その参 久の宮の娘

 生命いのちとは、如何いかに儚いものなのだろう・・・。

 美人薄命とは言うが、彼女だったら何と言うのだろうか。

 また冗談めかして、笑い飛ばすのか。それとも、愛する人とそう時をたがえずに死ねた喜びを語るのか。

 きっと何事にも前向きな彼女のこと、後者に違いないのであろうが・・・。

 心ここにあらずで典薬頭てんやくのかみの言い訳染みた言葉を聞いていて、大皇の宮さまが丁寧に礼を述べられ、労をねぎらう声が聞こえていなかった。

 間近でする衣擦れの音にはっとして顔を上げれば、典薬頭殿が退出するところだ。

 慌てて座を立とうとして、大皇の宮さまに押し留められた。

 じりじりとした気持ちで典薬頭殿の退出を待ち、すぐさま額を床板に擦りつける。

「―――申し訳ございませぬ!」

 それでも耳に聞こえてきたのは、大皇の宮さまのおもいやり溢れたお声。

「聞いていても、たいしたこともない話ばかり。―――構いません」そして、小さく吐息を漏らされ「面を上げなさい・・・」

 頭を上げると、そこには文を手に思いをめぐらせる大皇の宮さまの御姿だった。

 そう、今はまだ呆けている場合ではない。

 彼女の大切な宝玉、宮姫さまが居る。

 大皇の宮さまが手にされているのは、弔慰をお書きになられた文への返書。流麗な達筆な手に、まだ幼さを残す丸い文字で藤の宮と書かれていた。おそらくお傍仕えの女房が代筆したものに、署名したものなのだろう。

 お傍近くに頼りになる女房が居るのだと知れて、少しはほっと胸を撫で下ろした。

 しかし、大皇の宮さまのお悩みは深い。

 この院に宮姫さまをお引取りになるのは簡単なことなのだが、大皇の宮さまを母代わりにするともなれば・・・。

「やはり藤の宮を引き取るのはやめにしておきましょう」おもむろに、呟くようにおっしゃられた。「わたくしの手元に置けば、いずれは政治の道具として使わざる負えなくなる。このまま野にて咲くことが出来るのであれば、そのほうがきっと幸せになれるでしょう」

 絵式部は頷くしかなかった。

 大皇の宮さまの意中がどうであろうとも、それを許してはくれないのが政治の世界だ。政治の道具として使われ、翻弄ほんろうされた彼女の身の上を想えば、その忘れ形見を同じ運命に遭わせるわけにはいかない。

「―――されども、幼子が主の邸です。そのことをゆめゆめ忘れぬよう、これからも決して目を離さぬように」

 その指示に、絵式部は深々と平伏して応えた。



 月日は飛ぶように行き過ぎ、人の世は移ろいやすい。美人の代名詞のように言われていた彼女の名も、年を明けてしまえば、すっかりと聞かれなくなった。

 それでも絵式部は細々と流れる久の宮家の噂に耳を澄ませていた。

 はじめのころこそは穏やかに過ごしていたようだが、月日を追うごとに流れる噂は悪いものばかり、とうとう夏の陽射しに深き緑の木々が輝きだす頃、その日の食事にも事欠くありさまと。

 ことここに至って、絵式部は決断した。

 すぐさま北対屋に足を運び、大皇の宮さまの耳に入れる。

 一旦、決断してしまえば、何事にも素早い大皇の宮さまのこと。

「牛車の用意を! 迎えに行きます」

 絵式部は深々と平伏し、その意を承ると足早に対屋を後にした。



 二条堀川と言えば、小なりとも瀟洒しょうしゃな邸が建ちならぶ高級住宅街だ。

 その地を、都の道ならば裏路地まで知る牛飼いが行ったり来たりを繰り返した。やがて恐る恐るといった様子で頭を垂れた。

「おそらく、ここだと思われますが・・・いかが致しましょう?」

 ふと目をやれば、夏草が門前まで覆い隠し、しばらく続いた長雨に崩れた土塀が手も入れられることなく放置されている。

 昼日中だからいいものの、夕刻以降になれば誰も近づかないのではと思われる、物の怪の棲み処みたいだ。しかし、そんなものを恐れる大皇の宮さまではない。

 牛車は夏草を踏み分け、門のなかへと乗り入れられた。

 かつては小さくとも華やかだったであろう邸には人気ひとけが無く、生い茂る夏草に庭先を通ることを諦めた牛飼いは、手近な車宿りの前に牛車を停めた。

 なかに向かい牛飼いに声を掛けさせると、絵式部は腰で壷折にしてからげたうちぎの裾を押さえて牛車を降り、がりかまちに立った。

 長い簀の子縁をしずしずと足音もさせずに姿を見せたのは、下女と思われる痩せた目のクリッとした娘だ。

 腰の下まで伸びる長い髪を頭のうしろで一つに結び、何度も水を通したであろうひとえの着物を着流しに、腰から下を赤の前掛けで覆っている。

 娘は流れるような所作で、上がり框の床板に手を着いた。

「どちらの御家中であらさられまするかは存じませぬが、当家はただいま御覧のような有りさま。お客様を御通しする客間も御用意できぬとありますれば、どうぞ御名前をお伺いさせて頂きたいとお願い申し上げます。後程、当方より出向き、御用の向きお伺いしたいと存じ上げまする」

 すらすらと淀みの無い口調で口上を述べ、なお一層頭を低くして見せた。

 絵式部は舌を巻き、声も無く娘の頭を見下ろす。

 あれほど多くの使用人を抱えた院の御所。厳しく教育をしているつもりではいるが、これくらいに達者な口上が出来る者と言えば、数えるくらいだ。それを、まだ眉も整えぬ娘が行っている。

 無言でいる絵式部に、娘が上目使いに視線を上げた。

 絵式部は咳払いを一つ、威厳を取り繕う。

「大皇の宮さまの御来訪です。藤の宮さまに御取次ぎを」

 娘が驚きに顔を上げ、絵式部の肩越しにちらりっと視線を走らせた。牛車の御紋を確認したのだろうが、その目がすうぅぅと細まった。口元に浮かぶは、薄ら笑い。まるで、得物を見付けた狼だ。

 許しも無く娘が頭を上げ、姿勢を正した。

 ふと背後を見れば、ひとりで牛車のしじを降りる大皇の宮さまの御姿だった。

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