終えられた。たいしたものです」

「ほんとうにたまたま、大皇の宮さまに御会いする御用ができただけです」

 紀乃の言葉の意味を噛み締めるような間を置き、頭中将が大きく息を吐いた。

「難波参議にお聞きしたのですね。あなたには謝罪せねば……」

「頭中将さまを恨んだりはしておりません」紀乃は顔を上げ、微笑む。「秘密を守ることも、お仕事の一つでしょうから」

「そう言っていただけると助かります」頭中将が微かに口元をほころばせた。

 紀乃はわずかに小首をかたむけ、頭中将を見詰め返す。

「あの難波参議とは、どういう方なのですか?」

 頭中将の顔からすうっと笑みが消えた。

「先の左大臣のときから仕える、左大臣派の重鎮です」そして、口の端を皮肉気に上げる。

「口の悪いやからは、左大臣の使いっぱしりと呼んでいますよ。

 御本人に成り代わり、かなり悪どい事までして成り上がった方です。巧妙かつ狡猾こうかつで、なかなか尻尾しっぽを御見せにならない。

 先程の市の出来事にしたって、東宮が宮中を抜け出された事を知っていたのは、わたしと従者たちだけです。況してや宮姫さまをお誘いしたのは、その場の東宮の気紛れ。

 されど、なぜか先回りして待ち伏せしておられた」

「それでは、あの市の野伏のぶせりのような二人も?」

「わたしは偶然だとは思いません。おそらくは……」

 言い淀み、口を閉ざした頭中将に変わり、紀乃が平坦な声で継ぎ足した。

「―――宮が狙いですね」

 いくら高官の参議とはいえ、東宮に弓を引けば国家に反逆する大罪。それならば、目的は宮だったと考えたほうが自然だ。

 頭中将が貴族的な細面の顎を引いて肯定を示す。「さらに警備を強化しましょう。わたしの配下の者たちも派遣します」

 紀乃は驚きに、目を見開いた。

 すると三条邸のこの厳重な警備は、宮、ただ一人を守るためだったの!

 まだそうとも決まらぬうちに動き出すとは、まさに宮中なんて権力に取り憑かれた魔物の集団。そんなところに、宮を行かせはしない。



「わたしは宮の添い寝役に反対です」

 紀乃はまっすぐに頭中将を見詰める。

「宮を助けてはいただけませんか?」

 すべてを説明しなくとも、頭中将にはわかったようだ。

 頭中将の眉間に、深い縦皺たてじわが刻まれた。

「わたしに、あなたの手助けをしろと?」

 紀乃は無言で頷き、慌てて早口で付け足した。

「大皇の宮さまは、わたしの好きにしろとのお言葉です。決して頭中将さまに御迷惑が掛からぬよう、よくよく注意いたします。宮が自由になった暁には―――」

 躊躇ためらいに言葉を切る紀乃を、頭中将が小首を傾けて先を促した。

「そのときでも、まだわたしに価値があると御思いでしたら、頭中将さまの御言葉のままに御仕えいたします……」

 言葉がかすれ、局のなかに消えていく。



「宮姫さまの下を離れるのですか?」

「わたしも、それほど甘くはありません」

 紀乃はうつむき、小さく頭を振った。

「そのときには、わたしはクビでしょうから自由な身です」

「あなたって人は!」

 頭中将が言葉に重い吐息を滲ませる。壷庭の空に目をそらし、しばしの間を置いた。

「たいへんに魅力的な御提案です」

 真顔を前に戻し、紀乃の目をじっと覗き込んだ。

「―――しかれど、わたしも宮姫さまを推す者たちの一人なのです」

 紀乃は息を呑み、唇を噛んだ。

 頭中将ならば力になってくれるだろうと期待していただけに、その落胆は大きい。しかし、ここで簡単に断られてしまったら、宮を救う手立ては限りなく狭いものになる。局に目を彷徨わせ、説得の言葉を探す。

「宮ではなく、他の姫でも。中には自ら望む姫だって―――」

「―――わたしを説得しようとしても、無駄なことです」

 頭中将が紀乃の言葉を遮った。

「今の宮中のりようは、右大臣派と左大臣派が一つの船に相乗りしているようなもの。僅かに右大臣派が勝っているだけに過ぎません。

 それは高官に至ればいたるほど、顕著けんちょとなります。太政官だじょうかんにいたっては、互角と言ってもいいでしょう。

 近い将来、東宮は難しい政権運営を迫られる。

 宮姫さまは左右の大臣家の血を引きながらも、両家から最も遠く、影響力の少ない姫です。しかも、次いで御入内されるはずのどの姫たちも、その御血筋を無視することなどできない。

 ただそこにいるだけで、他の女御の抑止よくしとなる御方なのです。

 これは、宮姫さまだからこそです。あなたが宮姫さまの幸を願うように、わたしは東宮の御為に宮姫さまを求めています」

 紀乃は膝のうえの扇に視線を落とした。

 人にはそれぞれに立ち位地があり、それぞれの思いで物を見る。すぐ傍に居ても心に映る景色は違うものなら、頭中将は真向かいからこちらを眺めているのだ。意を異にしても仕方の無いこと。



