その六 救出!

 後ろも見ずに走ってしまえば、大照寺の大門はすぐだった。

 紀乃は閉ざされた門に辿り着くなり、力の限り門を叩く。しかし、先ほどからの騒ぎを聞きつけていたのだろう。人の気配はするが、大照寺は沈黙を保ったままだ。

 紀乃はその沈黙を破るように、居丈高に叫ぶ。

「開けなさい! 大皇の宮さまが御用です」

 院にほど近いこともあり、この御名は無視できなかったようだ。かんぬきを引く音のあとに、細く門が開けられ、まだ若い尼僧が怖々と顔だけを覗かせた。

「夕刻、姫が訪れたはずです」

 紀乃の早口で捲くし立てる声に、尼僧は微かに頷いた。

「御名前はおっしゃりませんが、庵尼さまが立ち居振る舞いから見ても、良家の姫君だと……」

 流石に都の真中に寺院を築くぐらいだ。この庵尼と呼ばれる本人が貴族か、またはそれに近い人物に違いない。宮の素性ぐらい簡単に見抜いたのだろう。

「今、どこにいます?」

 畳み掛けるような紀乃の質問に、尼僧は言葉を詰まらせながら応える。

「庵尼さまが、奥の間で説得されております」

 まだ間に合う! そう思った瞬間、紀乃は尼僧を押し退け、門の隙間に身体を押し込んだ。

 弾かれたように尼僧が叫ぶ。

「何をなさります。ここは尼寺にございます」

「わたしは女よ!」

 紀乃は強引に押し通る。それにつづいて、東宮も元服前の水干姿すいかんすがたをいいことに、

「ぼくは子供だ!」

 と、強引に押し通った。

 それでも押し留めようとする尼僧を振り切り、二人は僧院に走りこむと、遠慮もなく上がり込む。




 大日如来だいにちにょらいに見守られる本堂を走り抜け、僧房が並ぶ回廊に出た。

 奥の間と言われても、初めての寺のこと、どこが奥の間なのかわからない。二人は回廊を走りながら、僧房の戸を片っ端から開け放つ。しかし、藤の宮の姿はない。

 東宮が最後の僧房に取り付き、戸を開け放った。

 坊の片隅で肩を寄せ合う尼僧たちの悲鳴に、東宮がたじろいで固まったように足を止めた。

 その東宮の肩の向こう。回廊の終わりに、僧房を囲むように新たな回廊がある。

 紀乃は東宮の背後を駆け抜けて右手に曲がると、回廊の延びたさきは一軒の小さな建物、離れへと続いている。

 紀乃は回廊を走り、離れの戸に取り付くと一気に開け放った。

 今度は当たりだ。

 初老の庵尼と思われる尼の向こうに、藤の宮がこちらを向いて座っている。室の片隅に衝立ついたてが置かれ、衝重ついかさねのうえに短刀や剃刀かみそりといった剃髪ていはつの道具が並べられてはいるが、藤の宮の流れるような黒髪は無事だ。

「紀乃……」

 藤の宮が驚いたように目を見開き、呟くような声を漏らした。

 紀乃は肩で大きく息を吐き、キッと藤の宮を睨みつける。

 ここまで来るのに、どれだけの人に迷惑をかけたことだろう。大夫の君は太刀傷まで負って……。

 足早に離れに踏み入り、庵尼を押し退けるように割り込むと大きく右手を振り上げた。しかし、藤の宮は逃げない。目をぎゅっとつぶり、唇を微かに震わせただけ。宮も、それだけの決意でここを訪れたのだ。

 紀乃は力なく腕を降ろした。




 これまで何かにつけて「紀乃っ」と甘えていた娘が、自分ひとりで考え、ここまで来たのだ。

 そのことを思うと、宮に言ってやろうと思っていた怒りの言葉や文句がどこかに消し飛んでしまい、宮の身体をギュッと抱きしめた。そして、口から漏れ出た言葉は恨みがましいものに。

「どうして、わたしを置いて行ったのよ……?」

「だって……」藤の宮は紀乃の胸に、顔をうずめたまま「紀乃には、頭中将がいらっしゃるもの……」

 へぇっ、どうしてそれを!

