最終話 秋の藤花
車宿りの前に停められた、牛車。
しずしずと降りる大皇の宮さまに、牛飼いをはじめ護衛の従者たちが地に片膝を着いて
絵式部は慌てて止めにかかった。
屋外で、ましてや姿隠しの几帳もなしに貴婦人が姿を見せるなど考えられない。しかし、大皇の宮さまに「どこに、盗み見る人影があると言うのです」と一蹴された。
大皇の宮さまはそのまま辺りも気にせずに歩みを進められ、上がり框のまえに立たれる。
「藤の宮の元に、案内しなさい」
娘は大皇の宮さまをまえにしても、一礼さえしない。両手を膝の上に置いて姿勢を正し、挑むように目を輝かせた。
「それは、ちょうどようございました」唇の端を上げ、フッと笑い「明日にでも、姫を連れて行こうと思っていたところです」
不躾な娘の態度に、注意を与えようと身を乗り出したら、大皇の宮さまが右手に持たれた扇で制された。
「
「決まっているではないですか! 姫を引き取ってもらうためです」そして、ふぅと長く息を吐く。「米も油もなく、炊事に洗濯と
乳姉妹との言葉に、絵式部は娘を見て固まった。
貴族の
まじまじと娘を見れば、その大きなクリッとした目元に幼いときの面影が残っている。
「あなた、
「今頃になって、気が付いたのですか!」
大皇の宮に遮られ、言葉を無くす。
「それで、
「母は・・・」
言い掛けて押し黙った娘に、大皇の宮が鋭く問う。
「あの人は、わたくしの母に仕えた女房ですよ。その人と成りなら、あなたよりもよく知っています―――どこに居るのです?」
「母は他家に勤めを変えました」一旦、視線を落として囁くように言ったものの、すぐにキッと見詰め返す。「我が家は貧乏学者ですので、母までがこんなあばら家で遊んでいるわけにはいきません!」
「なるほど・・・」
大皇の宮さまは呟くように言い、ぐるりと宿りを見回した。
「それで、藤の宮はどちらです?」
「こちらにどうぞ―――すぐに、姫に用意させます」
娘はすくりと立ち上がり、なかを指し示す。そして、草履を脱ぎかけた大皇の宮さまに。
「どうせ汚れた邸です。履物はそのままで」
そう言い残し、すたすたと先に立った。その後姿に、大皇の宮さまがフッと口元を緩める。
これは危険な兆候だ・・・。
絵式部は眉根を寄せて、大皇の宮の後を追った。
娘は長い簀の子縁を、ぺたぺたと行儀悪く音を立てて歩む。
出迎えに出た娘とは、まるで別人のような豹変振りだ。
どうやら邸の中心となる寝殿に案内しているみたいだが、以前は小さきとも華やかだったろう前庭は夏草に侵食されて見る影も無い。池に突き出た吊り殿までもが、蔦に埋もれて緑に染まって見えた。しかし、通りかかりに覗いた
生活に必要な部分と使わない部分に別け、清掃しているようだ。
絵式部はホッと息を吐いて、前を歩む大皇の宮にそっと囁く。
「これなら宮姫さまがホコリ被りということは、なさそうですね」
その声に、先頭を行く娘がキッと眉を吊り上げて振り返った。
「こんな邸とは言え、誰もが恩知らずとは限りません! なかには受けた御恩に、犬馬の労たろうとも恩返しせんとする、心ある者も居るのです」そして、声を荒げたことに、恥じるように視線を落とす。「この人なればと信じたものが、次の日には貴重な調度もろとも姿を消す・・・そんな毎日です。たいした物も残されてませんが、ごゆるりと―――」
再び背を向けて歩みを進める娘の背に、大皇の宮さまが問うた。
「久の宮殿はたいした読者家であらさられた。古今から集めた書籍はどうしましたか?」
娘は振り向きもせず、淡々と応えた。
「
その訳もわからない返答に、絵式部は頭ひねり、大皇の宮さまは声も立てずに口元を緩め、お笑いになられた。
やはり案内されたのは寝殿だった。
見るべき物もない室に、妙に反響して娘の声が響く。
「こちらで、しばしお待ちください」
背を向けて足早に出て行く娘に、絵式部は慌てて手を伸ばすが届かなかった。
「もぉ
その呟きに、大皇の宮は室を見回しながら興味もなさげに応える。
「客人の着物の裾が汚れぬよう、草履のまま上がれと先回りして気を使う娘ですよ。そんな物が残っていたのなら、とうに出してるでしょう」
「ですが・・・」
つられるようにガランとした室を見て、絵式部は疑い深げに唇をすぼめる。
