その弐 残暑厳しい、ある日

 あれから、何年の月日が経ったのだろう。

 暑さも峠を越したはずなのに、残暑厳しい文月のある日、突然に彼女から文が届けられた。

 冗談好きな彼女のこと、これも文月と文を掛けた冗談なのかと疑いもしたが、彼女は夫を亡くして半年にもならない。まだまだ忙しい身で、長らく不義理をつづけている友に冗談を送りつけるほど、彼女もヒマではないだろう。

 絵式部は局にひとりこもり、複雑な想いで文箱を見詰めた。

 本来なら、もう友人などと軽々しく呼んではならない人だ。

 彼女は主である大皇の宮さまの異母妹であり、さきの帝の弟宮にして、左大臣家の血を引くながみや殿に嫁した人。そのおりの騒動は、いまも頭に生々しく鮮明に残っている。

 大反対の右大臣宗家。

 それでも、彼女は強情にその意を変えなかった。

 すでに右大臣さまは見放している。最後まで言葉を尽くし、手を尽くし、説得されつづけているのは麗景殿れいけいでん女御にょうごさま、いまの大皇の宮さま唯一人となっていた。

 その説得も、とうとう最後のときだ。

「この宮中で結んだ可笑おかしなえにし。あなたがその意を変えぬとあれば、それもこのときまで。これ以降は姉でもなければ、妹でもなし。それでも、あなたはいいと言うのですね」

 女系家族の貴族にとっては、母が違えば他人と同じ。麗景殿の女御さまが彼女を妹とし、可愛がるだけの義理もないのだ。それでも対面を許し、言葉を交わしてきたのも、彼女の人柄だけに他ならない。

「父上さまのお考えも、姉上さまの御立場も、ようわかっております」

 政敵である左大臣家を追い落とす勢いで隆盛を極める、右大臣家。しかし、この時点での真っ向からの対立は、朝廷を二分する争いになる。右大臣さまの判断は、いまは静観のとき。「その意を変えぬとあれば、切り捨てるのみ」と、冷たく言い放たれている。

 一方で、麗景殿の女御さまとそれに仕える我々一同は、東宮で在られる皇子さまをお守りすることで手がいっぱい。小なりとも障害になりうることは、排除することで意見が一致していた。

 彼女は孤立無援だ。

 それでも彼女はふいに顔を上げ、にっこりと笑った。その大きな目に、いっぱいの涙を溜めて。

「わたくしには優しい姉上さまが居り、気持ちの良い友も居ります。されども、ながみやさまには、誰一人とて居らっしゃらないのです」そして、深く頭を下げて平伏した。

「姉上さまの優しきお心、生涯忘れませぬ」

 それまでだった・・・。

 静かに座を立つ彼女を、最早、誰にも止められはしなかった。


 狭い宮中、しばらくの間は偶然にばったり会ったりでもしたら、どうしようかと心配したものだったが、すべては杞憂に過ぎなかった。

 彼女の動向を考えれば、すぐにわかる。

 頭のいい彼女のこと。何でも先回りして、彼女のほうから避けてくれていたのだ。

 やがて独立した久の宮さまと一緒に、彼女は宮中を去った。

 あれから何年経ったのだろうと考え、その余りにも長き月日に茫然とし、いまとなっても友としてくれていることを嬉しく思った。

 その友からの文だ。

 開かないわけには、行かないだろう。

 文箱のなかには、二つ折りにされた文と和歌の書かれた短冊が納められていた。

 文を開けてみれば、不義理を謝罪する言葉に、大皇の宮さまの身を気使う優しい言葉が長々とつづき、末尾に短く病の床に在ることが記されている。

 はっとして、短冊を手に取ってみれば―――。


   きみ恋し

     でる旅路は

          たのしけれ

         揺れる想いは

           あきの藤花


 あの人の元に旅立つのは、きっと楽しいことでしょう。ただ心残りは・・・。

 彼女には姫がひとりあった。

 その名こそが、藤の宮。

 これでは、まるで辞世のうただ。

 しばしの間、愕然とし、すぐに文箱を手に局を飛び出した。

 

 あの騒動以来、彼女の名は禁句みたいになっている。

 それでも、どんなお叱りを受けようが構わない・・・。

 挨拶もそこそこに北対屋きたのたいのやに踏み入ると、大皇の宮さまが訝しげに目を細めた。それに構わず、大皇の宮さまの前に座を取ると、ふたりの間に文箱を置いた。

「長らく不義理をつづけていた、友からの文にございます」

 大皇の宮さまはしばし無言で文箱を見詰めていたが、やがてパチリと扇を鳴らした。

 人払いの合図に、北対屋に詰めていた女房たちがぞろぞろと退席して行く。

 それを待って文箱を手に取ると、ただ黙って文を読み、短冊を読む。

 その目が大きく見開かれた。

 絵式部が詰め寄るように前に膝を進ませると、それを遮るように小さく首を振る。

「わたくしは何も見ていない、知りもしない―――」

「―――ですが、それでは!」

 思わず出掛けた抗議の声を、大皇の宮さまは有無も言わせぬ口調で遮った。

「これからすることの全ては、あなたの友のため。―――典薬頭てんやくのかみに文を書きます。準備を」

 絵式部は声を無くし、息を呑んだ。

 典薬頭とは、帝の御身おんみ、ただ一人を看るためにいる。その人を動かすとなれば、多方に軋轢を生むことになる。それを右大臣家とは関係ない、自分ひとりのままとして、すべての責任を背負われるおつもりなのだ。

 ふいに目の前が涙でじわりと歪み、見えなくなった。

「―――急ぎなさいっ!」

 その声に、弾かれたように座を立った。



 まさに四方八方、関係各所に八通の文が出された。

 絵式部が使用したすずり箱を片付けていると、ふいに声を掛けられた。

「確か、ながみや殿が可愛がっていた女童がいましたね。名を覚えていますか?」

 その問いに大皇の宮さまを見れば、和歌の短冊を手に考え込む姿だ。

 絵式部は眉間にしわを寄せ、記憶を遡らせた。

 そう問われてみれば、あの頃、使い走りをしている女童をよく目にした。

 如何いかに互いに避けようとしても、典礼や儀式ともなれば別だ。彼女は頑なに理由を付けて出席しなかったが、久の宮殿は出席していた。その背後に付き従う女童が確かに居た。

 細身の目がクリッとした、利発そうな娘だ。しかし・・・。

「―――申し訳ありません。名は聞きそびれておりました」

「そうですか・・・」

 大皇の宮さまは呟くようにおっしゃられると、短く息を吐き、短冊を文箱に納めた。

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