第五章 かえりみて 白きひろがる 雪の原 朝陽にそまる 春の藤棚

   五、かえりみて

      しろきひろがる

           雪の原

          朝陽に染まる

             春の藤棚



 慌ただしい一夜が明けた。

 大夫の君の刀傷に悲鳴を上げて右往左往した女房たちも、医師に薬師にと駆け出して行った家令たちも、もう朝とも言えぬ刻限ともなれば落ち着きを取り戻し、今はもういつも通りの三条邸だ。

 晴れわたる空からは、やわらかな春の陽射しが燦々と降り注ぎ、どこまでも透明な大気を温めている。しかし、しとみを閉じ、御簾みすが降ろされた西の対の屋に動きはない。




 紀乃は御簾の端に控え、中央にポツンッとたたずむ藤の宮を静かに見守っていた。

 今日は藤の宮も、いつ訪れるとも知れぬ使者を迎えるために、表が白、裏が萌黄の萌黄桜もえぎさくらの十二単だ。しかし、その可憐かれんな衣装とは裏腹に、すべての責任を一人で背負い込み、その横顔は憔悴している。

 昨夜は騒ぐ女房たちを横目に、大夫の君の「おまえは宮姫に付いていろ」という言葉に甘え、あれやこれやと世話を焼き、着替えさせるとすぐにしとねに入れたのだが、一睡も出来なかったのは明らかだ。

 妻戸をコトリと叩く音に顔を向ければ、陰に隠れるように常磐が簀の子縁に控えているのが見えた。

 紀乃は一箸も付けられていない膳を手に、御簾を出て歩み寄った。

 常磐は膳を見てチラリと藤の宮の方に目をやり、紀乃に問うかのように小首を傾ける。紀乃が小さく首を振って見せると、音を立てぬようにそっとため息を吐いた。

 膳を受け取りながら、「頭中将からよ」と紀乃の手に結び文を握らせ、対の屋に入らず、そのまま下がって行く。宮に要らぬ気をつかわせないための配慮だ。

 紀乃はその後ろ姿を見送り、文を開いた。




 頭中将にしては何の飾りも工夫もない結び文は、忙しい仕事の合間に、無い時間を割いて書いてくれたからだろう。それは、文の手にもよく表れていた。

 要点は三つ。


 一つ目は、昨夜の一件に付いてだ。

 政治上、勢力の均衡きんこうを図るためにも、左近少将の身は守らなくてはならず、自分の一存にて、昨夜の一件はなかったものにする。

 あなたと宮姫さまにおいても、すべて忘れて欲しい、と書かれていた。

 宮中は何に付けても、すべては政治絡み。

 今回の一件も、些細な出来事よりは政治という判断だったのだろう。


 二つ目は、小夜と従者たちの身柄だ。

 小夜と従者たちは、間をおかず地元に送り帰され、地頭じとうの裁きを待つことになるだろうと。おそらく小夜は少なからずの期間、実家に軟禁。従者たちは労役という裁きに。

 紀乃は小さく息を吐いた。短い期間でも、自分の下で働いた娘が罪人として、板車いたぐるまに乗せられることがないとわかり、少しは心が軽くなった。


 最後に、東宮の容態。

 東宮に置かれましては、宮中に御帰りになられるころには意識もはっきりとされ、ご自身の足で梨壷なしつぼにお戻りになられました。もう御心配に及ぶこともないでしょうと。

 そして末尾にて、昨夜の一件の責はすべて自分にあり、誰も罪に問われることがないようにと仰せられ、自ら一室に籠られて謹慎しておられます。少しは、御自身が担われる重責を御自覚されたようです、とあった。

 後先考えない行動でヒヤリともさせられたが、昨夜の一件で一番成長したのは東宮かもしれない。


 紀乃は文をたたみ直し、御簾に戻ると藤の宮に文を差し出した。

 その文を藤の宮は何度も読み返し、胸のまえに抱くと「よかった……」と呟き、涙を落とした。紀乃がそっと頭に手を置くと、肩にもたれるように顔を埋めせて嗚咽を漏らす。紀乃はその頭に何度も手を往復させ、泣き止むのを待った。