「ほんとうに久の宮殿の書籍など、残っているのでしょうか?」
その声に、大皇の宮さまは楽しげに目を細められた。「あの娘の言葉を聞いていれば、あながち嘘ではないのしょうよ」
そして口元を緩められた。
「あの娘が使った言葉、犬馬の労とは『三国志演義』のなかで、諸葛亮が劉備に仕えることを承諾したときの言葉です。自分の力をへりくだって、犬や馬のごとく主に仕えると誓ったもの。そして―――」
一旦言葉を切ると、さも可笑しげにお笑いになられた。
「後漢の末に書かれた『風俗通儀』のなかに、
詰まりは、あの娘は書籍なら自分の頭のなかに仕舞ってあると言ったのです。自分が死んだとき、直接、久の宮殿にお返しすると。
『風俗通儀』など読んでいる好き者は久の宮殿だけだと思っていたのですが、自分の頭を
絵式部が目を丸くして「はぁ・・・」と唸ると、大皇の宮さまは皮肉気に唇の端を上げられた。
「あなたも、漢籍は女が学ぶべき物ではない、などと古い因習に捕われていると、あの娘にバカにされますよ」
絵式部は身を縮込ませて、「申し訳ありません・・・」と謝罪する。
横目で盗み見る大皇の宮さまは、たいそう機嫌がいい。もともと御自身が頭がいいだけに、頭の切れる者を好まられるのだが・・・。
あんな訳もわからない娘なんて、持っての他だ。
絵式部はいらいらと室を見回すが、腰を降ろせそうな物など何もない。
「やはり宮さまを、このまま立たせておくわけには参りません。何か探してきます」
大皇の宮さまは特に意識を向けるでもなく、気もそぞろでおっしゃられた。
「あなたの好きにしなさい。わたくしも勝手にしますから」
了承を得た絵式部は、足早に寝殿を後にした。
寝殿造りの貴族の邸など、大小の違いはあれども似たようなものだ。
中心に南向きの正殿となる寝殿を置き、東、西、北に
絵式部は左右を見て、その
見ず知らずの邸を自分で探すより、聞いてしまったほうが早い。
釜の火を絶やさぬ大盤所なら、誰かしらはいるはずだと進んで行くと、切羽詰ったような話し声だ。
そっと入り口に近づき覗き見れば、三人の下働きだろう男女に懇願する娘の姿だった。
頭を下げる娘に、人の良さそうな丸顔の中年の男が困惑気味に眉を八の字にする。
「そりゃ紀ぃーさんの頼みなら、何だってきいてやりてぇけどよぉ・・・。宮さまなんて怒らせちまったら、紀ぃーさんの働くところが無くなっちまうよ」
すると、まるまる肥えた中年の女が目に涙で口を出す。
「あんた、美濃さまの稼ぎだって、ここに全部使っちまってるんだろ―――」そして、前掛けの端で涙を拭いながら「あたしゃ、あんたが不憫で不憫で・・・なにかっちゃ紀乃、紀乃って、あんなに久の宮さまに実の娘みたいに可愛がられてたのに・・・」
その泣き声に、二人の背後に立っていた身体だけは大きいが、まだ顔に幼さを残す従者だろう青年が顔を歪めて呟く。
「おでぇ、紀ぃーちゃんが泣くとこ、もう見たかねぇ」
暗く肩を落とす三人に、娘は明るく笑って見せた。
「バカねぇ、泣くわけないじゃない。貧乏学者って言っても、わたしが食べるくらいは何とかなるのだから。だけど―――」
娘は言葉を切って眉を寄せ、目元を曇らせた。
「宮には持参できる物なんて、もう何も残されてないの。こうでもして大皇の宮さまの同情を引かなきゃ、きっと置いていかれちゃうわ」
そして、改めて姿勢を正すと、手を着いて深々と頭を下げた。「これが、最後のお願いよ。みんなの溜まっている給金は、わたしのこの髪を売ってでも工面するから。だから、これが最後の御奉公だと思って、宮のためにお願いします」
慌てて三人が娘に駆け寄った。
「おいおい、やめとくれよ! わしらが紀ぃーさんの頼みを断るわけないだろ・・・」
「―――そうだよ。紀ぃーちゃんに言われたらねぇ」
「おでぇ、何だってやるどぉ」
涙ぐんで「みんな、ありがとう」と礼を言う娘の声に、絵式部はそっと顔を隠した。そして、扉の影にこそこそっと身を潜めると、娘は小走りに大盤所を飛び出して行った。
絵式部は静かに息を吐く。
娘の豹変の理由も、何をやろうとしているのかも、よくわかった。
まったく感心するやら、呆れるやら―――あの短時間にこれだけのことを思いつくとは、まさに大皇の宮さまの見立て通りだ。
しかし、御傍仕えとしては失格!