 紀乃はビクッと肩を上げ、思わず藤の宮の身体にまわした腕に力がこもる。

 藤の宮は紀乃の胸に顔を埋めたまま、クスッと笑みを零した。

「ほんとうは紀乃を取られるようで、嫌だったの。それでも、紀乃には幸せになって欲しい」

 顔を上げ、目の端に涙を溜めて紀乃を見た。

「紀乃が大好きだから」

 固まったように藤の宮を見詰める紀乃の唇から、声が漏れ出た。

「あんた、いつから……?」

「わたくしにだってわかる……。

 いつもは殿方のお話しなんてしない紀乃が、頭中将が行らしたときだけ、頭中将のお話しばかりだもの」

「へぇっ……」

 紀乃は呪縛から解けたように、ガクッと脱力した。

「ちょっと待ちなさい。誰が、誰を好きだって?」

「紀乃が頭中将を…………違うの?」

 僅かに小首をかしげる。

 よくよく思い返せば、思い当たることばかりだ。

 大皇の宮のお取り調べのときも、そのあとの喧嘩のときも、頭中将との初顔合わせのときも、この娘ときたら……。

「あんたの結婚相手にちょうどいいと思ったのよ。あれやこれや耳に入れて、あんたの気を引こうと思って……」

 藤の宮が目を丸くした。

「それでは……」

「全部、あんたの誤解よ」

 ほんとうのことは、恥ずかしいから宮には内緒だ。そのときが、もし来たのなら話せばいい。

「とにかく、髪を切るなんて絶対にダメよ。

 ましてや剃髪するなんて持ってのほか。今回の件はわたしが何とかするから、帰るわよ」

 これ以上、藤の宮と話していると、話がどう転ぶかわからない。

 紀乃は強引に話を打ち切り、連れ帰ることにする。




 そのまえにいろいろお騒がせしたことを、庵尼に謝らなければ。

 蚊帳の外にひとりポツンッと置かれていた庵尼に、紀乃は振り向き、手をついて深々と頭を下げた。そして、謝罪の言葉を述べかけたときだった。

 庵尼が「ひぃっ!」と息を飲むような短い悲鳴を上げた。

 顔を上げて庵尼をみると、目を見開いて後方を見ている。釣られるように視線を向ければ、衝立の裏にでも隠れていたのか、小夜が衝重ねのうえにあった短刀を手に立っていた。

「さぁ宮姫さま、髪を降ろしましょう」

 小夜がにこやかに頬を緩めるが、目は笑っていない。

 紀乃は藤の宮をその背に隠すように、ずざざざっと後ずさる。しかし、すぐに壁にぶつかった。

「紀乃さん、邪魔しますと怪我しますよ」

 ほがらかに言いながらも、短刀をチラつかせる。

 あんた、口調とやってることが真逆よ!

 面と向かって言ってやりたいが、ここは一先ひとまず冷静に、落ち着いて、ことを荒立てないように。

 紀乃が口を開きかけた矢先だった。

「宮には触れさせないっ!」

 誰かと思えば、離れの入り口に東宮だ。

「ばか! 早く逃げなさいっ」

 震える声で紀乃が叫ぶも、東宮は首を振った。

「ぼくはもう逃げない」

 東宮は腰の小太刀を抜いて、室に一歩、二歩と踏み込んでくる。小夜がわずらわしそうに顔をしかめ、短刀をまえにそちらに向かった。

 嫌な予感がひしひしと湧いてくる。と思ったら、やっばり……。




 小夜がやたらめったらと短刀を振り回せば、それに対する東宮も小太刀をめちゃくちゃに振る。

 東宮の腕前はもう知るところだが、田舎のお姫さまの小夜も剣術などやったことないのは明らか。おそらく短刀を握ることさえ、初めてなのかもしれない。それも入り口の真ん前でやられたら、逃げられもしない。

 紀乃にできる事と言ったら、「やめなさいっ!」と制止を叫ぶばかり。

 やがて、二人とも刃物を振り回し疲れたのだろう。肩で息をしだしたとき、東宮が隙をついて小夜に組み付いた。

 その勢いのまま、室の中央に倒れこむ。

 二人の手から刃物が飛び、空中をクルクルまわった短刀が、藤の宮を庇う紀乃のまえにタンッと突き立った。

「ひぃー!」とおののきながらも、このままにしておけない。紀乃が短刀を引き抜くと、その横を藤の宮が慌てたようすでいそぐ。

 立ち上がりかけた東宮がグラリとふらつき、ペタンッと腰を落とした。その身体を後ろから抱くように支え、藤の宮が東宮の耳に名を呼び続ける。

 打ち所が悪かったのか、目がうつろだ。

 紀乃は横でほうけて呆然としていた庵尼の手に短刀を渡し、その背を押した。

「早く、人を呼んで!」




 庵尼はハッとしたようにコクコクと頷き、よたよたと入り口に向かう。その姿を見送っていると、背後から唸るような小夜のうめき声だ。

 庵尼は一瞬ビクッと身を竦ませ、ジタバタといそいで入り口を出て扉を閉めた。そして、カタッという音は……。

 まさか、つっかえ棒を――。

 紀乃は慌てて入り口に向かい、戸を引くがビクともしない。

 わたしたちまで閉じ込めてどうするんだ!