 使者が訪れることがないとわかれば、このまま寝かせてしまってもいいのだが、今は眠れやしないだろう。

 藤の宮が泣き止むのを待って、紀乃は静かに座を立った。

「あんたが喜びそうな物を、持ってきてあげる」

 そう言い残し、対の屋を出る。




 昨日の常磐の口ぶりからすると、宮の無くした荷物は東北の対の屋にある。

 渡殿わたどのをゆっくりと通り抜けて箱庭はこにわをまわり込む。

 ふと目をやれば、早咲きの桜が何輪か可憐な花弁を開いている。もうすぐ花見の宴が開かれることだろう。しかし、自分がその席にいることはない。

 もうすぐ宮中で、添い寝役の評定が行われる。おそらくは夜には、遅くとも明日には、この邸から去ることになるのだろう。そのことに後悔はない。ただ心配なのは、あの宮をこのまま残して行かなければならないことだ。

 紀乃はそっと吐息を漏らしながら打ち橋を渡り、妻戸のところで挨拶の言葉を掛けて遠慮なく対の屋に踏み入った。

 折りよく対の屋には、朱鷺姫ときひめ常磐ときわの二人きりだ。

 どうやら和歌の勉強をしていたらしい。巻き上げられた御簾の上座に文机を出し、二人で並び、その前に古今和歌集が開かれている。その場、その場に置いて、折の良い古今の和歌を暗唱してみせるのも、貴族女性の教養の一つだ。

 朱鷺姫がぱっと立ち上がり、居丈高に叫ぶ。

「誰の許しを得た!」

 その顔は和歌の勉強をしているときより、余程、活き活きして見える。

 横から、常磐がその袖を引いた。

「わたしが頼んで来てもらったのです」そして、御簾の端に目をやり「いつまでも、これをこのままにはしてはおけませんから」

 やっぱりっ!

 いくつか積み重ねられた荷物のうえに、御内侍ごないしさま譲りの古惚けた文箱が乗せてある。



 さしもの朱鷺姫もバツが悪そうに目を反らした。

 その横から、常磐が膝を進めてまえに出る。

「決して中を見てないとは言わないけど、中身はそのままよ」

 そして、言い訳がましく早口で言葉を継ぐ。

「こちらも戦々恐々としていたの。

 突然の宮姫さまの御引っ越しでしょ。それも御付きには、あの絵式部と何でも御座れの優秀な女房だって言うし、わたしは理由も告げられずに朱鷺姫さま付きを外されたしで――」

 常磐は溜め息交じりに、上目遣いで紀乃を見る。

「こりゃ、朱鷺姫さまをびしびし再教育する気だなって思うじゃない」

 それで宮の荷物を調べて弱みをさぐろうと……。嫌がらせやいたずらも、宮を追い出そうとしてなんだろうけど。

「宮は朱鷺姫さまと仲良くなりたいだけよ」

 常磐がフッと笑みを零した。

「それは初めの日の晩にはわかったわ。だから、いたずらもやめたの」

「――だったら、宮と仲良くしてあげて! お願いよ……」




 紀乃の心からの声に、常磐が重々しく頷く。しかし、朱鷺姫は鼻をそびやかし、胸を張った。

「それは、出来ぬ」

 また何なんだ、このへそ曲がり姫は!

 紀乃は胡乱な目で、朱鷺姫を見る。

「わらわが昨夜の騒ぎを知らぬとでも思ったか」

 チラリと常磐に目を向けると、小さく首を振って否定する。

「あの騒ぎで、慌てた家令の一人が添い寝役のことをポロリと漏らしたらしいの」

 紀乃はこの邸では、秘密が秘密にならないのを思い出した。

 常磐の話によれば、時が経つにつれ、噂には翼に尾ヒレと大きくなって邸のなかを泳ぎまわり、誰もが真相を訊ねようと虎視眈々と狙っているらしい。

 しかし、最も知りそうな紀乃は渦中の藤の宮に付きっ切りで訊ねようにも会えず、それで常磐にとなったらしいが、やはり話せるわけもなく、追い回されるのが煩わしくなって朱鷺姫のもとに避難していたらしい。