ほんに宮姫さまの未来を想うならば、正直に総てを話し、地に額を着けてでも願い出るのが本来の姿。それが、破れかぶれの体当たりなんて・・・。
宮姫さまを引き取って貰えれば、万事うまく行くと考えているのだろうが、もし
この娘が自分の配下の女房なら、こんこんと説教してやるのに―――そう思って、ぶるぶると首を振る。
頭がいいうえに、こんな何をするのかもわからぬ面倒くさい娘など、ごめんだ!
しかし、放っておくことも・・・取り敢えずは、すぐに大皇の宮さまに報告しておこう。
音を立てぬよう気を付け、絵式部は元来た道をこそこそと戻った。
急ぎ足で寝殿に戻ってみれば、そこに大皇の宮さまの御姿はない。
もう一度、妻戸を出て辺りを見回してみると、少し離れた
絵式部が急ぎ足で近づくと、それにお気付きになられた大皇の宮さまは唇の前に指を一本お立てになられた。
その耳元に大盤所で見てきた光景を話す。
すると眉を寄せられ、訊き返された。
「あの娘の呼び名は、紀乃と言うのですね?」
思わぬことを訊かれ、絵式部は目をパチクリとさせながらも頷く。
「はい・・・紀ぃーさんとか紀ぃーちゃんと呼ばれてましたから、確かだと」
大皇の宮さまはそっと吐息を
「あの人ったら・・・」
そうおっしゃられ、東対屋の明り取りの
絵式部がその蔀から中を覗いてみれば、あの娘がまだ幼さを残す姫の装束を調えている。ぱっちりとした目に、ふっくらとした頬は美人で名高かった
あれが藤の宮さまなのだろう。
娘は成人前の貴族女性の姫装束、
その間中、その口は動きっぱなしだ。
「―――だから、わたしたちが出て行くと言ったら、宮はよょょって泣くだけでいいの。簡単でしょ?」
その問い掛けに、宮姫さまは目元を今にも泣きそうなほどに曇らせた。
「わたしも、紀乃と一緒に行ってはいけないの・・・」
娘はその目を覗き込むように見上げ、言い聞かせる。
「あんたは貧乏学者の世話になるような御血筋じゃないの。大皇の宮さまの元に行って、身分ある人と結婚して、この御邸を再興しなければならないのだから―――」
そして、一旦口を閉じ、じっと見詰めて「久の宮さまも、御内侍さまもきっとそれを願っている。だから、院の御所に行ったら、いい子にするのよ」
それでも悲しそうに目を伏せる宮姫さまに、娘は明るく笑って見せた。
「―――大丈夫よ! 大皇の宮さまに姫はいないもの。宮ならきっと可愛がってもらえるから。それに院に行けば、朝からご飯、食べ放題よ」
娘が宮姫さまの気持ちを引き立てるように明るく笑い掛けていると、妻戸の方から声がした。
そちらに目を移せば、妻戸のまえの簀の子縁の下の地に、先ほどの三人が首から大きな風呂敷包みを背負い、手に鍋やら釜を抱えた夜逃げのような姿で立っている。
「紀ぃーさん、わしらは準備できたけんど・・・」
そちらに目を向けた娘が「ありがとう」と礼を口に、三人の方へと飛んで行った。
これから出て行く御芝居の打ち合わせなのだろうが・・・。
背後からの衣擦れの音に振り向けば、大皇の宮さまがさっさと足を進めている。
「行きますよ。いつまでも、こんな猿芝居に付き合ってはいられませんからね」
絵式部は慌ててその背を追った。
顔を突き合わせボソボソと相談していた四人が、大皇の宮さまの突然の出現に、唖然として目を見開いて静止する。それでも、娘は気丈にも三人の下働きたちを守るよう、しずしずと歩む大皇の宮さまの前に立った。
「寝殿でお待ちくださるように―――」