 戸を叩いて人を呼ぶが、何の反応もない。

 そうこうしているうちに、また小夜の呻き声だ。

 振り向けば、東宮の取り落とした小太刀は室の中央に転がったまま。

 紀乃は這いずるように、いそいで小太刀を拾いに行く。腕を伸ばし、あとちょっとのところで、隣から手が延びてきた。

 小太刀を握ったのは、ほぼ同時。隣を見れば、髪を振り乱した小夜の顔。

 その目に浮かぶものは、狂気だ。




 小太刀を中央にして、籾合もみあう。力では負けないつもりでいたが、怪我することに頓着しない小夜に、紀乃はじりじりと押された。小太刀を避け続けているうちに、あっという間にその背は壁だ。

「だから、怪我するって言ったじゃないですか」

 こんなもので切られたら、怪我ですむかっ!

 言い返したいが、その余裕もない。

 藤の宮の泣き叫ぶ声が耳に届く。

「もうやめて! わたくしの髪なんて、どうでもいいから」

 しかし、じりじりと小太刀の白刃が迫る。

 腕はぶるぶると震え、もう限界も近い。

 間近に寄せられた小夜の顔に、笑みが浮かんだ。

「もう諦めて、お祈りでもしたらどうですか」

 ――嫌だ。

 どんな神だろうが、御仏みほとけだろうが祈らない。

 どんなに祈りをささげても、久の宮さまのときだって、御内侍さまのときだって、不幸はありふれた自然のできごとのように訪れた。あのとき、神仏にはもう二度と祈らないと決めたのだ。

 すべては自分の力、日頃の行い、最後のその瞬間まで足掻あがくだけ。

 紀乃は渾身こんしんの力を込めて、白刃を押し返した。

 小夜の余裕の笑いが、険しい顔つきに変わり、体重を掛けて押し返してくる。まったく分の悪い力比べだ。

 それでも、数瞬でいい、不幸の訪れを遅らせるために。

 そのとき、蹴破るような勢いで戸が開かれた。





「隆道、参上だ!」

 大夫の君は離れに飛び込んでくるなり、状況を理解したらしい。

 室を大股で横切り、小夜の腕を取ると、怪我をしていない右腕一本で小夜を組み伏せた。

 ホッとしてペタリと座り込んだ紀乃の手から、小太刀がカランッと音を立てて床に落ちる。

「――大丈夫か?」

 大夫の君が唇の端を上げて、ニヤリと笑う。

 紀乃は肩で息をしながら、コクコクと頷く。もう声も出ない……。

 ぐったりしていると、頭中将が荒々しい足音をさせ、配下の一団を引き連れて現れた。

 頭中将は離れのなかを一瞥いちべつし、的確に指示を出して事後処理にかかる。

 二人の従者が夢のついえて項垂うなだれる小夜を連れて行く。

 殺されかけはしたが、あのときああしていれば、こうしていれば、ああ言っていれば、こう言っていれば、想いは千々に乱れ言葉が出ない。

 その後ろ姿が、紀乃の心に重石となって残った。




 小夜と入れ替わり、頭中将が離れに入ってきた。

 無事を確認するような視線に、紀乃が居住まいを正して座り直すと、小さく頷いて東宮のまえで片膝を着いた。

「東宮……東宮! わたしがわかりますか?」

 頬を軽く叩きながら、優しく呼びかける。

 うっすらと目を開けた東宮が、ハッとして目を見開いた。

「――泰宗……」

 頭中将がほっと身体の力を抜くのがわかる。

「さぁ、帰りましょう」

「ぼくは宮を送って――」

「あなたが戻らねば、左近少将のクビが飛ぶのですぞ!」

 皆まで言わせず、怒気をはらんだ頭中将の声が遮る。

 東宮は目を見開き、やがてしゅんと肩を落とした。

 静かになった東宮の肩に腕をまわし、頭中将が助け起こす。そして、紀乃に顔を向けた。

「明日、あなたと宮姫さまには事情をお伺いすることになるかもしれません。使者を迎える御準備をお願いします」

 ことは東宮がらみだ。すべてが表ざたになったときには、公式な使者を迎えての尋問になることは予想に難くない。

 紀乃は頷いて応じる。

「三条邸に戻りしだい、文にて簡単な事情はお知らせいたします」

 頭中将は深く頷き、東宮を促して歩き出す。

 東宮と藤の宮、二人の視線が絡み合う。しかし、そこに言葉はなかった。

 去りゆく東宮の背を、藤の宮は目に涙を溜めていつまでも見送る。微かに唇が動いたようだが、その声は紀乃には届かなかった。

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