「昨夜の一件は、姫さまとはいささかも関わりないもの。宮姫さま個人の問題です」

 ピシャリと話を締め括ろうとする紀乃を、朱鷺姫は目を細めて睨む。

「それはどうだか……」

 そして、おもむろに藤の宮の文箱を手に取った。

「おまえはこの中身を見たことがあるのか?」

「わたしには、主人が大事にしている物を盗み見る趣味なんてございません」

 苛立ちを隠そうともせずに嫌味を吐く紀乃に、朱鷺姫はフンッと鼻を鳴らした。

「そんな些末さまつなこと、大事のまえには罪にもならぬわ」

 力強く言い切ると、文箱をパッと開けて一枚の紙を紀乃の目のまえに突き付けた。

「これを見よ!」




 それは書状というには、あまりにも幼い手が並んだものだった。子供が約束事を記した、覚え書きと言ってもいい。しかし、どんなに幼いころの物だろうとも、この二人の手を見間違うはずがない。これは真筆だ。


 左記の者を我が人生の伴侶と認め、この生涯尽きるまでも、必ずや幸せにすると、ここに誓う。

               孝仁


   先に記したる者をただ一人の夫とし、末期の世までも二心なきことをここに誓います。

               藤の宮


 一生懸命に背伸びして子供らしくない語句を使っているところに、二人の真剣さが伺える。

 この手の幼さからして、おそらくながみや家が堀川に引っ越すあたりか、そのすぐ前あたりに書かれたものだろう。

 あの頃といえば、大人たちは引っ越しの準備にいそがしく、殿舎の離れの一室で邪魔にならぬように三人でいたものだ。東宮の暴れん坊ぶりは相変わらずで、おとなしくさせとくために文机を並べ置いて二人を座らせ、自分の書いた手本を真中に御習字をさせていた。そのときに書いたものに間違いないだろう。

 真面目にやっているとばかり思っていたのに……。





 紀乃を現実に引き戻したのは、朱鷺姫の「どうだっ!」と言わんばかりの高笑いだ。

「あやつはすでに結婚していたのだ。

 少なくともこんなものを後生大事に持っている時点で、心はすでに人妻。こんな者が添い寝役を務められるはずがなかろう。これは国家を揺るがす、一大事じゃ。

 それでもわらわは無関係と言い張るか!」

 朱鷺姫は勝ち誇ったように、まだ薄い胸を反らした。

 どんなにしても頭を下げさせたいのだろうが、ゆっくりとつきあってもいられない。

「姫さまは、この署名の御方をご存知ですか?」

「どうせ貧乏宮か、それに類する者であろう。申してみよ」

 紀乃は深く息を吐いた。

 宮中でも、生まれながらの東宮を御名みなで呼ぶものなどいない。幼馴染の自分にしたって、御習字のときに名を書かせてみて知ったくらいだ。

 朱鷺姫が知らなくても当然なのだけど。

「わたしのような者が、気安く御教えできるような御方ではございません。兄上では知らないかもしれませんから、右大臣さまに直接お訊ねください。孝仁親王殿下をご存知ですかと」

「―――それでは……」

 やはり常磐はさっしがいい。




 傍らからの声に、紀乃は大きく頷いた。

「あの頃、久の宮さまは、左大臣派からは裏切り者とされ、右大臣派からは先の左大臣の傀儡かいらいと見なされて爪弾きにされていたわ。

 そんな所へ自由に出入りして、御咎おとがめも受けずにすむ御子なんて一人しかいないでしょ」

 常磐はやや青ざめた顔でコクコク頷く。そして、何か言いかけた朱鷺姫をキッと睨んで黙らせ、書付を怖々と再び文箱に納める。

 こちらはこちらで常磐に任せよう。それよりも……。

「取り敢えず、これだけ持って行くわ」

 紀乃は文箱を手に東北の対の屋を後にした。

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