その言葉を遮るように扇で娘を端に寄せ、大皇の宮さまは三人の前に立ち、簀の子縁の上から見下ろした。
その威厳に、三人が慌てて地に膝を着き、頭を垂れる。
「本日までのあなた方の奉公、藤の宮に成り代わり礼を言います。
久の宮殿も大変にお喜びでありましょう。
あなた方の滞っている給金は、わたくしが面倒をみます。それを持ちて、他の地で別の暮らしを持つも良し、わたくしに従いて院に奉公するも良し、好きに選びなさい」
三人はポカンッと大皇の宮さまを見上げたが、すぐにボソボソと相談して深く
「我ら三人、大皇の宮さまに御仕えさせて頂きとうございます」
代表して応える中年男の声に、大皇の宮さまは深く頷かれた。そして、対屋に振り返られ、宮姫さまへと顔を向ける。
「藤の宮、あなたはどうしますか?」
そう問い掛け、泣きそうに目を歪ませる宮姫さまをじっと見詰めた。その影で、娘が手を
きっと泣き真似をしろと指示しているのだろうが・・・。
ふいに大皇の宮さまが手をお伸ばしになり、娘の頬をむぎゅっと摘まみ、静かにさせた。
「自分の意思で決めなさい!」
宮姫さまはおどおどと目を
「紀乃が行かないのなら、行きません・・・」
「何言ってる―――イタタ・・・」
大皇の宮さまは思わず口を出しかけた娘の頬を、ムニーと摘み上げて黙らせた。
「それでは、仕方ありませんね―――」
その声に、つい口を挟みかけた絵式部に向かい指示を飛ばす。
「この娘の装束を直しなさい」
「それでは、この娘も一緒に連れて行くと―――!」
大皇の宮さまは口元を緩め、宮姫さまに向かってお笑いになられた。
「これなら、院に行くのも構いませんね?」
おずおずとコクンッと頷く宮姫さまに、「口でお返事なさい」と優しく注意を与える。
「はい・・・」
宮姫さまは小さな声だが、はっきりとお応えになられた。
その返事に大きく頷かれ、娘へと向き直られる。そして、空いている手でもう片方の頬をむにゅっと摘み、ムニーと引っ張る。
「今一度、わたくしを
「―――はひ・・・わはりまひた・・・」
娘は涙目でコクコクと頷く。
「では、あなたも急ぎ用意なさい」
大皇の宮さまは娘を解放し、その背を押した。
娘は大皇の宮さまに向かい大きく一礼して、両の頬を押さえながら小走りに去って行く。
絵式部はその背が遠ざかるのを見詰めながら、抗議の声を上げた。
「あんな頭の回転が早い、何をしでかすかわからぬ娘など、危なくて宮さまの御傍になど置けません!」
しかし、大皇の宮さまは微かにお笑いになると詠じられた。
きみ恋し 出でる旅路は たのしけれ 揺れる想いは あきの藤花
「秋に藤花では、おかしいでしょう」
そう問われ、絵式部は考え込む。
文が送られてきたのが秋だったため、今まで疑問にも思わなかったが、たしかに藤は夏の花だ。
秋の和歌に詠み込むには、違和感を感じざるを得ない。
何度か短く暗唱しているうちに、ふと気が付いて目を丸くした。
あ・・・きのふじばな・・・。
あぁぁ、紀乃と藤宮。
あの冗談好きの内侍なら、やりかねない
「あの人ったら、最後まで・・・」
大皇の宮さまは微かに声を立て、お笑いになられた。
「内侍の最後の頼みですよ。断れますか?」
絵式部は静かに首を振った。
頭のなかに浮かぶのは、茶目っ気たっぷりに笑う内侍の顔。
いつしか絵式部も口元を緩めて笑っていた。
了
都の空の朧月 穂乃華 総持 @honoka-souji
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