「わたしたちは利害をたがえる、相反する仲となったようですね」

 頭中将の声に、紀乃は無言で頷いて肩を落とした。その紀乃を取り成すように、頭中将が声を掛ける。

「それも、あと三日のこと。その後はまたこうして語り合えるものと信じております」

 訝しげに紀乃が視線を上げると、頭中将はフッと零した笑みを壷庭に向けた。

「明後日、大皇の宮さまが宮中に御入りになられます。

 その翌日、朝議が終了後に承香殿にて歓迎の歌会が開かれる。出席者は、左右の両大臣と内大臣、大納言のお二人、中納言の四方の九名です。

 もう何が話し合われるのか、お解かりでしょう」

 頭中将が言葉を一度切り、ゆっくりと顔を紀乃に戻した。

「大概において朝議にかけられる議案は、帝に奏上そうじょうされるまえに決まっているものです。今回もその例に漏れることはありません。

 あなたの気になるのは結果でしょうが、両派閥ともその締め付けは厳しく、造反者ぞうはんしゃはないでしょぅ。おそらくは四対四の同数。最後の一人が内大臣ないだいじんとなるのでしょうが……」

 そして、自嘲気味の笑みを見せた。

「わたしの伯父君は、政界の御意見番を自任している方でしてね。

 この場も双方の意を聞き、双方に譲歩を促すのでしょうが、それでも票数が互角とならば、最後に重視するのは母親たる承香殿さまの御意思。

 つまりは、同数とは我われの勝利となるのです」

 しばしの間を取ったのち、頭中将が静かに語り掛けた。

「―――刻限もなし、上層部へのツテもなし、あなたにとっては酷なことでしょうが、わたしは必ずや宮中であなたに御会いできると思っております。それが、大皇の宮さまのお望みでもあるように」

「大皇の宮さまはわたしなんかに……」

 紀乃は目の端を歪め、視線を落とした。直に対面して抗議したとき、大皇の宮は執拗しつように説得することなく、あっさりと引き下がった。それが御気持ちの表れなのだ。

 そんな紀乃を、頭中将は真摯しんしな表情でじっと見詰めた。

「あなたは、なぜ添い寝役の大任が宮姫さまやあなたに隠されていたのかを、御考えになられましたか?」

 紀乃は眉根を寄せて小首を傾ける。

 根回しのために表向きは隠しておきたかったのだろうが、宮にまで隠しとく必要も無い。いっそのこと理由を告げて身辺から守ってしまえば、これだけの随身ずいじんを使って回りくどく警護する必要も無くなるだろう。

「それでは、こう問い直しましょうか」頭中将はふっと浮かべた笑みを扇で隠した。

「ある日、突然に添い寝役の大任が宮姫さまに下る。そのとき、あなたはそれでも宮中は嫌だのと言っておられましたか?」

 はっと視線を上げ、紀乃は目を見開いた。

 きっと大皇の宮に詰め寄り、抗議の声を上げたことだろう。しかし、決まってしまった以上は、宮を一人では行かせられずに粛々しゅくしゅくと従ったはずだ。

「わたしはたかが女房のために、何て大袈裟なことよと笑ったものです。しかし、それもあなたという人を知るまでのこと。

 あなたの才は宮中でこそ生かされる。

 先の御高名なお二人―――清少納言殿や紫式部殿に並び称されるか、それ以上にもなれるやもしれない。大皇の宮さまもそうお考えになられたのでしょう。

 宮姫さまの下に、ぜひ御出仕ごしゅっしすべきです」

 お二人に並び称されるとは買い被りに過ぎ、笑ってしまう。しかし……。

 紀乃は静かに息を吐き、目を閉じた。

 大皇の宮の真意は計り知れない。素直に聞いても、教えてはくれないだろう。そういうお方だもの。

 でも女童めわらわのころから、特段に目を掛けてくれたのは事実だ。

 一方で、頭中将はわかりやすい。

 御立場上、協力することはできないのだろうが、日頃からにしても饒舌じょうぜつに過ぎる。宮中の情勢や、ほんとうなら秘匿ひとくであろう添い寝役の評定の日時まで。

 今は、その御気持ちだけでも嬉しい。さすれば……。



「何と言われようとも、宮の幸を踏み台にすることはありません」

 紀乃は目を見開き、頭中将を見詰める。憂いの無い、さっぱりとした表情だ。

「今は、できることをやるだけです」

 口の端に浮かべた笑みを、頭中将は扇の影に隠した。

「どうやら、おいとましたほうがよさそうですね」そして、立ち上がろうとした紀乃を手で制す。「案内は無用です。今のあなたにとっては、一時ひとときでも惜しいでしょうから」

 頭中将がスクッと立ち上がり、枢戸に向けて静かに歩みを進める。しかし、ふと見れば、傍らに置かれた包みが残されたままだ。

 紀乃は慌てて包みを手に取り、その背を追おうとすると――

「それは、あなたにとお持ちした品です」

 頭中将が枢戸の傍らに足を止め、振り返る。

 紀乃が包みを開けてみれば、懐風藻かいふうそう李太白詩集りたいはくししゅう杜工部集とこうぶしゅうだ。

「あの市は、庶民が生活の品やちょっとした贅沢品をやり取りする場です。あなたが探していたような品は、どこを探してもないでしょう」

 頭中将が悪戯いたずらっぽい笑みを零す。

「あれは、あなたを連れ出すための方便。その御詫びの品です」

 さわやかな笑みを残して、頭中将が姿を消す。

 紀乃は微かな笑みを口元に浮かべ、その遠ざかる足音を聞いた。

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